こんにちは、アッティです。
「アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!
今回のゲストは、株式会社牛島屋 代表取締役社長の武内 孝憲 (たけうち たかのり) さんです。※2023年10月現在
1848年創業の呉服専門店「牛島屋」のほか、ブライダルプロデュースを中心とする「株式会社ハミングバード」や、富山市中央通りのまちなか活用プロジェクト「マチノス」の運営も手がけるなど、大活躍の武内さんに熱く迫っていきます!
この記事は、FMとやま 金曜17:15~17:25放送のラジオ「アッティの熱湯とやま人」の編集前データを、ほぼノーカットでまとめたものです。
放送では流れなかった裏話も含め、お楽しみください。
武内さんが牛島屋を継ぐまで
武内さんとアッティは同級生
アッティ
武内さん、1ヶ月間どうぞよろしくお願いします。
武内孝憲さん
よろしくお願いします。
アッティ
実はですね、武内さんと私は同級生なんですよね?
武内孝憲さん
そうなんですよ。
アッティ
1972年生まれですよね? 私は1971年生まれなんですけど、学年は一緒だと。
武内孝憲さん
そうでございます。
売薬から呉服への事業転換
牛島屋は1848年 (嘉永元年) 創業の老舗呉服店です。最初の3代は売薬商を営み、4代目で呉服業に転換しました。
江戸時代後期、町人の経済力向上に伴い呉服業が発展。4代目の兄弟たちは様々な業種に展開し、現在の「武内プレス工業」などにつながっています。
アッティ
まずは、牛島屋さんの会社を簡単に説明していただけますでしょうか?
武内孝憲さん
1848年 (嘉永元年) 、江戸時代のペリー来航よりちょっと前から呉服屋を創業しております。
実は、3代目までは売薬をやっており、4代目が「牛島屋そうしち」という屋号で呉服屋を創業しました。
アッティ
最初は、薬を売ってらっしゃったんですね。
武内孝憲さん
そうなんですよ。「金岡邸」さんや、「売薬資料館」の資料にも記録が残っています。
広貫堂さんで今も広く販売されている「六神丸 (ろくしんがん)」を、いまどきに言えば、輸入代理店として扱わせていただいてたんです。
薬の仕入れ先である京都に行ってるときに、呉服に出会ったと。実は呉服屋って、あんまり古い商売じゃないんですよ。
アッティ
えっ! そうなんですか?
武内孝憲さん
そうなんですよ。もともと町人が一番着ていたのは麻でした。
綿は高級だったので、自分たちで織ったり、古着として交換したりしてたんですよ。
アッティ
そうなんですね。
武内孝憲さん
昔は、お公家さんや大名さんなどの、出入りのいわゆるメーカー直販みたいな感じでした。
アッティ
なるほど。
武内孝憲さん
ところが、町人が徐々に力を持ち出したと。
アッティ
はいはいはい。
武内孝憲さん
町人でも絹の新しい着物を買える時代になり、一般の方に呉服を販売するようになった。それが、ちょうど嘉永元年か、そのちょっと前ぐらいだと思います。
アッティ
1800年代ぐらいですか?
武内孝憲さん
たぶん1800年ぐらいです。
三越の創業が、おそらくもうちょっと前だと思います。今あるデパートさんって、呉服商出身が多いんですよね。
アッティ
そうですよね、スタートは。
武内孝憲さん
そうなんです。だから呉服商として町人に商売できるようになったのは、江戸の中期から後期。
おそらく、京都に行ったり来たりする中で「これちょっといいんじゃねぇか?」って、思ったんじゃないかと思います。推測ですけど。
アッティ
なるほど。
武内孝憲さん
その流れで、4代目が呉服に商売替えをしたんですね。
そのとき、4代目の兄弟たちも事業意欲が旺盛だったのか、起業したり、養子先で商売を替えたりしてました。
兄弟の1人は「米屋三郎兵衛商店」という油を売ってたお店に養子に入ってから、「米屋三郎兵衛漆器店」として漆器店に商売替えします。それが、今の「米三 (こめさん)」なんですね。
アッティ
そうなんですか!?
