【新田 八朗さん】富山県知事

【新田 八朗さん】富山県知事

こんにちは、アッティです。
アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!

今回のゲストは、富山県知事の新田 八朗 (にった はちろう) さんです。※2022年10月現在

民間出身で2020年に富山県知事に就任、幸せ人口1000万人、ウェルビーイング先進地域富山を目指す新田さんに熱く迫っていきます!

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この記事は、FMとやま 金曜17:15~17:25放送のラジオ「アッティの熱湯とやま人」の編集前データを、ほぼノーカットでまとめたものです。

放送では流れなかった裏話も含め、お楽しみください。

目次

新田さんの人柄

【新田 八朗さん】富山県知事。テーマ1

自己紹介&幼少期の話

要約

新田八朗さんは、5歳上の姉と2人姉弟で、父親とは39歳差がありました。

父は中小企業の経営者で多忙だったため、キャッチボールなどの親子の触れ合いの記憶はほとんどありません。

アッティ
新田さん、どうぞよろしくお願いいたします。

新田八朗さん
こんにちは、新田八朗です。アッティさんよろしくお願いします。

アッティ
よろしくお願いします。

新田さんが知事になられて、まもなく2年だと思いますけれども、県庁では確か肩書きではなくて、「さん」付けで人を呼ぶというお話を聞いています。

今回は「新田さん」と、「さん」付けで呼ばせていただいてよろしいでしょうか?

新田八朗さん
もちろんです。県庁内でもそのように、もうすっかり浸透してまいりました。

アッティ
そうですか、ほぉ、なるほど。今回は「新田さん」ということで、お呼びしてまいりたいと思っております。

今回は4回にわたって、新田さん自身のプライベートだったりとか、人柄であったりとか、そんなことを少しね、皆さんにもご理解いただけるようにお話を聞いていきたいなと思っております。

新田八朗さん
アッティさんの引き出す力を借りまして、県民の皆さんに「新田八朗はどんな男だ」とか、「どんな人間だ」ということが少しでも伝われば嬉しいと思います。

アッティ
だいぶ昔の話になってしまいますけれども、生い立ちの一つとして「幼少期どういう方でいらっしゃったのか」、そんなことについてお聞かせいただきたいと思います。

生まれてからどういう感じの方でいらっしゃったんですか? 子どものときっていうのは。

新田八朗さん
私は姉との2人姉弟でした。姉とは5学年違って、さらに男女の違いもあったので、姉弟で遊んだとかケンカしたとか、そういうことはあんまりなかったですね。

かつですね、父親とは39歳年が離れていました。

アッティ
離れてますね。

新田八朗さん
はい、けっこう離れてたと思います。

ですから、よく父子の図であるキャッチボールをしたりとかですね、そういう記憶はゼロです。

アッティ
ないんですか?

新田八朗さん
はい。

アッティ
自転車を教えてもらったりとか、そういうのもないんですか?

新田八朗さん
ないですね。父も中小企業の経営者で、本当に資金繰りに奔走するような日々だったと思うので、そんな余裕は全くなかった。

当時はもちろん土日が休みではなく、日曜日1日。

アッティ
そうですね。

新田八朗さん
日曜日も父親は大体何か行事が入っていて、たまにいるときも疲れ果てて寝ている姿しか覚えていませんね。

学生時代の新田さん

要約

新田八朗さんは、小学校から高校までサッカー部に所属し、高校総体にも出場しました。

中学時代にはバンドでエレキベースを担当し、ロック音楽に熱中。

また、いつの頃からか海外に憧れ、そこで活躍したいと考えていました。

アッティ
小・中・高とか、そういったときに家族の方となかなか触れ合いがなかった、という話はありますけれども。

例えば、友達であるとか部活であるとか、いろんなことがあったと思いますが、新田さん自身が興味を持って、特に力を入れていたことって何かあったものなんですか? 

新田八朗さん
部活は、小学校から高校までずっとサッカーをやっていました。

アッティ
おぉ、サッカーなんですね!

新田八朗さん
はい、これはそれなりに。当時、野球やるかサッカーやるか、大体そんなところだったと思います。

そこそこやりました。サッカーで高校総体に出たりとかですね、和気あいあいと友達とやっていたのが私のサッカーでした。

その他は、いつの頃からか海外にとても憧れを、憧れというか「できれば海外に飛び出していって、そこで活躍をしたい、仕事をしたい」そんなことを思うようになりましたね。

アッティ
そうですか!

