
こんにちは、アッティです。
「アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!
今回のゲストは、株式会社島田木材 社長の島田 優平 (しまだ ゆうへい) さんです。※2026年5月現在
『100年後の文化の源泉をつくる」を掲げ、スマート林業と民間主導のまちづくりで井波の未来を切り拓いている、島田さんに熱く迫っていきます!
この記事は、FMとやま「アッティの熱湯とやま人」(毎週金曜17:15〜17:25放送)の収録内容を、ほぼノーカットでまとめたものです。
放送では紹介しきれなかった裏話も含めて、ぜひお楽しみください。
あわせて、YouTube版もご覧いただけます。
木の町・井波で育った林業家の原点

林業から観光へ広がる活動
島田優平さんは、南砺市井波で林業会社を経営しながら、地域活動や観光にも関わっています。
町の人との交流から「もっと町を元気にしたい」「山を生かしたい」と考えるようになり、活動の範囲を山から町へ広げました。
アッティ
こんにちは、アッティです。
この番組は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組です。ゲストにはマンスリーゲストとして、1カ月間にわたってご登場いただきます。
今月のゲストは、「100年後の文化の源泉をつくる」を掲げ、スマート林業と民間主導のまちづくりで井波の未来を切り開く、株式会社島田木材社長、そしてジソウラボ代表理事の島田優平さんです。
島田さん、どうぞよろしくお願いします。
島田優平
よろしくお願いします。
アッティ
今月は全5回ですので、たっぷりお話を伺いたいと思っています。
早速ですが、まずは島田さんのプロフィールと、会社について簡単にご紹介いただけますか?
島田優平
島田優平です。現在48歳です。
南砺市井波で林業の会社を経営しています。林業というと、いわゆる「きこり」ですね。山から木を切り出す仕事をしています。
最近は地域の取り組みに関わる団体も立ち上げ、地域活動も行っています。
アッティ
ありがとうございます。
最近、新聞で拝見しましたが、観光に関する取り組みにも携わっていらっしゃいますよね?
島田優平
そうなんです。林業をやっているうちに、あれよあれよという間に観光にも携わるようになりました。
山の仕事には、人里離れた場所で働くイメージがあると思います。でも、そこで関わっているのは町に暮らす人たちです。
そうした人たちと話していると、「もう少し町が元気にならないかな」「もっと山を生かせないかな」と、話がだんだん広がっていきました。
僕自身も次第に興味を持つようになり、「山から下りていった」という感じですね。
アッティ
山から下りていった。面白いですね。
島田優平
今は林業にも、サービス業として事業を考えていこうという流れがあります。例えば森林セラピーなど、どうすれば人に山へ足を運んでもらえるか、山を訪ねてもらえるかという取り組みです。
オープンファクトリーならぬ「オープンフォレストリー」のような考え方も国が提唱しています。そう考えると、林業と観光はまったく関係のない分野ではありません。
今回、南砺市で観光に携わる役割にチャレンジしてみようと思いました。
アッティ
今回は林業のお話だけでなく、そこから広がるまちづくりについても伺えるということで、とても楽しみです。
全5回の1回目ですので、まずは島田さんの幼少期からお聞きします。どんな子どもだったんですか?
丸太と「すんずら」の幼少期
島田優平さんは、家の横にある製材所の丸太を遊び場にして育ちました。
祖父と春の雪山を歩いた「すんずら」の体験も、山を身近に感じる原点です。新湊旋風をきっかけに野球を始め、林業を意識しながら体を鍛えました。
島田優平
今はもうないのですが、家では製材所を営んでいました。創業から約80年になる会社で、家のすぐ横に製材所があり、丸太がたくさん置かれていたんです。
アッティ
昔から、そのような環境だったんですね。
島田優平
そうですね。
丸太をジャングルジムのようにして遊んだり、丸太の間に隠れて、かくれんぼをしたりしていました。子どもの頃から、木との関わりはとても強かったですね。
アッティ
生まれたときから、木が身近にあったと。
島田優平
そうですね。
祖父から「一緒に山へ行かないか」と誘われることもありました。ちょっとした気分転換のような感覚で、山へ連れていってもらっていましたね。
アッティ
家庭の中で「一緒に山へ行かないか」という言葉が出てくるのが、すごいですね。
島田優平
特に印象に残っているのが、春の雪山です。
春になると雪が固くなって、その上を歩けるようになります。僕たちは「すんずら」と呼んでいました。
幻想的な雪景色の中を、ずっと歩いていく。不思議な体験でしたね。そうした経験から、山は自分にとって、とても身近なものだと感じていました。
それが今の職業観にもつながっていると思います。
ただ、当時の林業は完全な力仕事でした。体力が必要だろうと思い、僕は野球をして体を鍛えていました。
もっと小さい頃、幼稚園のときは結構太っていて、ぽちゃぽちゃしていたんですけどね。
アッティ
当時は、あまり運動をしていなかったんですか?
島田優平
周りからは「相撲取りになるのか」と言われていました。
アッティ
そうだったんですね。
島田優平
体が大きかったので、体育会系に見られることも多かったですね。
その後、ちょうど「新湊旋風」が起きた頃、僕は小学2、3年生くらいでした。
野球をするか、サッカーをするか迷っていたときに新湊旋風を見て、「これはやっぱり野球だろう」と思い、野球を始めました。
僕は3人兄弟ですが、その中でも一番体育会系で、体力に自信がありました。
「林業といえば体力勝負だ」と思い、野球をしながら体を鍛えていったのが、幼少期から学生時代にかけての過ごし方ですね。
アッティ
その頃から、将来は林業に携わる、あるいは会社を継ぐということを、なんとなく考えていたんですか?
島田優平
会社を継ぐというより、「林業や木に携わる仕事をしよう」という気持ちはありました。
自分の力を生かせる仕事だと思っていましたし、野球で使うバットも木製ですよね。
アッティ
なるほど。
島田優平
木を使った道具が身近にあったので、「野球とも何か関係があるな」と思っていました。
アッティ
育った環境の影響は大きいですね。
家の横には当たり前のように丸太があり、散歩に行けば山がある。野球をすれば、バットも木でできている。
島田優平
そうですね。
南砺市自体が木の町ですし、井波には彫刻もあります。
育ってきた環境は、かなり大きな影響を与えていると思います。
林学科で広がった山への視野
島田優平さんは砺波高校で野球部のキャプテンを務め、先生の勧めで東京農業大学の林学科へ進学しました。
家業の後継者だけでなく、DJや日本代表選手など多様な学生と出会い、「山との関わり方は一つではない」という視点を身につけます。
アッティ
高校まで野球を続けていたそうですが、林業に携わるための勉強は、専門の学校などでされてきたんですか?
島田優平
高校までは、学校で林業について学ぶ機会はほとんどありませんでした。
アッティ
大学も含めて、どのように進路を決めたのでしょうか?
島田優平
高校は砺波高校で、野球部のキャプテンをさせてもらいました。
当時はまだ弱小チームで、最近はかなり強くなりましたけど、僕たちの頃は本当に弱かったんです。ただ、一生懸命に野球へ取り組んでいました。
そのため、将来どの学校へ進もうかということは、あまり深く考えていませんでした。
そんなとき、先生から東京農業大学という大学があると教えてもらったんです。
農業や林業、畜産、醸造など、少し専門的な分野を学べる大学で、「家業がそういう仕事なら、進学にも有利に働くのではないか」と助言をいただきました。
それで東京の大学へ進み、初めて山について本格的に勉強し始めました。
アッティ
大学では、林業についてかなり専門的に学んだんですか?
島田優平
「林学科」という学科でした。
アッティ
林学科というものがあるんですね。
島田優平
今はもうありませんが、林学を一通り修めました。
アッティ
林学科に来る人は、島田さんと同じような境遇の方が多かったんですか?