武内孝憲さん
だから、創業年が一緒なんです。
アッティ
へえ~! なるほどね!
武内孝憲さん
また別の兄弟は、明治になってから「牛島屋金物店」を創業します。その会社が現在まで続き、大変立派になったのが「武内プレス工業」です。
4代目のときに、事業をするという時代の流れがあったんじゃないですかね。
アッティ
薬から呉服に行き、いろんなものに変わっていったと考えると、今、呉服を中心にブライダルなどいろんなところに行かれてるのは、何の違和感もない話なんですね。
武内孝憲さん
そういった今までの成り立ちが、行動や挑戦へのハードルを少し下げてくれてるなと思います。
敷かれたレールを進む葛藤
武内孝憲さんは、4人兄弟の長男で初孫として甘やかされて育ち、幼少期は引っ込み思案でした。
家族が経営する「牛島屋」がある中央通りが日常生活の中心で、遊び場は商店街という日々を過ごします。
大学は東京へ。祖父から家業を継ぐよう言われていましたが「自分の人生は自分で決めたい」という想いと葛藤し、将来の進路に悩みました。
アッティ
歴史のある会社に入られたということで、武内さんがどんな人だったのか、生い立ちも含めて聞いていきたいなと思います。
どんな幼少期でいらっしゃったんですか?
武内孝憲さん
親が言ってたんですけど、幼稚園のときなどは、わりと引っ込み思案だったらしいんですよ。
モジモジくんだったんじゃなかろうかと。
アッティ
本当ですか?
武内孝憲さん
私は4人兄弟の長男で、しかも初孫で、たぶんわりと甘やかされたんじゃないですかね。
アッティ
私と同じ年ですから、当時は富山市の中央通りに人が大勢いたときですよね?
武内孝憲さん
そうそう。
アッティ
「牛島屋」は中央通りにあるわけですが、当時はしょっちゅう行かれてたんですか?
武内孝憲さん
行ってましたね。家族がお店で働いていたので、通っていた青葉幼稚園から、総曲輪通りと中央通りを抜けてお店に帰っていました。
アッティ
なるほど、当たり前のように。
武内孝憲さん
私が生まれた実家は郊外にあり、今の住まいの近くでした。
だから私の場合、日常生活も遊び場も商店街だったんです。
アッティ
ほとんど中央通りにいたんですね。
武内孝憲さん
そうなんです。
アッティ
そこから大学は、東京の方へ行かれたんですか?
武内孝憲さん
東京に行きました。
学生のときは、どちらかというとあまりぱっとせず「将来自分はどういう方向に行ったらいいんだ」ということも含めて、いろいろともがき苦しみました。
うちの祖父からは「あとを継ぎなさい」と言われてきたんですが、高校を卒業して違う環境に行ったときに「自分の人生は自分で決めていかなきゃいけないんじゃないか」と。
敷かれたレールの上を進むことに、どうも違和感がありましたね。
アッティ
なるほど。
武内孝憲さん
そのときに「自分は何ができるのか」と、すごく葛藤した記憶があります。
アッティ
なるほど、ありがとうございます。武内さんの幼少期や学生の話を、お聞かせいただきました。
次回は、そこからまた富山に戻ってきて、実際に呉服屋さんで働くところのお話をいただきたいなと思います。
着物の持つ可能性
学生結婚をした理由
武内孝憲さんは、大学3年から4年に上がる時期に学生結婚をしました。
商売をする家庭の風習として、縁起や年回りを重視する傾向があったためです。武内さん自身はこの風習を完全に信じているわけではありませんが、周囲への配慮から従いました。
アッティ
前回は、牛島屋さんの事業内容や歴史、武内さんの幼少期や大学の頃のお話をいただきました。
武内孝憲さん
はい。
アッティ
聞いたところによると、学生結婚をされたと?
武内孝憲さん
そうなんです。客観的事実としては。
アッティ
客観的事実?