中学のときにバンドというか、曲みたいなこともやってらっしゃったって話を聞いたんですけれども、それもそうなんですか?

新田八朗さん
はい。それはその頃の、その世代の子どもたちの流行でもありましたね、バンド組んでロックをやるというのは。フォークの人もいましたけども。

これが「フォーク対ロック」で論争になったりしてですね。

アッティ
新田さんは、ロックだったんですか?

新田八朗さん
そうですね、僕はエレキベースの担当でした。バンドの中では。

アッティ
ベースだったんですね。なるほど。

「公益」への意識

要約

新田八朗さんは、自分自身を「公益」を大切にする人間だと自己評価します。

それは母親の影響が大きく、高校受験の際に雪かきを指示され「世のため人のために行動すること」を教えらたからです。

アッティ
小・中・高、そういった形で過ごされてきて、ご自身から見た「自分の人物像」というか、「どういう人間だ」っていうのは、どう思われますかね?

新田八朗さん
かっこいい言い方になりますけども「公益」、公の益ですね。

もちろん自分のことも大切ですけども、周りのこと、さらに言うと社会のこと、これも大切。そんなふうな人間です。

「どういう影響を受けたのかな」と考えると、思い出すのはやっぱり母親のことですね。

アッティ
そうですか。

新田八朗さん
例えば一つ、受験生時代の思い出ですけども、勉強についてはのんびりやってましたが、さすがに高校3年になると受験生の中の1人になりました。

それなりに勉強をする思いはあったんですが、机に座っているとですね、母親が来て「外は雪だ」と。「すごい雪だ」と。「雪かきしてこい」と言うんですね。

アッティ
受験勉強中に?

新田八朗さん
珍しく勉強しようとしてるのに (笑)

アッティ
邪魔するなと (笑)

新田八朗さん
母親が「いや、ダメだ」と。

「こんな雪が降ってるのに、お前が少しぐらい勉強して良い学校行っても、あんまり世の中の役には関係ない」と。「今、家の前の道路の雪かきをする方がよっぽど人のためになる」と。

アッティ
なるほど、なるほど。

新田八朗さん
だから「すぐに行ってきなさい」ということでした。

渋々、スコップに持ち替えて、当然、嫌々ですからね、本当に最低限の雪かきをして戻ってきたら、母親がそれをチェックしてですね、「これじゃ、だめだ」と。

やっぱり「お隣の分まで、せめて50cm、1mぐらいやっておかないと、ご町内の関係がギスギスするだろう」と。

「そんなもんかなぁ」と思って、また出て行ってやり直したという。そんなことがありましたね。

アッティ
お母さんも、世のため人のためという観点が非常に強い方だったんですね。そこから今の新田さんに繋がってるということなんですね。

新田八朗さん
母親としては、そこまで大それた思いはなかったのかもしれません。純粋に、本当に私が大学行くよりも、雪かきした方が世の役に立つと、周りの町内のためになると、そうな思いだったんだと思いますね。

でも、そういった身近なことから「公益」、公の益ということを教えてくれたのかな、と今は思いますね。

アッティ
こうやって人柄を聞いていくだけでもたくさん出てくるところではありますけれども、今回はちょっとお時間も参りましたので、以上とさせていただきます。

次回は、社会人になってから、例えば「日本海ガスを継がれて社長としてどうだったのか」、そういったことについて話をお聞きしていきたいと思っております。

日本海ガスの社長になるまで

【新田 八朗さん】富山県知事。テーマ2

夢と進路選択

要約

新田八朗さんは、幼少期から「海外で活躍したい」と考え、「素晴らしい世界旅行」などの番組に熱中していました。

就職活動では、外交官を目指したものの難関で諦め、商社や銀行を検討。結果、経済学部の知識を活かせる金融機関に就職しました。

アッティ
前回は幼少期の頃の、また社会人になるまでの話をお聞きをしました。

今回は、それ以降、例えば社会人、社長をやられていたときのお話などをいただきたいなと思っております。

小・中・高を経て、その後大学にも行かれて、そこから社会人になられたわけなんですけれども、社会人のときは東京にいらっしゃったんですか?