島田優平
家業の後継者もいました。
ただ、大学には附属高校もあったので、山や林業にまったく縁のない人もたくさん来ていました。
山に特別な関心がない人もいて、最初は少し不思議でしたね。これだけ専門性の高い学科なのに、山をほとんど知らない人もいるんだと。
でも、そういう人たちがいたことで、僕自身の視野も広がりました。
「山が大好きです」「学問として林業を突き詰めたいです」という人だけが集まる環境より、自由な雰囲気があってよかったと思います。
DJをやっている人もいましたし、サッカーやホッケーで日本代表になるような人も林学科にいました。
アッティ
林学とは、あまり関係がなさそうですね(笑)。
島田優平
面白い大学でしたね。
山との関わり方には、いろいろな形があっていい。今の僕の考え方にも、大学での経験が生きています。
吉野で学んだ山の現場主義
島田優平さんは、教授の紹介で奈良県吉野の林業会社へ進みました。
台風被害を受けた山へ自ら入り、復旧作業の陣頭指揮を執る経営者の姿に感銘を受けます。「ここで学ぶしかない」と決め、山の現場を重んじる姿勢を培いました。
アッティ
大学卒業後、すぐに富山へ戻ったわけではないと思います。そこから、どのような活動をされてきたんですか?
島田優平
大学卒業後の進路を考えたときも、高校から大学へ進んだときと似たような状況でした。
東京で林業の仕事をしたいと思っても、今から30年近く前は、林業や森林がそれほど注目されていませんでした。
一般企業も山にほとんど関心がありませんでしたし、SDGsという言葉もありません。CO2の削減量を取引するような話もなかった時代です。
東京で林業に携われる就職先は、なかなか見つかりませんでした。
そこで教授から、「奈良県の吉野を知っているか?」と聞かれたんです。
アッティ
奈良県の吉野。
島田優平
僕は「行ったことがありません」と答えました。
すると、「吉野にすごい人がいるから、そこで働いてみたらどうだ」と紹介していただいたんです。
実際に先生と一緒に見に行ったとき、「もう、ここにしよう」と決めました。
その方は、山の現場をとても大切にしていました。
林業会社の社長になると、現場は部下に任せ、自分自身は山へ入らなくなる人もいます。しかし、その方は自分で山を見て、自分で考え、自ら作業しながら陣頭指揮を執っていました。
当時の近畿地方では、台風の影響で山が大きな被害を受け、たくさんの木が倒れていました。
その方が自ら山へ入り、復旧作業を進めている姿を見て、「なんて勇敢な仕事なんだろう」と感じたんです。
大学時代を東京で過ごしていたので、最初は「東京で働くのも格好いいな」と思っていました。
アッティ
大学で4年間も東京にいたら、「このまま東京にいたい」と思いますよね。
島田優平
そうなんです。
でも、吉野で泥臭く山と向き合う姿を見て、「ここで勉強しよう」と思いました。
アッティ
修業するには、もってこいの場所だったんですね。
島田優平
もう一択でした。他の選択肢はありませんでしたね。
その方には、今も大変お世話になっています。
県庁と立山から実践者へ
島田優平さんは、吉野で行政の支援が届かない現実を目にし、富山県庁の林業職へ進みました。
立山への配属では「木がなくても山は魅力的だ」と価値観が変化。山を守る人々に触れ、客観視する側ではなく実践者になる道を選びます。
アッティ
吉野で初めて仕事を始め、そこから現在の株式会社島田木材に入るまでは、どのような経緯があったのでしょうか?
島田優平
吉野では、台風で倒れた風倒木の整備をしていました。
そのとき、行政からほとんど協力が得られていない現状があったんです。
当時は災害や被害に対する支援体制が、今ほど整っていなかったのだと思います。
アッティ
民間の支援も少なく、行政もほとんど関わっていない状態だったんですか?
島田優平
そうですね。
民間の人たちが一生懸命に復旧へ取り組んでいるのに、周囲の行政があまり応援していない。その状況に、少し不思議な感情を抱きました。
それから、これは少し裏話ですが、吉野で働いていると、「もう、このままずっと吉野にいたらどうだ」「ここに家を建てたらどうだ」という話もいただいたんです。
アッティ
そんな話まであったんですね。
島田優平
「これは少し考えないといけないぞ」と。
アッティ
このままだと、吉野に骨を埋めることになると。
島田優平
そうなんです。
いずれは富山へ戻ろうと思っていたので、このまま中途半端に吉野に残り、後になって皆さんへ迷惑をかけるより、今のタイミングできっぱり富山へ戻ろうと決めました。
富山へ戻るにあたり、林業に関われる仕事を探しましたが、民間企業ではなかなか見つかりませんでした。
林業界では行政の影響力も大きいので、公務員として林業に関わる道を選び、試験を受けて富山県庁に入りました。
アッティ
県庁の中でも、林業に携わる仕事だったんですか?
島田優平
「林業職」として採用していただきました。
アッティ
吉野で、行政があまり関わっていない現状を見たうえで、自分が行政側へ入ったわけですね。
違う立場から、行政がどのように動いているのかを見ることができたと。
島田優平
そうですね。
「民間の取り組みを、行政がどう支えられるか」という視点は、最初から持っていました。
アッティ
その後、県庁から株式会社島田木材に入られたんですか?
島田優平
そうですね。ただ、そこにも一つのきっかけがありました。
林業職として県庁に入ると、通常は山の現場や林道工事など、林業に関係する公共事業へ携わることが多いんです。
ところが僕は異動で、中部山岳国立公園の立山に配属されました。標高が高く、木がまったく生えていないエリアです。
アッティ
林業職でも、そういう場所に配属されることがあるんですね。
島田優平
立山の標高3,000メートル付近まで行くと、木は生えていませんよね。
それまで「木材、木材、木」と考えてきたのに、いざ山へ行くと木がない。
アッティ
木がない。
島田優平
最初は、「これは本当に山なのか?」と思いました。
でも、その経験を通して、「木がなくても山なんだ」と発想が切り替わったんです。
立山や剱岳、薬師岳で仕事をするなかで、木が生えていなくても、山はすごく魅力的なんだと感じました。
さらに、そこで働く人たちの姿にも心を動かされました。
車が通れず、歩いて5時間ほどかかる場所に職場がある。山小屋の仕事や登山道の整備では、トラックも使えないため、自分で道具を担いで運び、現場でハンマーを振るいます。
そうした裏側で支える人たちの大変さや、立山を守ろうとする思いに触れ、僕も触発されました。
公務員として客観的に見るより、しっかり中へ入り、その世界へ踏み込む。実践者として山に関わることが、自分の道だと思ったんです。
ちょうど30歳くらいの節目でした。年を取ってからできる仕事ではないと思い、若いうちに挑戦しようと考えました。
アッティ
面白いですね。きっかけが重なり、木だけを見てきたところから、気づけば木のない山へ行き、山全体を見るようになった。
島田優平
そうですね。10年ほどかけて、少しずつ世界観が広がっていったのだと思います。
誰もが働ける林業へ、島田木材の改革

家業へ戻り、林業改革へ
島田優平さんは、安定した県庁職員の道を離れ、自分の意思で株式会社島田木材へ入りました。
職人の高齢化や乾燥材への移行など、林業界の変化に直面し、これまでのやり方を見直す必要性を強く感じます。
アッティ
こんにちは、アッティです。
この番組は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組です。ゲストにはマンスリーゲストとして、1カ月間にわたってご登場いただきます。
今月のゲストは、「100年後の文化の源泉をつくる」を掲げ、スマート林業と民間主導のまちづくりで井波の未来を切り開く、株式会社島田木材社長、そしてジソウラボ代表理事の島田優平さんです。
第2回になりますが、どうぞよろしくお願いします。
島田優平
よろしくお願いいたします。
アッティ
第1回では、幼少期から株式会社島田木材へ入るまでのお話を伺いました。
富山県庁でも林業に携わり、主に立山で仕事をされていました。山なのに木がない環境や、現場を支える人たちの姿を見て、「自分ももう一度、実践者として挑戦したい」と島田木材へ入られたんですよね。
先代は、お父さまですか?