武内孝憲さん
大学3年から4年になるときに結婚して、当時はやっぱり珍しがられました。
でも私達にとっても、結構びっくりするような話だったんです。
商売をしてる方がみんなそうかは分からないのですが、たとえば「大安吉日」「先勝」「先負」「仏滅」だとか。風水じゃないですけど、年回りや方角など、昔からうるさくて。
アッティ
大事にされてるんですね。
武内孝憲さん
「この年がいい」とか「この年はやめとけ」っていうのがあったわけなんです。
アッティ
当然、結婚にもそれは絡んでくるということですね。
武内孝憲さん
そうなんです。これまでもいろんなことを左右されてきたんですけど、私自身はその風習をすごく信じて陶酔してるわけではないんですよね。でも、やっぱり「周りが一番気持ちいいのがいいだろう」ということで。
当時「年回りがいいのは、私が大学3年から4年になるときか、もしくはその4年後だ」と言われたわけなんです。
アッティ
4年後は待てなかったんですか?
武内孝憲さん
そのときは、4年は待てなかったんですよね。「若気の至り」というのかわかりませんが…
アッティ
4年後でも十分若いんですけど、そうなんですね。
奥さんと大阪修行へ
武内孝憲さんは大学を卒業し、結婚を契機に家業継承を決意しました。
大阪で2年半の修行期間を過ごした後、富山の牛島屋に帰還。大阪の規模の大きな市場と企業で多忙な日々を送っていたため、当初は富山の環境に物足りなさを覚えていました。
武内孝憲さん
大学を卒業したあとは、同業の大阪の呉服の小売店さんに行きました。当時の言い方で「丁稚奉公 (でっちぼうこう)」。
アッティ
修行ですよね?
武内孝憲さん
そうです、修行に行く形になってたんですよ。
そのときに、一緒に行ってお世話してくれる人がいた方がいいんじゃないかと。
アッティ
奥様と一緒に行かれたんですか?
武内孝憲さん
一緒に行きました。だから結婚して、1年は東京で、そのあと2年半ほどは大阪で過ごしました。
アッティ
丁稚奉公で呉服屋さんに行かれたということは、会社のあとを継ぐことは決めてらっしゃったんですか?
武内孝憲さん
結婚が一つの契機で、自分のこれからの人生を真剣に考える機会にもなったんですよね。
あとを継ぐことを決意して、大阪へ修行に行きました。
アッティ
大阪で丁稚奉公されて、富山に帰ってきたんですよね?
丁稚奉公は、何年経験されたんですか?
武内孝憲さん
2年半です。ちょうど、私が25歳か26歳になったときかな。
アッティ
そこから富山に帰って、すぐに牛島屋さんの会社に?
武内孝憲さん
会社に入りました。
アッティ
会社に入ってどうでしたか?
武内孝憲さん
会社に入ってみて、当時は物足りなさを感じました。これまで、大阪という、市場も会社の規模も大きなところで働いていたので。
良し悪しは別にして、すごくバタバタしてるところから富山の家業的なところに戻るのは、当時の私にしてみたら、のんびりしたところに来たなと。
着物業界の現状と想い
武内孝憲さんは、呉服店の減少と着物離れについて、「家業でなければ選ばなかったかもしれない」と感じていました。
しかし、お客様との関わりや作り手の想いに触れる中で、接客の魅力を発見。「代々続く家業を自分なりに継続したい」という想いが芽生えました。
アッティ
今、呉服屋さんてどんどん少なくなってきていて、着物を着る機会も減ってきてるじゃないですか?
それに対して、どう思われていますか?
武内孝憲さん
正直、この家に生まれなくても呉服屋を選択したかっていうと、たぶん「NO」だと思います。
アッティ
なるほど。
武内孝憲さん
でも、家庭環境として育った上で一つ感じたのは、「もし着物じゃなかったとしても、お客様とやり取りをする接客業にはすごく興味があった」とは思います。
「作り手さんがどんな想いで作ってる」とか、「商品を買われたお客さんがどういう気持ちで来ていらっしゃる」とかに触れられる接客は大切なものなので。
代が続いてきてる家業として、「自分も次に続けていきたいな」って想いはありましたよね。
着物の可能性と展望
武内孝憲さんは、着物の伝統的な美しさを大切にしながら、現代での新しい楽しみ方を提案。お客様との関係を大切にし、自ら和装で会食に参加するなど、着物を身近に感じてもらえるよう取り組んでいます。
特に、男性にも着物の魅力を知ってもらいたいと考え、着物文化を広める活動を模索中です。
アッティ
着物の可能性について、どう思われてるんですか?