新田八朗さん
はい。子どもの頃から「海外にとても行きたい」「海外で活躍したい」、そんなふうに思うようになってました。

ですから、例えばですね、その頃の少年たちはみんな「巨人の星」っていう番組に熱中したんですが、私はそれには全く興味なくて、「素晴らしい世界旅行」とかね、そんな番組を必ず見ていました。

巨人の星
梶原一騎 (原作)、川崎のぼる (作画)の大人気野球漫画

日立ドキュメンタリー 素晴らしい世界旅行
日本テレビ系列で毎週日曜日に放送されていた、日立製作所ほか日立グループ単独提供の紀行番組

アッティ
スポーツの方ではなかったわけですね。

新田八朗さん
そうですね。そのままずっとそんな思いを持ち続けていたので、就職を選ぶときも「海外に行ける仕事って何だろう?」って。

アッティ
そうですか。

新田八朗さん
とっても単純な結論で「それは外交官だろう」と。

アッティ
おぉー、なるほど。

新田八朗さん
外務公務員を目指そうと思って頑張っていたんですが、残念ながら…なかなか難関ですからね、あれ。

アッティ
そうでしょうね。

新田八朗さん
力及ばずで諦めて、民間の仕事。

「民間で何だろう? 」と思ったら、やっぱり商社か銀行ということで思いついて、それを中心に就職活動しました。

アッティ
外交官は諦められた、ということでありますけれども。就職はどのような?

新田八朗さん
当時は日本のグローバル化とともに金融機関もどんどん海外に出ていって、あるいは海外の金融機関を買収する、そんな勢いのある時代でした。

商社と金融機関と両方就職活動しましたが、経済学部だったので「銀行であれば、そんな知識も幾分は活かせるかな」と思って、結果的に金融機関に決めて就職をいたしました。

銀行勤務と父親の病気

要約

新田八朗さんは銀行に入社しましたが、実際の業務は海外とは無関係で、お札を数える日々でした。

海外赴任の試験に合格した矢先、父が病に倒れ富山に帰ることに。父は無事回復しましたが、新田さんは会社を継ぐために愛知県の同業者で2年間修業し、社会人や業界の基礎を学びます。その間、青年会議所の活動も経験しました。

アッティ
「海外志向があったため銀行」ということでありますけど、実際銀行でのお仕事ってのは、海外志向と繋がるとこってあったんですか?

新田八朗さん
「はい、そうです!」と言いたいんですが、もう全くなくてですね (笑)

アッティ
そうなんですか (笑)

新田八朗さん
やっぱり経済学部でそれなりに勉強して青雲之志 (せいうんのこころざし) を抱いて銀行に入ったんですが、最初の半年はひたすらお札を数えるという。

一方で海外への夢、そのために私は銀行に入ったんだと思ってましたので、「明日はニューヨークか」「明後日はロンドンか」と思って。

社内で海外に行くための登竜門みたいな試験がありましてですね、語学のこととか、いろいろ。それはもう、新入社員の中で真っ先に合格しまして。

青雲之志 (せいうんのこころざし)
徳を磨いて、立派な人物になろうとする心

アッティ
本当ですか。

新田八朗さん
「さぁ、いよいよだ」と思っていたんです。

アッティ
ほうほう、そこからはどのように?

新田八朗さん
そこからですね、ある日「父が病に倒れた」という連絡が入りました。

当時はもちろん土曜日もまだ仕事だったので、日曜日、日帰りで富山にとんぼ返りで戻りました。

病床で疲れ果てた、やつれた父の姿を見て「大丈夫かな」と思ったんですが、その場で「よかったら戻ってきてくれないか」と言われたんですね。

アッティ
社会人になって何年目ぐらいのときですか?