島田優平
そうですね。先代が父で、先々代の祖父が会社を始めました。
アッティ
お父さまから「早く帰ってこい」「会社へ入れ」と言われたわけではなかったんですか?
島田優平
むしろ県庁を離れるときには、「どうして、そんな安定した職を辞めるんだ?」と言われました。
当時は林業や木材産業が少しずつ厳しくなっていた時期です。そういう大変な場所へ足を踏み入れることに対しては、どちらかというと否定的でしたね。
ただ、僕は誰かに言われて何かをするのが、あまり好きではありません。自分の意思でやりたいと思ったので、自分を信じて踏み込みました。
それでも、父や家族が木材や林業に関わる姿をずっと見てきましたから、自分もその世界で働きたいと思うのは、ある意味で必然だったのかもしれません。
アッティ
「必然」という言葉が面白いですね。
生まれ育った頃から、木や林業が島田さんの血となっていたのでしょうね。
島田優平
そうですね。そういう思いで、林業の世界へ足を踏み入れました。
アッティ
株式会社島田木材に入ってみて、実際はどうでしたか?
島田優平
まず感じたのは、職人さんたちの高齢化です。
それから、ちょうど住宅を取り巻く環境が変わり始めた頃でもありました。
木材でいえば、しっかり乾燥させた「乾燥材」を供給しなければ、曲がったり、ひびが入ったりする木材は市場で使われなくなってきたんです。
アッティ
林業界の転換期だったんですね。
島田優平
そうです。
これまでのやり方のままでは、非常にまずいと感じていました。
「スーツで林業」の環境へ
島田優平さんは、「特別な人にしかできない林業では未来がない」と考え、機械が入れる道の整備や週休2日制、通年雇用を導入しました。
誰もが山へ入りやすく、若い人にも選ばれる働く環境づくりを進めています。
島田優平
その考えには、吉野で働いていたときの経験も関係しています。吉野の会社の方が、「林業を特別な仕事にしてはいけない」とおっしゃっていたんです。
アッティ
なるほど。
島田優平
「この人にしかできない」「男性にしかできない」という仕事ではなく、誰でも林業に関われる環境をつくらなければ、林業に未来はないと教えていただきました。
では、そのためには何を変えなければいけないのか。
例えば、現場へ行くまで山の中を1時間歩かなければならない。車では入れない。休憩するときは、虫のいる山の中で寝転がる。トイレもない。
そうした環境のままでは、そもそも働こうと思う人がいなくなります。
また、体力や腕力がなければできない仕事のままでも駄目です。
まずは機械を使って仕事ができる環境をつくる必要があります。機械を入れるには、山の中に道が必要です。
アッティ
確かにそうですね。
島田優平
道をつければ、車が入れる。人も入り、機械も入れられる。そこから働く環境が変わっていきます。
そうした山の環境づくりへ、少しずつ取り組もうと考えました。
会社では週休2日制も導入しました。それまでの林業には季節雇用が多く、夏場だけ働くような形もあったんです。
でも、今の人たちは一年を通して働きたいですよね。
アッティ
それはそうですよね。
島田優平
そこで通年雇用へ切り替えました。
一年を通して安定して働ける環境をつくらなければ、人がいなくなってしまう。どうすれば若い人たちが働ける環境をつくれるかを考え、取り組んできました。
それが僕の一つの信念です。
アッティ
言われてみると、その通りですね。
僕自身、林業に携わった経験がほとんどないので、どのように仕事をしているのかも見えません。
トイレがない、休憩する場所も分からないと聞けば、働く環境として大変だと感じます。
島田優平
吉野の会社で面白いと思ったのが、本社は大阪にあったんですけど、ネクタイを締めたまま山へ向かい、車を降りたらすぐ現場という環境をつくろうとしていたことです。
そこまでアクセスしやすくなれば、いろいろな人が林業に関われます。
立山でも「革靴で歩けるようにしよう」という考え方がありますが、それと少し似ています。
「スーツで林業ができるくらい」にしたほうが、これからは魅力的な仕事になるという発想ですね。
アッティ
本当に、スーツのまま林業ができるくらいにしたいと。
島田優平
そうです。
山には「入りにくい」「中がどうなっているのか分からない」というイメージがあります。
でも、一本の道があれば、その道をたどりながら、自分の目で確認して山の中へ入っていけます。
アッティ
道が見えないから、山の中がどうなっているのか分からないんですね。
島田優平
そうなんです。
山に道をつけることで、少しずつ山の様子が見えてきます。
吉野でもそれを体感しましたし、立山でも登山道を整備することで、人が歩けるようになりました。
人の目が入れば、「ここは、こうしたほうがいい」という話も生まれます。
人が入れない場所では、美しいものを維持することも難しい。自然の中でも、適切に人の手が入ることで、その美しさが保たれているのだと分かりました。
いかに人が森や山へ入れる環境をつくるか。それが林業の根本にある、大切な部分だと思っています。
林業者は「山のお医者さん」
島田優平さんは、山へ道をつけ、人や機械が入れる状態を整えることが、森林を守る第一歩だと考えています。
林業者を「山のお医者さん」と表現し、民間と行政が連携して山を公共インフラとして支える必要性を示します。
アッティ
ただ、山の中へ道をつくるといっても、一つの会社だけで富山県内すべての林業を担うわけではありませんよね。
島田木材が関わる山から、少しずつ取り組んでいくのでしょうか?
島田優平
まずは、そうですね。
ただ、林業界には森林組合などの事業者もいます。
山へ道をつけていかなければならないという考え方は、僕だけのものではありません。社会全体の流れとして、少しずつ広がってきました。
今では山の中にかなり道が入り始めています。
道ができれば人や機械が入り、丸太を運び出せるようになる。その丸太を販売することで、産業としての林業が成り立ちます。
ただ、そこまでには長い時間がかかります。すぐに事業として成立するわけではないので、公的な支援も必要です。
僕は、山も人間と同じだと思っています。
人が病気になったときには医師に診てもらい、保険という公的な仕組みに支えられながら健康を維持しますよね。
森や山も同じです。僕たち林業者は、「山のお医者さん」だと思っています。
アッティ
山のお医者さん。
島田優平
山が病気になったとき、林業者が手を入れて治療する。
その費用をすべて誰か一人が負担するのではなく、公的な仕組みで支える必要があります。農業にも近いと思いますね。
人が生きていくうえで必要なインフラを、民間と行政が一緒になって守っていく。その発想がとても大切です。
民間の視点だけでなく、行政の視点も必要です。
そうでなければ、誰か一人が山や水を支配してしまうことも起こり得ます。
山を社会の公共インフラとして、どのように維持していくのか。それは僕一人ではなく、社会全体で考えなければならないテーマです。
アッティ
林業では、木を切って販売する仕事がある一方で、山自体を整える仕事も相当な量になりますよね?
島田優平
相当な仕事だと思います。
アッティ
山を整える部分には、行政からの支援もあるんですか?