武内孝憲さん
着物って、いくつか意味合いがあると思うんです。
着物の形を「着物」とも言いますし、着物の素材をさしても「着物」って言うんですよ。それが面白くって。
アッティ
なるほど。
武内孝憲さん
洋服だったら「洋服」と、素材が「ウール」とか。
アッティ
そうですよね。
武内孝憲さん
本当は「着物」と「絹」とか「綿」って言えばいいんでしょうけど。
アッティ
普通そう言いますよね。
武内孝憲さん
でも着物って、生地で売ってるものも形になったものも「着物」って言うんです。
アッティ
「着物」って言いますよね。
武内孝憲さん
いわゆる「着物」って、すごく大きな意味で使われてると思うんですよね。
アッティ
確かに。
武内孝憲さん
業界としては、着物を着やすい形とか、セパレートで分けてみたりとか、試行錯誤しながらいろんなことに挑戦してきたんですよ。
だけど結果的に今のこの形が残ってるのは、そこに「美しさ」や「残る理由」があるんだと思うんですよね。
ただやっぱり「着られない」「整理ができない」「わからない」ってことが多いので、着る人はどんどん減っていく。
アッティ
そうですよね。
武内孝憲さん
だけど「絹100%の素材」というのは、皆さんがふだん着られてるものの中に、そうそうないと思うんですよね。
アッティ
あんまりないですよね。
武内孝憲さん
「絹100%の素材」で身をまとう、身を包むってことには意味合いがあって、そこに「友禅」という絞りの技術などを駆使し、自分の身にまとうものを表現してきた。
そう考えると「着物が本来の素材として、どんな可能性があるのか?」というのは、これから探っていけるんじゃないかなと。
アッティ
もうちょっと当たり前のように、着物を着られる環境があってもいいような気はしますよね。
武内孝憲さん
アッティさんとご一緒するいろんな会合でも、たいがい和装は私1人なわけじゃないですか。
アッティ
そうですよね。
武内孝憲さん
やっぱり皆さん「いいね」とは言ってくださる。
アッティ
確かに。
武内孝憲さん
男性もみんな「着物を着たい」という気持ちはあるので、そこを私が、ぜひ着させていきたいと思っています。
アッティ
たとえば花火大会や、八尾のおわらなどのイベントのときに、「このチームで着物を着ていこうぜ」みたいな話が定期的にどんどん行われるようになっていくといいですよね。
武内孝憲さん
そうですよね。
アッティ
今回は、学生結婚をして家業を継いだ話や、着物の可能性についてお話をいただきました。
あっという間でありますが、今回は以上とさせていただきます。
マチノスとハミングバードの取り組み
中央通りの変遷と現状
かつての富山中央通りはDCブランドの店が並んで人で賑わい、若手経営者同士の交流も活発でした。
武内孝憲さんは商店街の衰退について、車社会になったことだけでなく、時代に合わせた機能変化の遅れが原因だと考えています。
アッティ
前回は、学生結婚して家業を継いだ話、着物の可能性や「まだまだ着物を諦めずに広げていきたい」という話をいただきました。
今回お聞きしたいのは、中央通り、総曲輪通りについてです。
以前「子どものときに中央通りでしょっちゅう遊んでました」「当たり前のように庭でした」みたいな話があったと思います。でも、今では中央通りや、総曲輪通りのお店がだいぶん少なくなってきてしまってる状況ですよね。
武内さんとは同級生ですからね、私たちの時代は「DCブランド」を着込んで、山ほど人がいて自転車も通れないぐらいの状態のときだったじゃないですか?
武内孝憲さん
そうですそうです。
アッティ
あのイメージが、今は全くない状況にありますよね。
武内さんは、中央通りの未来について「マチノス」という事業もされてますよが、今どういう取り組みをされていて、今後どうしていきたいとかってありますか?