新田八朗さん
いやぁ、まだ2年ですよね。

アッティ
2年ですか。

新田八朗さん
はい。

アッティ
そうやって富山に帰ってこられて、日本海ガスにそのまま就職されたわけですよね? もちろん。

新田八朗さん
実はですね、銀行を辞めることを決めて、そう伝えたら、何かそれで安心したのか持ち直しまして、父親が。

アッティ
そうですか。

新田八朗さん
それで実はそのまま「畑違いの会社だから、ちょっと修行してこい」ということで。

アッティ
一つ間を入れられたわけですね。

新田八朗さん
愛知県の同業者で、2年間修業することになりまして。

アッティ
なるほど。

新田八朗さん
父親と仲の良かった経営者の方が経営される会社で、本当に仕事のイロハから、業界のこと、あるいは社会人のことについて徹底的に叩き込んでいただきました。

と同時にですね、青年会議所ということも、その会社で散々叩き込まれました。

アッティ
そうなんですね。

新田八朗さん
というのは、そこの社長さん、神野さんという方ですが、実は元青年会議所の会頭をやられた方だった。会頭というのは…

アッティ
トップですよね?

新田八朗さん
そうですね、組織のトップです、日本全体の。

そんなことがあったので、さんざんそっちも叩き込まれました。

日本海ガスでの経営改革

要約

新田八朗さんは修行を経て日本ガスに入社しましたが、前近代的な組織に目の前が真っ暗になりました。

そこで、若手社員と「日本経済新聞を読む会」を立ち上げ、仲間を増やし情報共有を図ります。最初は少数でしたが、徐々に参加者が増え、組織改革の基盤を築きました。

アッティ
修行を経て、日本ガスさんに入られたわけですよね。そこで海外志向があり、ましてや元々継ぐ気がなかったっていう気持ちの中から、一気に頭を切り替えて経営者になるための道筋を進んでいくわけなんですけれども。

実際、会社に入ってみてどうでしたかね?

新田八朗さん
今思い返すとですね、当時の、もちろん父親、それから役職員、それから歴史を作ってこられた先輩方に大変申し訳ないことなんですが、目の前が真っ暗になりましたね。

アッティ
そうですか。

新田八朗さん
なんだこの、前近代的な組織、会社。

本当に個人商店みたいな、良くも悪くも父親が全部決めるという。そんなことになっていました。

アッティ
そこからどういう組織改革というか会社作りをし始められたんですか?

新田八朗さん
まず自分のシンパというか、仲間を会社の中でつくらなきゃということで、比較的若い、もちろん私が圧倒的に若かったんですが、比較的若手の人たちと勉強会をやろうと。

「テーマは何にしようか?」ってことで、「日本経済新聞を読む会」というのをやりました。朝ちょっと30分早く出てくれと。

シンパ
「シンパサイザー」の略。同調者のこと

アッティ
はいはい。

新田八朗さん
「一緒に日経新聞を読もうじゃないか」と。そんな中で比較的若い人たちに、突然東京から帰ってきた社長のせがれ、出来がいいのやら悪いのやらはわからない、そんな私のことを知ってもらおうと。

あと同時に、やっぱり世界の、日本レベルの、ビジネスの情報も富山にいてもみんなで知り、情報共有をしようという。そんな思いもあってやりました。

最初は2~3人でしたが、だんだんと増えてきて、それなりの仲間ができてきたということです。

アッティ
なるほど、わかりました。ありがとうございます。

それでは今回は以上とさせていただきまして、次回は、今の会社における取り組み、青年会議所、知事としての活躍、それらについてお話をいただきたいなと思っております。

富山県知事になるまで

【新田 八朗さん】富山県知事。テーマ3

日本海ガスでの経験

要約

新田八朗さんは、日本海ガスの仲間と将来のビジョンを作り、小口商売から法人向けBtoBビジネスへ拡大しました。

その過程で「国際石油開発帝石」に新潟からパイプラインを引いてもらい、安定的な原材料調達を実現。この取り組みにより、会社の規模を飛躍的に拡大させました。

アッティ
前回は、銀行へ就職後、日本海ガスに入社するまでの話をお聞きしましたけれども、少し深掘りしてまいりたいなと思っております。

日本海ガスを継いで、「まず仲間作りをしよう」ということで、日本経済新聞を読みながらみんなで意見を言い合うことからスタートした、という話がありました。

社長になられて、一国一城のトップになっての活動の中で「会社自身を大きく変えた」「組織を変えた」ということで、何かありましたらお話いただけますでしょうか?