島田優平
行政からの補助金もありますし、販売した丸太の代金を充てることもあります。
アッティ
木を育て、切り、販売し、その収益を山の整備に戻す。一連の流れなんですね。
三世代でつなぐ「100年の計」
島田優平さんは、木を植えてから利用できるまで70年から100年かかることもある林業を、「100年の計」で考えています。
水や災害とも深く関わる山を、県境を越えた流域単位で守り、次の世代へつなぐ視点を大切にしています。
島田優平
そうですね。
ただ、木を植えてから収穫するまで、昔は30年から40年ほどと言われていました。
今は木材の需要が減り、70年ほど置いておかなければならないこともあります。
アッティ
需要がないから、すぐには切れないということですか?
島田優平
そうなんです。
広葉樹の場合は、材木として使えるようになるまで100年ほど待たなければならないこともあります。
そうなると、3代にわたって山を見ていかなければなりません。
世の中は1年、数カ月で次々と変わっていきます。その中で山と向き合うには、考え方がぶれてはいけない。
山は、私たちにとって大切な水を生み出します。そこをきちんと管理しなければ、私たちの暮らしそのものが危うくなるんです。
アッティ
逆に木が売れすぎて、山から木がなくなってしまえば、災害にもつながりますよね。
島田優平
戦時中や戦後は大量の木材が必要とされ、山から木がなくなった場所も多くありました。
その後、災害が頻発するなど、さまざまな問題が起きました。
そうした教訓を生かし、山を適切に維持管理しながら利用していかなければいけません。
本当に「100年の計」で取り組む必要があります。
僕一人でどうにかできる問題ではありません。ただ、一人ひとりが考えることは、とても重要だと思っています。
アッティ
一人だけでなく、一つの会社だけで考えられる話でもありませんよね。
島田優平
そうですね。
アッティ
最低でも、県単位で動かなければならないと。
島田優平
さらにいえば、「流域」で考える必要があります。
アッティ
川や水の流れを含めた範囲ですね。
富山の場合は、岐阜県や石川県とも関係してきます。
島田優平
そうなんです。
若い担い手と林業の未来
島田優平さんが働く環境を整えたことで、若い人が林業へ入り、独立してきこりになる例も生まれました。
人材が出入りする経営の難しさを抱えながらも、脱炭素やSDGsの流れを追い風に、担い手づくりを続けています。
アッティ
本当に幅広いですね。
少し話を戻しますが、労働環境を変える取り組みにも時間がかかったと思います。現在は、どのような状況ですか?
島田優平
うれしいことに、若い人がかなり入ってきてくれています。
その中から「自分で独立したい」「自分もきこりになりたい」と、新たな事業者になる人も出てきました。
会社としては人が辞めるので痛い部分もあります。でも、林業を自分の将来の仕事にしようと考える人が増えたことには、少し貢献できているのかなと思います。
ジソウラボでは、地域の中で人づくりに取り組んでいます。それと同じことを、会社の事業の中でも実践している感覚です。
ただ、人が出入りすることを会社としてどう受け入れるかは、今も難しい課題です。マネジメントやコントロールは難しくなります。
それでも林業は、人がいてこその仕事です。
若い人に林業へ携わってもらうための環境づくりは、今も続けています。
アッティ
島田さんが若い頃から比べても、林業を取り巻く状況は大きく変わっていますよね。
脱炭素や環境問題、最近ではSDGsという言葉も広がり、世界的にも「環境にやさしい」という視点から、さまざまな動きが生まれています。
そうした流れを、どのように見ていますか?
島田優平
そうあるべきだと思っています。むしろ、気づくのが遅いくらいです。
社会全体として、もっと取り組まなければいけません。
山をどう維持していくのか。そのことを中心に置いて、経済活動を考える必要があります。
水が失われれば、私たちは何もできません。
そういう前提に立ったうえで、経済と林業をどう交わらせるかを、もっと考えていかなければならないと思います。
アッティ
世の中の流れとして環境への関心が高まり、木材も再び使われるようになってきているのでしょうか?
島田優平
木材の総利用量自体は、そこまで増えていません。
ただ、木材自給率は上がってきています。日本の木が選ばれる機会は増えてきていると思います。
アッティ
それは良い傾向ですね。
今回は、林業の働く環境や、山を長い時間軸で守っていく必要性について伺いました。
木材がウイスキーを育てるまで

使われなくなった広葉樹
島田 優平さんは、スギやヒノキの利用が進む一方、家具や木製品に使われてきた広葉樹が十分に活用されていない現状を示します。
合板や樹脂製品への置き換えに加え、加工する職人の減少も、広葉樹が使われなくなる要因です。
アッティ
こんにちは、アッティです。この番組は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組です。
マンスリーゲストとして、1カ月間、同じゲストの方と対談していきます。
今月のゲストは、「100年後の文化の源泉をつくる」を掲げ、スマート林業と民間主導のまちづくりで井波の未来を切り開く、株式会社島田木材社長、そしてジソウラボ代表理事の島田 優平さんです。
島田さん、3回目になりますが、どうぞよろしくお願いします。
島田 優平
お願いします。
アッティ
前回は林業の現状について、労働環境の問題や、環境自体を良くしていく取り組みについてお話しいただきました。
林業について詳しく知らない方も多いと思います。今回は現状だけでなく、今後の新しい取り組みについても伺いたいのですが、いくつかご紹介いただけますか?
島田 優平
林業から生産物として出てくるのは、木材や丸太です。それが製材され、加工場へ行き、商品になっていきます。
これまでは、戦後に植林されたスギやヒノキなどの針葉樹が使えるようになってきたので、「住宅にはスギやヒノキを使いましょう」ということで、柱などに利用されてきました。
合板やベニヤも、昔は外国の木を使って作っていましたが、今ではカラマツやヒノキ、スギが使われるようになり、利用がかなり進んでいます。
一方、日本の山にあるのは、スギやヒノキのような針葉樹だけではありません。紅葉する葉の広い木、いわゆる広葉樹も、日本の山の半分ほどを占めています。富山県もそうですよね。
アッティ
紅葉もきれいですし、新緑もありますね。
島田 優平
そうなんです。
山があれだけきれいに見えるのは、スギやヒノキのような針葉樹だけでなく、広葉樹があるからです。
その広葉樹にも、高い利用価値があります。テーブルや椅子、ベッド、机、棚などの家具には、比較的、広葉樹が使われてきました。
富山県や岐阜県にも、家具を作っていらっしゃる職人さんがいますよね。
アッティ
そうですね。高山などにもいらっしゃいます。
島田 優平
そうした場所で広葉樹が使われてきました。
ただ最近は、家具にも合板のような素材を使うことが増え、一般的な広葉樹を使わなくなってきています。
広葉樹の利用がおろそかになると、加工する職人さんもいなくなってしまいます。
昔は、お盆や食器にも木材が使われていましたが、今では樹脂製品に変わっていますよね。
アッティ
確かに、そうですよね。
島田 優平
加工する人がいなくなると、結局、材料も使われなくなってしまいます。
アッティ
木材の問題でもありますが、職人の問題でもあるんですね。
島田 優平
そうですね。
その材料となる広葉樹は、今、使える段階に来ています。だからこそ、「この木をどう使うか」という視点が必要です。
アッティ
十分に使われず、余っている面もあるということですか?
島田 優平
そうですね。十分に利用されていない現状があります。
ミズナラが開いた新たな道
島田 優平さんは、自社の山にある広葉樹をどう生かすか、長く答えを探してきました。
家具だけでは突破口を見いだせない中、ウイスキー樽に使われるミズナラとの出会いが、木材の新しい価値を生み出すきっかけになります。
島田 優平
私もこの会社に入ってから、自社の山林を見ながら、広葉樹をどう活用できるか考えてきました。山奥には、広葉樹の山が比較的多いんです。
「この山をどう生かせばいいだろう」と考えていたのですが、なかなか良いアイデアが浮かびませんでした。
家具にするといっても、今の時代、家具だけではなかなか突破口にならない。ずっと手をこまねいていたんです。
ところが、あるタイミングでミズナラという木に出会い、それを活用する話をいただきました。
そこから、新しい価値の創造に取り組めるようになってきたと思っています。
アッティ
そのミズナラを使って、何を作るのでしょうか?