武内孝憲さん
私は、戻ってきてすぐに「まち作り」に関わることになりました。
具体的にいうと、当時の「商店街組合の青年部」という団体に一番最初に入ったわけです。
アッティ
富山に帰ってきてすぐに。
武内孝憲さん
富山に帰ってきてすぐ、たしか6月に戻ってきたのですが「7月に中央通りでイベントをやります」と。
アッティ
いきなりね。
武内孝憲さん
その中央通りのイベントが、一番最初だったんですよ。
アッティ
へー。
武内孝憲さん
本当にあのときは、まちに行けば誰かに会えた時代で。
アッティ
まだ、そのときはそうだったんですね?
武内孝憲さん
そのときはね。DCブランドのお店がいっぱい並んでて、どこか出かけるっていうと「まち」っていう。
アッティ
「まちに行く」っていうことがね。
武内孝憲さん
ありましたよね?
アッティ
ありました、ありました。
武内孝憲さん
そういう時代だったので、ふだんから来街者もあったし、当時は商店街に可能性も未来もすごく感じてました。
「青年部」といわれる後継者の若い方たちも多くいらっしゃって、同じような境遇の人たちといろいろ話をしたり、まちの未来を語ったり、すごく充実していたんですよね。
それからだんだんモータリゼーションが発達して、郊外にいろんなまちが広がっていきました。
僕は商店街が衰退した理由が、モータリゼーションだけではないと思っているんですけどね。
アッティ
ショッピングセンターがどんどんできて。
武内孝憲さん
ショッピングセンターができてくると「商店街の位置づけはどう考えたらいいか?」と、活発に論議されてたんです。
でも私は、まちの機能やそれぞれのお店が変わっていかなきゃいけなかったのに、変わりきれなかった部分があるんじゃないかなと思うんですよ。
この気持ちは、当時から今でもあまり変わっていません。
アッティ
そうですね。
武内孝憲さん
たとえば、われわれの扱っている着物は、お客様に合わせてあつらえるんです。
当時は洋服屋も「服地屋さん」といって、洋服も全部、ほぼオーダー。S、M、Lの既製の服ってあんまり扱ってなかったんですよね。
それがだんだん既製服になって、要は「そこでなくても買えるもの」になるわけです。
アッティ
うーん。
武内孝憲さん
オーダーメイドから、仕入れ商売になっていくわけですよ。
アッティ
「絶対そこに行かなきゃいけない」って、なってこないですよね?
武内孝憲さん
なってこないです。
「車社会になって、まちが郊外にできたから」みたいに問題がすり替わってますけど、僕自身の考えは「そこに行かなきゃいけない理由がなくなっちゃった」からだと。
アッティ
それが最大の理由だと。
武内孝憲さん
と、思います。
「マチノス」の取り組み
「マチノス」は、富山中央通りの活性化を目指す取り組みです。
商店街に、人々が集まり交流する場所をつくることが目的。シェアスペースを設け、若手起業家を支援するなど、人々のつながりから新しいビジネスが生まれる環境づくりに励み、時代に合ったまちの姿を目指しています。
アッティ
商店街から人が離れていくという状況下で、「マチノス」というものを立ち上げられていますよね。
今後どのようにしていきたいっていうのは、あるんですか?
武内孝憲さん
商店街は「商店が並んでるまち」から「人がコミュニケーションできるまち」へ、変わっていかなきゃいけないと思うんです。
アッティ
なるほど。
武内孝憲さん
私達が学生の頃、「あそこに行けば誰かがいる」という「まちの楽しさ」がありました。
それってただ小売店が並んでたからだけではなく、コミュニケーションがある小売店が並んでたからだと思うんです。
そんな場所を増やすため、今はいろんな事業の形があるので、起業家を目指す若い人たちの後押しをしたいなと。
アッティ
なるほど。
武内孝憲さん
「マチノス」は、シェアスペース、フリースペースなので、人と人とを繋ぎ合わせるような場所として、まちの性格がその時代に合わせて変容していけばいいと思っているんです。
アッティ
混じり合うことによって、事業が立ち上がったり、スタートアップがどんどん起きたり、変革が生まれたりするように持っていきたいということですか?