新田八朗さん
「日本経済新聞を読む会」という本当に手作りの勉強会から始めて、だんだん仲間が増えていって。

その仲間と、まず「将来のビジョンを作ろう」ということをやりました。そして「20年後ぐらいを見たビジョン」というものを作った記憶があります。

そんな中で、それまで会社は、いわゆる一般のお客様相手の小口の商売がメインだったんですが、「法人、BtoBのビジネスもそこにプラスしなきゃ規模の拡大はなかなかできないな」と思いまして、そういった方向に舵を切りました。

それで規模は飛躍的に大きくなりました。ただ、原材料も飛躍的に増えるわけですから、それを安定的に調達する必要があるということで、これは「国際石油開発帝石 (現 株式会社INPEX)」という会社にお願いをして、新潟からパイプラインを引いてもらったということも。

これも一筋縄ではいきませんでしたが、本当に何度も何度もお願いして。富山県のこれからのポテンシャルを熱く語り、最終的に「国際石油開発帝石」さんとしては大変大きな1000億近い投資でしたが、その投資をいただいて、富山までパイプラインが繋がったということであります。

そんなこともあり、業容拡大することができました。

青年会議所での活動

要約

新田八朗さんは、青年会議所での活動を通じて、富山から北陸、日本、そして世界へと繋がる組織に参加できることに魅力を感じました。

これは、子どもの頃からの海外への夢を実現するためのアプローチだと考えています。

アッティ
前回「青年会議所での経験も自分の糧になっている」という話をお聞かせいただいたんですが、その活動について少しお話いただけますでしょうか?

新田八朗さん
はい、私は子どもの頃から本当に海外に憧れを持つ子どもでした。

富山青年会議所のドアを開けるということは、それは富山県の組織もあるし、それから北陸全体の組織もあるし、そして日本全体の組織もあるし、さらに世界の組織もあるという。これが私にとっては、何かピンときました。

アッティ
「世界」という言葉ですね。

新田八朗さん
反応しました。

アッティ
なるほど。

新田八朗さん
「そうか!」と。富山の扉を開くことで、世界の扉にも繋がるかもしれない。

そうすることで「私の子どもの頃からの海外への夢に、何らかのアプローチができるんじゃないか」と、そんなことを期待しましたね。

知事になった経緯

要約

新田八朗さんが知事になろうと決断した背景には、母親からの教えや青年会議所での経験があります。

60歳を過ぎ、孫の将来を考えたときに「次の世代のために何ができるか」と思い、公のために行動することを決意。この思いは、子どもの頃からの公益に対する考えと重なっています。

アッティ
ここまではどちらかというとプライベートや生い立ちが中心だったんですが、ここからは「知事のこと」や「富山県のこと」をお話いただきたいと思います。

まず、新田さんが知事になろうとされた思いって、どういったところからだったんですか?

新田八朗さん
そうですね。今アッティが言ったように、私も実は今でもたまに思うことがあります。

「どうして私はこの決断をしたのだろう」とか (笑)

アッティ
面白いですね (笑)

新田八朗さん
やっぱり底流には、高校生の頃に母親に「雪かきしろ、その方が世の中のためになる」と言われたのが、ずっとあったんだなと思います。

さらに富山に戻って、青年会議所の活動。これはまさに今も公益社団法人でありますけども、公益を考えて仕事をするかたわら、活動を通じて世の中のためになろうということをする。それでかなり鍛えられましたので、それがやっぱり、この決断の根っこにあるなと思ってます。

それともう一つ、やっぱり年齢もありますね。

アッティ
そうですか。

新田八朗さん
20代から40代、ざくっというと、本当にいわば仕事と青年会議所をやりました。そして40代から60代、60までは経営者として、これはもう一生懸命やりました。

そして60になって、実は孫ができて、その孫の顔を見ていて。

アッティ
なるほど。

新田八朗さん
「この子たちの将来はどうなるんだろう? 日本、そして富山県は?」と思って、「どうしていけばいいんだろう?」あるいは「自分ならどうできるんだろうか?」と、だんだん変わっていきました。

そこに子どもの頃からの公益に対する思いというのが重なって、「そうか」と。「じゃあ今と違う立場で、富山県のために、また次の次の世代、孫世代のために何ができるか、何をやらなければならないのか」、だんだんそんな思考になりました。

アッティ
そうすると、知事になろうと思ったのは昔からというわけではなくて、本当につい最近であるということなんですね?