島田 優平
ミズナラは、ウイスキーの樽に使われているんです。私も最初は知りませんでした。
それを教えていただいて、「では、樽を作ればいいのではないか」という話になりました。
ミズナラには特有の風味があるそうです。ただ、樽を作るには職人の技が必要になります。
アッティ
でしょうね。
島田 優平
そうなると、どこでも作れるわけではありません。
職人さんがいて、ものづくりの文化がある町といえば、「南砺市井波しかないでしょう」と。
そこから、樽作りに挑戦することになりました。
井波の職人がつくる樽
島田 優平さんは、樽作りに必要な職人技と井波のものづくり文化を結び付けます。
井波にはかつて桶や箱を作る職人が暮らしており、彫刻だけではない技術の歴史がありました。その流れを受け継ぎ、ミズナラの樽作りへ挑戦しています。
アッティ
もともと井波に、樽作りの職人さんがいらっしゃったわけではないんですよね?
島田 優平
そうですね。
ただ、話を聞いていくと、砺波の若鶴さんには、井波出身の桶職人がいたそうです。
さらに調べると、昔は町ごとに桶屋さんがあったことも分かりました。
アッティ
桶屋さんというのは、その名のとおり、桶を作るお店ですよね。
島田 優平
はい。
昔はプラスチックがありませんから、生活に必要な容器を作らなければいけませんでした。そのため、各町に桶屋さんがあり、井波にもあったそうです。
容器や箱を作る職人さんが、昔はこの町にいたということですね。
私たちが直接知っているわけではありませんが、そうしたものづくりの文脈が井波にはあります。
まったく縁もゆかりもないものづくりではなく、地域にあった技術の流れをたどれば、樽作りにもたどり着けるのではないかと思いました。
井波には彫刻だけでなく、桶を作っていた人たちもいた。その背景があったからこそ、挑戦することになったんです。
森と水をつなぐミズナラ
島田 優平さんは、北陸コカ・コーラの「うるおいの森づくり」をきっかけに、ナラ枯れの被害を受けるミズナラの活用に取り組みます。
山を育てて水を育み、地域の木を若鶴のウイスキー樽へつなげることで、森と産業の循環が生まれました。
アッティ
ただ、自社でウイスキーを作るわけではありませんよね?
島田 優平
そうですね。ウイスキーを作るわけではありません。
アッティ
そうすると、樽の需要がなければ成り立ちません。どのように話がつながっていったのでしょうか?
島田 優平
きっかけの一つが、北陸コカ・コーラさんです。
富山県内では20年ほど前から、「カシノナガキクイムシ」という、ナラの木を枯らす虫による被害が発生していました。
北陸コカ・コーラさんは、枯れた山を再生するため、ボランティアを募りながら「うるおいの森づくり」という活動を続けてこられました。
その中で、ミズナラも枯れていきます。
そこで、「枯れてしまう前に、もっと有効に利用できないだろうか」という相談をいただきました。
「うるおいの森づくり」は、山を育てることで水を育むという、非常に大きなストーリーの中にある取り組みです。
山を育てる過程で出てくるものも、きちんと有効活用しよう。その中にあったミズナラを利用しよう、という話になりました。
私も最初は、「ミズナラには、そんな利用方法があるんですね」というところからのスタートでした。
そこから一緒に研究を始めましたが、私たちも樽を作った経験はありません。ウイスキーを作る方々にとっても、新しい挑戦でした。
地元の木を使い、かつて地域にあった「器を作る文化」を生かせる。それは非常に良いことだということで、取り組みが始まったんです。
アッティ
若鶴さんは、昔からウイスキーを作ってこられましたよね。
今は三郎丸で、改めて新しいブランドを立ち上げ、力を入れていらっしゃいます。いろいろなものが、すごくつながっていますね。
北陸コカ・コーラさんの取り組みも、一つのテーマは水です。水を使った商品を作り、販売していらっしゃる。
山や水、木材、ウイスキーが、全部つながっています。
島田 優平
そうなんです。
自然がさまざまなものをつないでいくことが、具体的に見えてきました。
それまで木材は、道具や建築材料としてしか見ていなかったんです。
アッティ
そうですよね。面白いですね。
木材が熟成装置に変わる
島田 優平さんは、「樽は容器ではなく、熟成させる装置」という言葉から、木材が味や香りを生み出す価値に気付きます。
建築材だった木が食やウイスキー文化へつながり、人を笑顔にする存在へ変化。井波の職人技が新たな需要を支えています。
島田 優平
ところが木材が樽になると、建築材ではなくなります。
若鶴さんによると、「樽は容器ではない。入れ物ではなく、熟成させる装置だ」と。
アッティ
そうですよね。木から成分や要素が出て、味に影響するわけですから。
島田 優平
そうなんです。
私からすると、これまで道具や資材として使ってきた木材が、今度は「食べられるもの」になった感覚なんですよ。
アッティ
確かに。
島田 優平
木材が、まさか口の中に入るとは思いませんでした。
アッティ
まさか、そんな仕事につながるとは思いませんよね。
島田 優平
本当に驚きました。
「木材が食につながってきた」というのも、山や木を通じて生まれた新しいつながりです。
お客さんは正直で、住宅や木材の話をしても、それほど喜ばれないことがあるんですよ。
私たちが「この木目がいいんです」と説明しても、「うーん」という反応だったりして。
アッティ
失礼ながら、一般の方には「どれも同じ」に見えてしまうこともありますよね。
島田 優平
そうなんです。
ところが、ウイスキーの樽やお酒の話になると、皆さん急に笑顔になって、「飲んでみたい」と言われます。
アッティ
なりますよね。
「この木から出る成分で、味がどう変わるんだろう」と興味が湧きます。
島田 優平
「一杯飲みたいね」という話になると、人の気持ちも明るくなります。
樽作りは、人を楽しい気持ちにできる取り組みでもあるんです。
この取り組みを始めたのは10年ほど前ですが、そのとき、改めて「木材はすごい」と感じました。
山の新しい価値を見いだしていくには、建築だけにこだわるのではなく、もっと広く社会との関わりを見ていく必要があると思ったんです。
アッティ
ウイスキー樽は、一度使ったら終わりではなく、長く使うものですよね?
島田 優平
そうですね。何度も繰り返し使います。
アッティ
使って、すぐに捨てるものではない。
島田 優平
そうではありません。
アッティ
海外から樽を購入することもあると聞きましたが、日本国内には樽を作る会社が、それほど多くないんですよね?