武内孝憲さん
そうなんです。
「ハミングバード」の事業内容
武内孝憲さんは、「物を売るだけでなく、生活を豊かにする提案をしたい」という想いから、ブライダル事業「ハミングバード」を始めました。
ハミングバードは、着物の魅力や地域の伝統や風習を伝える役割もしています。
アッティ
新しいものがまわりに出来上がるだけでなく、もともと牛島屋さんは薬を扱ってらっしゃって、呉服に来て、いろんなところに動きがあります。
その中でもブライダルの事業で「ハミングバード」という会社を立ち上げてらっしゃいますよね。こちらは、どのような役割なんですか?
武内孝憲さん
ちょうど10年経つんですけど、当時「モノからコトへ」という、一つの時代を表現する言葉があったと思います。
「ずっと物売りでいこう」ってところに、僕は限界があるんじゃないかと思ったので、小売業もある程度はプロデュース業に変わってかなきゃいけないと。
アッティ
なるほど。
武内孝憲さん
要するに、お客様が必要とされるものを販売するだけじゃなくて、気づいてないことを気づかせてあげる。もしくは、買われたものをどう使ったらいいのかっていうプロデュースもする。
ただ単に物を右から左へ販売して流すだけじゃなくて、「それがどういうふうに自分たちの生活を彩るのか」を伝えていく必要があると。
アッティ
たしかに。
武内孝憲さん
着物そのものを扱うだけじゃなく、着物をどういうときに着たらいいのかとかね。
アッティ
そういうことですね。
武内孝憲さん
「なぜ着物が残ってきたのか」って、今はあんまり意味合いをご存知ない方もいらっしゃる。
アッティ
そうですよね。
武内孝憲さん
そこには、核家族化などのいろんな原因があると思ってます。
「おばあちゃんの知恵」のような、その地域に残る風習だとか、しきたりみたいなものだとか。
もちろん、世の中の流れで変わっていくものもありますけど、伝えていかなきゃいけないものもあるんじゃないかと。
アッティ
それが想いのきっかけだったんですか?
武内孝憲さん
はい。
アッティ
なるほど、ありがとうございます。
今回は、呉服屋さんの他に、中央通りの活性化事業「マチノス」と、ブライダル事業「ハミングバード」についてもお話を聞かせていただきました。
富山への想い&オススメ店&リクエスト曲
ふるさと富山について
武内孝憲さんにとって、富山という「場所の力」は自身のアイデンティティに必要不可欠な存在です。
「富山には何もない」と言われますが、実はその裏に豊かさがあります。新鮮な魚が安価で手に入る贅沢さなど、当たり前の中に価値があることを認識していないだけなのです。
武内さんは、富山の魅力を再認識し、みんなが楽しく暮らせる場所づくりを目指すことで、次世代の「ふるさと富山」に繋がると考えています。
アッティ
ここまで、生い立ちから始まって、メインの呉服の話、着物の可能性、中央通りの活性化、ブライダルプロデュース事業などについてお話をいただきました。
武内孝憲さん
はい。
アッティ
今回が最後回の4回目になりますけども、県外に行った経験もある中で、ふるさと富山についての想いをお聞かせいただけますでしょうか?
武内孝憲さん
やっぱり「育った場所の力」っていうのは、自分の中にルーツとしてすごくあります。
「場所の力」というのは、「商店街」だったかもしれないですし、自分が家業としてやってきた事業の中にもあったかもしれません。
富山の景色がいいとか、どこがいいってのはいろいろあると思いますが、自分の場合は、血肉化されて自分の中にあります。富山の風土や環境などが自分の育った環境と強くリンクしていて、自分を語る上では必要不可欠です。
私の場合、富山がこの先の自分を支えてくれる一つの「場の力」として、大きな存在になっていると思います。
アッティ
いいですね。
武内孝憲さん
よく「富山って何もない」って、僕らの世代でも言ってたじゃないですか?