新田八朗さん
そういう意味では、60超えてからですね。

アッティ
なるほど。

新田八朗さん
はい。

アッティ
確かに、でもそうですよね。私もそうですけど、「私の時代はまだしも」と考えながらも、子どもであったりとか孫の時代ってのは本当に不安に感じますよね。

それを「何とかしよう」と、公の気持ちを持って立ち上がられたということだと思います。

知事の仕事とやりがい

要約

新田八朗さんは、特にこの2年半はコロナとの闘いに注力。頭の中も、半分以上がコロナ対策で占められていました。

知事の仕事にはやりがいがあり、責任は重いが権限も大きく、しっかり準備して取り組めば実現できると信じています。

アッティ
知事としての仕事っていうのは、我々県民にしてみるとなかなか見えないところがあるんですが、日々どんなことをされてるんですか?

新田八朗さん
この2年半は、コロナとの闘い。これはもう世界中のことですけども、知事としての仕事も。というか、私の頭の中もそうですね、半分以上はやっぱりコロナとのことが常にありますね。

これは実は、以前の知事の皆さんにはなかった仕事であります。でもこれは今を預かるものとしては、しっかりと真正面から取り組んでいることであります。

アッティ
自分がやりたいと思ってたことも含めて、知事ってやっぱりやりがいがあるものですか?

新田八朗さん
それはもう「100%ある!」と、即答できますね。

アッティ
そうですか。

新田八朗さん
はい。

アッティ
なるほど。

新田八朗さん
もちろんその裏返しとして、責任はとても重いです。でも権限も大きいです。

ですから、本当にやろうと思って、そしてしっかりと準備をして組織をまとめてやれば、できないことはないと私は思っています。

アッティ
今「やりがいはあります」という強いお言葉をいただきましたので、次回は、ぜひとも知事としてのことも少しお聞かせいただきながらも、次回は最終になりますので、ふるさと富山についてとか、人生のこだわりについて話をお聞きしていきたいと思っております。

富山への想い&オススメ店&リクエスト曲

【新田 八朗さん】富山県知事。テーマ4

ふるさと富山について

要約

新田八朗さんは、富山県を「安心安全の上に産業が集積した恵まれた場所」と評価。

人生のこだわりは「世の中のお役に立つこと」。生きている限り、その姿勢を貫いていきます。

アッティ
最終回もしっかりと新田さんのことを引き出してまいりたいと思っております。

前回「富山県知事ってどうなんですか? やりがいあるんですか?」って話をお聞きしましたら、「やりがいは、ものすごいあります!」という強いお言葉をいただきました。

新田さん自身は、このふるさと富山についてどういうふうに思ってらっしゃるのか、まずお話いただけますか?

新田八朗さん
富山県は、140年ほどの歴史がありまして。皆さんもご存知だと思いますが、本当に自然との戦い。特に「急流河川が暴れる、これをどう治めていくか」という戦いだったんですね。

それを先輩たちが本当によくやっていただいたおかげで、今、我々は基本的に安心安全な暮らしを送っていられる、ということであります。

この安全安心の上に様々な産業が集積していて、私は47都道府県の中でもとても恵まれた県だと思っています。

そして場所もいいですよね、本当に日本のど真ん中ですからね。

アッティ
富山で過ごされて、そこから県外の大学に行かれて、ましてや海外志向であるということもあって、どんどんどんどん富山から離た目線から見たとき、この富山があって、今のお話になってるのかなというふうに思います。

これからまだまだ活躍されていく中において、「人生のこだわり」というのを皆さんにお聞きしているんですが、新田さん自身の人生のこだわりって、どういったところにありますか?

新田八朗さん
1回目からずっと繋がってきていることになりますが、やっぱり「世の中のお役に立つ人生」ということ。

とってもかっこよく聞こえるかもしれませんが、振り返ってみるとそういうことだなと。そして、これからも生きている限り、その路線を貫きたいと思っています。

アッティ
新田さんのお話を4回にわたってずっと聞いていますと、やっぱり一つのテーマは「公益」。

これからも、新田さんの「公益」に繋がるよう活動する姿を、我々はしっかり見てまいりたいなと思っております。

リクエスト曲

【新田 八朗さん】富山県知事

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