島田 優平
多くないですね。
当時調べたとき、独立系の樽メーカーは1社しかありませんでした。
アッティ
そうなんですか。すごいですね。
島田 優平
若鶴さんがウイスキー作りを本格的に再開された頃、日本国内の蒸留所は10数社しかありませんでした。
今は全国に110社以上の蒸留所があります。
そうなると、当然、樽が必要になります。
さらに、ジャパニーズウイスキーを名乗るには、3年間、木樽で熟成させなければならないというルールがあります。必ず木樽が必要なんです。
10年前の状況と比べると、樽の需要はかなり増えているはずだと考えています。
アッティ
まさに文化を作っていますよね。
ウイスキーも、今ではジャパニーズウイスキーが世界五大ウイスキーの一つになっています。
世界の文化の一端を、井波の木や職人技が担っている。まさかの展開ですよね。
島田 優平
本当に、まさかですよね。驚きます。
アッティ
面白いですね。
林業に取り組む中で、木の使い道が建築だけでなく、ウイスキーを通じて「口の中に入るところ」まで広がっていったという、非常に興味深いお話でした。
島田さん、ありがとうございました。
島田 優平
ありがとうございました。
ジソウラボが描く、井波の新しいまちづくり

100年後を見据えた人づくり
島田 優平さんが2020年に立ち上げたジソウラボは、「100年後の文化の源泉となる人」を育て、その歩みに伴走する団体です。
現在は人づくりに加え、行政や町の人と新しい自治の仕組みも考えています。
アッティ
こんにちは、アッティです。この番組は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組です。
マンスリーゲストとして、1カ月間、同じゲストの方と対談していきます。
今月のゲストは、「100年後の文化の源泉をつくる」を掲げ、スマート林業と民間主導のまちづくりで井波の未来を切り開く、株式会社島田木材社長、そしてジソウラボ代表理事の島田 優平さんです。
島田さん、4回目になりますが、どうぞよろしくお願いします。
島田 優平
お願いします。
アッティ
ここまでは、1回目から3回目まで、林業の話を中心に伺ってきました。
1回目でも少しお話しいただきましたが、最近は観光に関わる役職にも就かれたそうですね。
今回は、まずまちづくりについて、しっかり伺いたいと思います。
島田さんは、ジソウラボの代表理事を務めていらっしゃいます。ジソウラボとは、どのような団体なのでしょうか?
島田 優平
ジソウラボは、2020年に立ち上げた団体です。
一言で表すと、人づくりですね。「100年後の文化の源泉となる人」を育て、その人に伴走するためのチームです。
アッティ
「文化の源泉」なんですね?
島田 優平
文化の源泉です。そこは重要です。
アッティ
大事なところですね。
島田 優平
そうなんです。
100年後に影響を与えられるような人、社会に良いインパクトを与えられる人を育てたいという目標を掲げ、人づくりの団体として活動しています。
現在は人づくりだけでなく、「この町が、どのような町になっていけばいいのか」ということも、少し広く考えるようになりました。
行政や町の人たちと一緒に、新しい仕組みを作っていく役割も担っています。
そういう意味では、私たちが「新しい自治」と呼んでいるものを担う、一つの団体になっていくのではないかと思っています。
町に必要な人を呼び込む
島田 優平さんは、漠然と地域づくりの担い手を募るのではなく、パン屋やコーヒー屋など、町に必要な機能を先に考えます。
その役割を担う人を県内外から呼び、仕事として続けられるまで支える仕組みです。
アッティ
具体的には、どのような活動をしているのでしょうか?
島田 優平
これから人口が減少していく中で、田舎へ行けば行くほど人が少なくなります。
人が暮らしていても高齢者が多く、地域の原動力となる若い力が必要とされています。
そこでジソウラボでは、意図的に外から人を呼び、その人に伴走し、育っていくことを応援しています。
ただ、「まちづくりをするから」といって、漠然と地域おこし協力隊のような人を呼ぶわけではありません。
もっと具体的に、「町にパン屋さんを呼びましょう」「コーヒー屋さんを呼びましょう」と考えます。
この町に必要な機能を自分たちで考えたうえで、それを担う人を呼んでくるんです。
アッティ
なるほど。人からではなく、必要な機能から考えるんですね。
島田 優平
はい。
アッティ
たまたま素敵なパン屋さんがいるから呼ぶ、ということではない。
島田 優平
そうではありません。
アッティ
町にパン屋が必要だから、パン屋さんを呼ぶ。面白いですね。
島田 優平
近所に融雪装置が欲しいと考えるのと、感覚としては同じですよ。
アッティ
なるほど。面白いです。
島田 優平
「この町にはパン屋さんが必要だ」と考え、パン屋さんを呼ぶ。
そして、その人が町で仕事を続けられるようになるまで、私たちがサポートします。
よそ者が井波の文化をつくる
島田 優平さんが井波の歴史を調べると、町に変化をもたらしてきたのは、外から来た「よそ者」でした。
地元の人がその挑戦を支え、新しい文化が育つ。その循環を続けることが、町の持続性につながります。
アッティ
「外から人を呼ぶ」というのは、富山県外も含めてですか?
島田 優平
含めています。
アッティ
なぜ、外から人を呼ぶことを大切にしているのでしょうか?
島田 優平
2018年に、南砺市が日本遺産の認定を受けました。
そのとき、いろいろと町の歴史を調べてみると、町に変化やインパクトを与えてきたのは、ほとんどが外から来た人だったんです。
歴史を振り返ると、必ずそうなんですよ。
私たちのように地元で暮らしてきた人間は、外から来た人たちを支えてきた。だからこそ、新しい文化が生まれてきたのだと思います。
そうしたことが繰り返され、町の歴史が作られてきました。
井波の町には、約630年の歴史があります。その間には災害もありましたし、火事も何度も起きています。
それでも、再生を繰り返してきたという流れがあります。
これから町を再生していくうえでも、外から来る人をどれだけきちんと呼び込めるかが大切です。
それが町の継続性や持続性にも関わる取り組みだと思いました。
ただ、「一緒に地域づくりをしましょう」と呼びかけても、なかなか人は来てくれません。
だから、「この町にはパン屋さんが必要なので、パン屋さんに来てほしい」と具体的に声をかける。
自分たちに必要な機能を一つずつ示し、それに応えてくれる人を呼び込む。まずは、そうした地道な取り組みから始めました。
町の未来を決めつけない
島田 優平さんは、完成した将来像を先に掲げず、「何を食べたいか」「どう遊びたいか」という暮らしの実感から町を考えます。
100年後に井波がパンやビールの町になっていてもいい。変化を受け入れる柔らかな発想です。
アッティ
人づくりとまちづくりを考えるときに、必要な機能から入るということは、最初に「どのような町にするか」というグランドデザインを作り、それに必要な人を呼んでくるということでしょうか?
そして、その人をチームや町全体で支えるから、人が育っていく。
人づくりは、その後に生まれるものなのでしょうか。それとも、最初から考えているのでしょうか?