アッティ
言いましたよね。
武内孝憲さん
それが、富山から1回外に出るきっかけになると思うんですよ。
そして最近思うのは「何もない」って言えるのは、すごい豊かなことだなと。
アッティ
ほう。
武内孝憲さん
たとえば、県外から富山に来る人は、富山の環境をすごく喜ぶわけじゃないですか。
アッティ
そうですね。
武内孝憲さん
たとえば、スーパーに行っても手ごろな値段で…
アッティ
地魚が食べられるとかね。
武内孝憲さん
「こんな値段でいい魚が売ってるのか」とか、よく言われるじゃないですか。
アッティ
そうですね。
武内孝憲さん
だけど、われわれは「当たり前」と思ってる。それって、めっちゃ豊かな話で。
アッティ
当たり前だから「何もない」って言ってるわけですよね。
武内孝憲さん
「当たり前」って、すごくネガティブな表現のように言われますよね。でも「何もない」って言ってるわれわれが、富山の本来の豊かさに気づいていかなきゃいけないって思います。
「ふるさと富山」は自分を形成してるもので、これから先の時代に生きていく人たちに、自分たちがどう生きるかを見せていくことが「ふるさと富山」と繋がるんじゃないかなと。
人生のこだわり
アッティ
武内さんの人生のこだわりって、何かありますか?
武内孝憲さん
富山に戻ってきて商店街活動したときもそうですけど、どうせここで生きていくならば、自分たちが楽しく人生を送れる場所を作り上げていくことを考えなきゃいけないなと思っています。
現状は、なかなかその通りにはなってないところもありますけども。
富山県内で大好きな飲食店
アッティ
たくさんあると思いますけど、富山でお気に入りの飲食店をひとつ教えてもらえますか?
武内孝憲さん
ずっと街中にいた身からすると…
アッティ
うん。
武内孝憲さん
街中の飲食店って結構少なくなっていて、最近は駅前に移っていかれるお店も多いですけども、私のお気に入りのお店は「キッチン花水木」さん。
アッティ
花水木通りにある?
武内孝憲さん
そうですそうです。富山の自然とか、富山の恵みを料理に活かしているところがすごく好きです。
アッティ
いいですね。
リクエスト曲
アッティ
武内さんのお気に入りの曲をリクエストいただけますか?
武内孝憲さん
こんなおっさんがリクエストするのもあれですが、BTSの「Dynamite (ダイナマイト)」という曲を。
アッティ
選定理由は何かありますか?
武内孝憲さん
娘が高校を卒業した頃にコロナ禍が始まって、大学の入学式が中止。それから2年間はフルリモートで、大学に1回も行ってない。
そんな中で、娘と過ごす時間がそれなりにありまして。
アッティ
なるほどなるほど。
武内孝憲さん
娘からいろいろと教わったんです。
アッティ
なるほど。
これからの夢や目標について
武内孝憲さんの将来の夢は、自身ができることをしっかりと頑張って、子どもたちの成長を見届けることです。
親子という枠を超えて話し合い、彼らの可能性を見守ることを大切にしています。
アッティ
最後の最後になりますが、武内さんのこれからの夢、目標についてお聞かせいただけますか?
武内孝憲さん
月並みになるかもしれないですけど、私は息子と娘あわせて子どもが3人おります。
自分の事業の後継も考えながら、親子というよりは、1人の人間としてすごく興味を持っているんですね。
いろんな話をする中で、彼らがこれから生きていく先の可能性を、自分もしっかりと頑張って見届けるのが一つの夢かなと思います。
アッティ
なるほど。
非常に歴史のある呉服事業から、多岐にわたって事業拡大されている話をお聞きして、「企業は時代に合わせて進化していかなければいけないんだな」と、痛感いたしました。
今月のゲストは、株式会社牛島屋 代表取締役社長の武内孝憲さんでした。武内さん、どうも1ヶ月間ありがとうございました。
武内孝憲さん
こちらこそありがとうございました。
アッティ
この番組のこれまでの放送は、ポッドキャストで聞くことができます。FMとやまのホームページにアクセスをしてみてください。
お風呂の中でのぼせてまいりましたので、そろそろあがらせていただきます。アッティでした。