島田 優平
そこには、少し新しい発想が必要だと思っています。
行政はこれまで、総合計画やビジョンを掲げ、そこへ向かっていく方法を取ってきました。
今、アッティさんがおっしゃったような形ですね。
ただ、コロナ禍も経験し、世の中がどうなるのか分からない時代になりました。
そうなると、この町が将来どのような町になるかを、最初から想像することは難しいんです。
アッティ
確かに。
島田 優平
だから、もう少し楽観的に考えてもいいのではないかと思っています。
自分たちがこの町で楽しく暮らすには、どのような町がいいのか。
何を食べたいのか、どのようなことをして遊びたいのか。そこへ立ち返るんです。
私たちは行政ではないので、総合計画を作る必要はありません。
アッティ
なるほど。もう少し柔らかく考えるんですね。
島田 優平
柔らかく考えます。
アッティ
固く考えすぎず、「欲しいものを呼ぼうぜ」というくらいの感覚でしょうか。
島田 優平
そのような感じです。
そういう感覚で取り組むために、ジソウラボという団体を作りました。
最初から「ジソウラボは、このようなまちづくりをします」と掲げてしまうと、それも少し違うんです。
アッティ
そこが大切なんですね。
島田 優平
町全体の総合計画は、行政と一緒に考えていく必要があります。
一方で、私たちの立場では、「将来もこの町に暮らしたいと思えるか」「自分の子どもたちが暮らしたいと思える町を残せるか」というところから始めた方が、具体性が出ます。
ウイスキーの話と同じで、その方が楽しいじゃないですか。
アッティ
楽しいですよね。
「おいしいパン屋さんが来てくれたらうれしいよね」というところから入ればいいわけですね。
島田 優平
そうですね。そういう入り口から始めます。
一つずつ積み上げていった結果、今は「彫刻のまち井波」と呼ばれていますが、100年後には「パン屋のまち井波」になっているかもしれません。
アッティ
面白いですね。
島田 優平
「ビールのまち井波」になっていてもいいと思います。
アッティ
確かに。
島田 優平
町の姿を、自分たちで固定しないということです。
そこで生まれた人たちが、その後、どのような人を生み出していくのかが重要です。
井波彫刻も、約250年前に京都から来た前川三四郎さんが、地元の宮大工に彫刻を教えたことから始まりました。
前川三四郎さん自身も、250年後に井波が彫刻の町になるとは思っていなかったはずです。
アッティ
絶対に想像していなかったでしょうね。
島田 優平
その後、弟子が生まれ、技術が受け継がれ、変化していった結果、井波は彫刻の町と呼ばれるようになりました。
アッティ
面白いですね。
島田 優平
そういう形で、町の姿をもっと臨機応変に変えてもいいのではないかと思います。
住んでいる人間としても、そのような町の方が面白いですよね。
アッティ
面白いです。
町の姿を固定しないというところが、非常に重要ですね。臨機応変に変えていくという考え方も、とてもいいと思います。
島田 優平
こうした取り組みを続けていると、大学の先生方からも「この町は、一体何なんだ」と興味を持っていただくことがあります。
アッティ
面白いですね。ほかには、あまりない取り組みだと思います。
島田 優平
そうなんです。
私たちの行動原理は、「エフェクチュエーション」と呼ばれる考え方に近いそうです。
起業家が事業を展開するときの動きと、私たちのまちづくりが似ていると。
アッティ
近いんですね。
島田 優平
その場その場で臨機応変に変化しながら、関係者を巻き込んで進めていく。
成長する起業家も、最初から一本の線を明確に引いているわけではありません。
変化の中で人と関わりながら、事業を進めていきます。
そうした心理的な現象と、私たちのまちづくりには共通点があると研究された方もいます。
アッティ
面白いですね。
島田 優平
ただ、私たちは最初から、そのような理論を考えて動いていたわけではありません。
一人ひとりが自分の心に正直に動いていくと、結果として、心理的にはそのような形になるのだと思います。
まちづくりは、どうしても体裁や形にこだわりがちです。
それを、もう少し身近で優しく、柔らかいものにしている。そういうところに、共感していただいているのかもしれません。
アッティ
これは、民間だからこそできることですね。
島田 優平
そうですね。
アッティ
行政を批判するわけではなく、役割が違うのだと思います。
行政には、ある程度の期間を見据えた計画を作り、着実に進めていく役割があります。それも大切なことです。
一方で、民間には臨機応変に動ける強みがある。
この両輪があることは、町にとって非常に強いですよね。
島田 優平
そう思います。
アッティ
面白いですね。
ところで、なぜ「ジソウラボ」という名前なのでしょうか?
島田 優平
自分たちで「自走していく」という意味があります。
そして「ラボ」には、研究しながら変化していくことを楽しむ、という意味を込めています。
まちづくりが観光になる
島田 優平さんたちの活動を学ぶため、井波には視察や研修で人が訪れています。
参加者が町で食事や宿泊をすることで、まちづくりが自然に観光へつながりました。地域づくりと観光を一体で捉える新しい形です。
アッティ
なるほど。
自走しながら変化していく団体であることが、よく分かりました。
今回、新たに南砺市観光協会の会長に就任されるということですが、観光協会は、どちらかというと固定的なイメージもあります。
ただ、本来はかなり自由に動けるものなのかもしれませんね。
島田 優平
そうですね。
ジソウラボの活動を続けていると、「まちづくりについて勉強させてください」「視察させてください」という声がかかるようになりました。
10人、20人という人数で来られることもあります。
私たちも対応できる時間には限りがあるため、現在は有料で視察を受け入れています。
それでも、話を聞きたいと来てくださるんです。
アッティ
皆さん、来られると思います。
島田 優平
そうすると、「お昼ご飯も食べたいのですが、どこかありませんか?」「宿泊したいです」という話になります。
研修に来た方たちが、町で食事をして、宿泊し、お金を使う。
つまり、その方たちは観光客なんです。
結果として、ジソウラボは観光につながる活動をしていたことになります。
アッティ
最近、井波に人が増えている、若い人をよく見かけるという感覚があったとして、その人たちも基本的には観光客なんですね。
島田 優平
そうです。
アッティ
「ジソウラボが人を呼んでいるらしい」という雰囲気になっているわけですね。
島田 優平
そうなんです。
これまでのように大型観光バスを呼ぶことだけが、観光ではありません。
特に井波は、受け入れられる人数にも限りがあります。
だからこそ、井波を好きになってくれる人や、何かを学びたい人に来てもらう。
そのような人を呼び込むことも、観光だと考えています。
最近は、そうした考え方で動いてきました。その動きが広がりを見せてきたこともあり、これからの観光は地域づくりと一体で考える必要があると思っています。
今回、観光協会で役割を担ううえでも、地域づくりと観光を結び付ける取り組みを進めていく必要があると考えています。
アッティ
面白いですね。
ジソウラボの人づくりから始まり、町に必要な機能を考えて外から人を呼び、町全体で支えていく。
さらに、その取り組みを学びたい人が井波を訪れることで、観光にもつながっているということですね。
島田さん、ありがとうございました。
島田 優平
ありがとうございました。
富山への想い&オススメ店&リクエスト曲

観光を地域産業に変える
島田 優平さんは、南砺市観光協会を「五箇山NANTO観光機構」へ再編し、PRや誘致にとどまらず、自ら事業を行う組織へ変えていきます。
観光の担い手を育てながら、五箇山を軸に南砺市全体へ効果を広げ、地域産業として育てる考えです。
アッティ
島田さん、全5回のうち、いよいよ5回目ですね。少し寂しいですが、今回もよろしくお願いします。
島田 優平
お願いします。
アッティ
前回は、ジソウラボを中心としたまちづくりについて、リーダーシップを発揮されているお話を伺いました。
その中で、最近、南砺市観光協会の新会長になられたという話もありましたね。
ジソウラボの考え方を生かしながら、地域づくりを中心に進めていくとのことでしたが、今度は南砺市全体に関わる役割です。
どのように取り組んでいこうと考えていますか?
島田 優平
今回、観光協会の組織を再編し、名称も「五箇山NANTO観光機構」に変更しました。
これは私一人の意向というより、皆さんの考えを反映したものです。
これからは、何でも受け入れればいい時代ではないと思っています。
好きなものと嫌いなもの、興味があるものとないものは、はっきり分かれていますよね。
観光で人を引きつけるうえで、南砺市の中で最も力があるものは何かと考えると、やはり五箇山です。
その五箇山を前面に打ち出し、そこからシャワーのように南砺市の平野部へ効果を広げていく。
そうした取り組みを、能動的に仕掛けられる組織になろうとしています。
これまでは、PRや誘致など、どちらかというと「つなぎ役」のイメージが強かったと思います。
アッティ
そうですね。観光協会には、そのような印象があります。
島田 優平
それだけではなく、「自分たちで事業をやろう」と。
アッティ
事業をやる。いいですね。
島田 優平
そのために、事業を行えるよう定款も変更しました。
観光客が来ても、地元で受け入れる担い手がいない。これは、私たちのような田舎が抱える大きな問題です。
宿泊事業者も少ないですし、お土産を作る人も限られています。
観光に関わる人を育てていかなければ、仮に数百万人のお客さんが来ても、「楽しくなかった」と言われる場所になってしまいます。
そうならないよう、時間をかけて観光の担い手を育て、この機構が伴走していく必要があります。
アッティ
なるほど。
島田 優平
そういう意味では、ジソウラボが行ってきた人づくりを、南砺市全体へ広げていくイメージですね。
さらに、五箇山を中心に、それぞれの地域の特徴を生かしながら人を育てていく。
少し長い時間軸で、観光を地域の産業へ変えていきたいと考えています。
アッティ
なるほど。
そこまで取り組むと、もう地域づくりそのものですね。
島田 優平
そうですね。
アッティ
その中でも、「事業をやろう」という考えが大きな鍵になりそうです。
島田 優平
そうですね。そこは、これからの伸びしろでもあると思います。
また、世界に対してどうあるかを、市民一人ひとりが意識する町にならなければいけません。
外国人観光客への対応を考えても、まだまだ「もてなす」という点で配慮が足りていないんです。
たとえば案内板が少なかったり、交通機関に乗っても案内が分からなかったり、支払い方法が伝わりにくかったり。
できていないことは、まだたくさんあります。
そうした細かな部分も含め、世界から来る人の視点で取り組める組織にしていきたいですね。
アッティ
なるほど。
これは、島田さんだからこそ取り組む意味がありますよね。
島田 優平
ありがとうございます。何とか頑張りたいと思います。
アッティ
重責だと思いますが、期待しています。
ふるさと富山について
島田 優平さんは、富山を「人材の宝庫」と捉えています。
東京でも富山出身の優秀な人に出会うことから、人を育てる力こそ地域の強みだと感じています。「人づくりができる故郷」として、小さなところから形にしていく思いです。
アッティ
島田さんは南砺市で大きな役割を担う一方、学生時代には東京へ出られ、奈良で過ごした時期もあったそうですね。
そうした経験も含めて、ふるさと富山への思いを聞かせていただけますか?
島田 優平
富山は「人材の宝庫」だと思っています。
東京に行っても、「富山から来た」という優秀な人がたくさんいます。
人を育てていくことが、富山のすごさなのではないでしょうか。
「人づくりができる地域、故郷が富山だ」と言われるようになればいい。
そうしたことを、小さなところからでも実現していきたいと思っています。
アッティ
なるほど。ありがとうございます。
お気に入りの飲食店
アッティ
続いて、富山県内のお気に入りの飲食店を皆さんに伺っています。難しいとは思いますが、どこかありますか?
島田 優平
少し手前みそになりますが、井波にあるクラフトビール店の「NAT.BREW」です。
アッティ
ビール屋さんですね。
島田 優平
ビールを飲めますし、食事の持ち込みもできます。
アッティ
持ち込みもできるんですか?
島田 優平
はい。
観光客もいれば、地元の人たちも飲んでいて、人が集える場所になっています。
私はお酒を一滴も飲まないんですけどね。
アッティ
そうなんですか!
島田 優平
一滴も飲みません。
それでもNAT.BREWへ行くと、楽しいお客さんがいたり、外国人の方がいたりします。
単にビールを飲む店ではなく、人が集まる場所として大きな役割を持っていると感じます。
これからの店のあり方として、「人が集う」ということが、とても大切だと思うんです。
そこで出会い、共通の話題が生まれ、「一緒に何かやりましょう」「今度、そちらへ行きますね」と交流が広がっていく。
飲食店に限らず、そのような場所を作っていけるといいですよね。
NAT.BREWは、その一つのモデルだと思っています。
アッティ
楽しそうですね。
島田 優平
今、ちょうど進めているプロジェクトもあります。
クラウドファンディングを行い、NAT.BREWの前にあるクスリのアオキの大きな壁に、アートを描いているんです。
アッティ
店舗の壁があるんですね。
島田 優平
そうです。大きな壁があるので、そこへアートを描いています。
ビールを飲みながらアートを鑑賞し、その作品を見ながら、また「ああだ、こうだ」と語り合う。
アッティ
交流が生まれますね。
島田 優平
そうなんです。
ただ飲むだけではなく、その場を皆で共有し、コミュニケーションが生まれる仕掛けを作っています。
富山県全体が、そうした場所になっていくといいですよね。
人と人が豊かに付き合える地域であれば、旅行に来た人にも良い思い出が残ると思います。
地元の仲間同士の結びつきも強くなりますし、世代を越えて、先輩や後輩と話す機会も生まれます。
人づくりも大切ですが、ハードの面では、そのような店や場所を作ることも必要です。
今、目に見える形として、NAT.BREWの存在は非常に大きいと思っています。
アッティ
井波にあるNAT.BREWですね。ありがとうございます。
リクエスト曲
アッティ
そして第5回では、皆さんにリクエスト曲を伺っています。島田さんは、どの曲でしょうか?
島田 優平
Mr.Childrenの「Tomorrow never knows」です。
アッティ
この曲を選んだ理由は?
島田 優平
若い頃に見ていたドラマの主題歌でもありました。
今も、私自身、先が見えているわけではありません。明日がどうなるかも分からない。
その中で試行錯誤する苦悩は、年代を越えても変わらないと思うんです。
曲自体は少し前のものですが、聴くと「自分はいつも、こういうことを考えているな」と感じます。
初心に戻り、「また頑張ろう」と勇気をもらえる曲ですね。
アッティ
なるほど。
それでは、島田さんのリクエスト曲、Mr.Childrenの「Tomorrow never knows」です。
これからの夢や目標について
島田 優平さんの目標は、失われつつある建物や地域文化を守り、次の世代へ残すことです。
100年後に「この人たちが、こうして町をつないできた」と感じてもらえるよう、先人の営みや思いが息づく地域づくりへ挑戦していきます。
アッティ
最後に、これからの夢や目標を聞かせていただけますか?
島田 優平
夢というほどではないかもしれませんが、今、私たちが暮らす地域では、必要とされなくなった建物や、町がこれまで作り上げてきた建築物が失われようとしています。
そうした町の一部を守りながら、古き良き文化を地域社会にどう残していくか。そのことに挑戦したいと思っています。
最終的には、私たちの子どもや次の世代が、「よく、こんなことを考えて残してくれたな」と思えるような地域を作りたい。
それが、私にとっての夢であり、まちづくりの目標です。
その中には、自分の仕事も含まれてくると思います。
何を次の世代へ残せるのか。今は、そこへ挑戦したいですね。
私たちが今生きている社会も、100年ほど前の先人たちが思い描いたものの影響を、良くも悪くも受けています。
100年後、私は絶対に生きていません。
それでも、「こういう人たちが、こんなことをしてきたんだな」と感じてもらえる町にしたい。
地域全体で、先人の思いや営みを感じ取れる場所を残すことが、私の目標であり、夢ですね。
アッティ
分かりました。ありがとうございます。
全5回にわたり、島田さんからお話を伺いました。
最初は、ジソウラボでまちづくりをされていると聞き、「なぜ、まちづくりに取り組んでいるのだろう」と思っていました。
ただ、お話を聞いていると、それは必然だったのだと分かります。
生まれたときから木が身近にあり、株式会社島田木材で林業に携わるようになった。
さらに林業は、木だけの話ではありません。山があり、川があり、海がある。富山県全体、さらには日本全体へつながっていきます。
地域が活性化するには、まず人が元気になり、その力が町へ広がっていく必要がある。
島田さんの活動は、すべて一本につながっていると感じました。
島田 優平
ありがとうございます。
アッティ
これからますますのご活躍を期待しています。
今月のゲストは、株式会社島田木材社長、そしてジソウラボ代表理事の島田 優平さんでした。
島田さん、ありがとうございました。
島田 優平
ありがとうございました。
アッティ
この番組のこれまでの放送は、radikoの番組ページからポッドキャストでお聴きいただけます。
また、YouTube版も公開していますので、ぜひあわせてご覧ください。
お風呂の中でのぼせてまいりましたので、そろそろあがらせていただきます。アッティでした。
