【村 健太郎さん】海老亭別館 4代目主人

【村健太郎さん】海老亭別館 4代目主人

こんにちは、アッティです。
アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!

今回のゲストは、海老亭別館4代目主人の村 健太郎 (むら けんたろう) さんです。※2025年3月現在

ミシュラン2つ星を獲得してもなお、料理の道を追求し続ける村さんに熱く迫っていきます!

海老亭別館

この記事は、FMとやま 金曜17:15~17:25放送のラジオ「アッティの熱湯とやま人」の編集前データを、ほぼノーカットでまとめたものです。

放送では流れなかった裏話も含め、お楽しみください。

目次

海老亭別館を継ぐまで

【村健太郎さん】海老亭別館 4代目主人。テーマ1

村健太郎さんの紹介と挨拶

要約

村健太郎さんは48歳で、2025年の年男。

父親の他界により26歳という若さで海老亭別館の店主になり、現在22年の経験を持つベテラン料理人として活躍しています。

アッティ
村さん、どうぞよろしくお願います。

村健太郎さん
よろしくお願いします。

アッティ
これまでゲストで来ていただいた30数名の中に、料理人の方はいらっしゃらないんですよ。

村健太郎さん
そうなのですね。

アッティ
まして最近の富山は、新鮮な魚だけじゃなく世界的にも有名になってますよね。

そんな富山の料理について、たっぷりとお話をしていただきたいなと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。

村健太郎さん
よろしくお願いします。

アッティ
突然ですが、村さんは今おいくつですか?

村健太郎さん
2025年の2月で48歳になります。今年はちょうど年男なんですよ。

アッティ
48歳で店主になってバリバリやってるというのは、料理の世界ではどうなんですか?

村健太郎さん
ずっと若手だと思っていたのに、気づいたら「ベテラン」みたいな扱いになっていて。

でも自分ではまだまだ若手だと思ってるので、さまざまなことに挑戦し続けようと思ってます。

アッティ
元々店主になったのは、何歳のときだったんですか?

村健太郎さん
26歳です。

アッティ
若いですよね。

村健太郎さん
普通でいうと若いですよね。

ただ私の場合、父が他界してしまって帰って来ざるを得なかったということなんですけど。

アッティ
そうすると、亭主歴はもうめちゃくちゃ長いですよね。

村健太郎さん
22年ですね、歴だけは。

創業60年の海老亭別館の歴史

要約

海老亭別館は元々、60年以上前に結婚式場「海老亭」の宿泊施設として開業しました。

第一ホテルの開業に伴い、3代目 (村さんの父)の時代に旅館業から料理屋へと転換。

「滝が流れる割烹」として知られ、居酒屋が少なかった当時、多くの客で賑わっていました。

アッティ
村さんの簡単な自己PRと、今の海老亭別館について少しお話をいただきたいと思います。

村健太郎さん
海老亭別館は私で4代目で、富山の皆さんのおかげで続けられている次第です。

東京の大学に行って、料理人として修行して、富山に帰ってきて22年になります。

アッティ
海老亭別館は、どんな料亭なんでしょうか?

村健太郎さん
海老亭別館は、元々「海老亭」という結婚式場の別棟として、式場に来たお客様が宿泊する施設としてオープンしたのが始まりです。

3代目の父の代に、近くに第一ホテルさんができるタイミングで旅館業をやめて、料理屋に業種を転換しました。

「滝が流れる割烹」ということで、当時は本当にたくさんのお客様が来てくださったんですよ。

まだ居酒屋などが少ない時代でしたから、とても忙しくしていた様子を幼いながらによく覚えています。

アッティ
元々は旅館だったんですね!?

村健太郎さん
そうですね、旅館です。

アッティ
いつ頃出来たんですか?

村健太郎さん
出来たのが昭和47年?昭和20? 今年で創業60年なので、何年だろう?

アッティ
昭和30年ぐらいですかね。

村健太郎さん
そうですね。

アッティ
最初は旅館でスタートされていって、近くに第一ホテルが開業するなど環境が変化したことで、旅館から料亭に主軸を置き始め、現在4代目として経営されていらっしゃるんですね?

村健太郎さん
はい。

恵まれた幼少期のエピソード

要約

村健太郎さんは幼少期、料亭「海老亭」の後継ぎになるとは全く考えていませんでした。

バブル期に「坊ちゃん」と呼ばれ、常に美味しいものを食べさせてもらえる恵まれた環境で育った村さん。

家に友達が来ると調理場に電話して「天丼4つ」と注文しているような子どもでした。

アッティ
小さい頃から海老亭が横にありながら生活されてきたと思いますが、幼少期はどんな感じの子どもだったんですか?

村健太郎さん
「後を継ぐ」なんてことは、ほんの少しも思ったことがなくて (笑)

アッティ
思ってなかったんですか?

村健太郎さん
全然なかったですね。

当時の「海老亭」「海老亭別館」といえば相当な勢いがあった頃で、周りからも「坊ちゃん」と呼ばれていました。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
本当にね、周りから「金持ちのボンボン」みたいに扱われて。幼少期なんて、もうどうしようもないハナタレ小僧だったと思います。

業者さんが家に出入りすると「坊ちゃん、坊ちゃん」って言われて、お菓子をもらったりしてましたし。

当時はバブルの勢いもすごくて、知らない人からもお年玉をもらうような、そんな幼少期だったと思います。

アッティ
すぐ横に海老亭があったわけですが、幼少期はそれをどう見ていたんですか? 海老亭のことを。

村健太郎さん
「継ぐ・継がない」などは、全く考えていなかったですね。

とにかく「うちはお金がある家なんだな」と。いやらしい話ですけど (笑)

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
食べ物も常に美味しいものを食べられていましたし、「恵まれてる」ということすら気づいていなかったかもしれないですね。

アッティ
海老亭別館で出ているような料理を食べる機会が、やっぱり多かったんですか?

村健太郎さん
友達が遊びに来たら調理場に電話して「天丼4つあげて」なんて言ってましたね。

もう本当に「甘やかされて調子にのっている子ども」だったので…

アッティ
相当わがままな子どもだったんですね (笑)

村健太郎さん
今、私の息子がそんなことをしようもんなら、間違いなく厳しく叱り飛ばしますよ!(笑)

アッティ
本気で叱りつけますよね。

でも、注文した料理がちゃんと出てくる家だったんでしょうね。

村健太郎さん
「どんどん食べてくれ」って、友達に天丼やお造り膳を食べさせていましたね。

忙しかった両親との思い出

要約

村健太郎さんが中学生になる頃には官官接待が禁止となり、お店は厳しくなったものの、両親は忙しく働いていました。

店休日は第2・第4日曜日のみで、その日は父親の強い意向で家族の食事が絶対優先。

母親は店で働きながらも毎日手料理を作ってくれており、これが村さんの「食べることが好きになったきっかけ」へと繋がりました。

アッティ
小中学校の頃はどのような生活だったんですか? やっぱり同じような環境ですか?

村健太郎さん
小学生までは恵まれた環境で過ごしていたと思います。

中学生になった頃には、官官接待が規制されるようになり、店の経営が厳しくなったと感じていました。

それでもお客様は途絶えず来ていらっしゃって、両親は忙しく働き、仕事が終わると疲れ果ててソファーに倒れるように眠り込んでいた姿は今でも記憶に残っています。

官官接待 (かんかんせったい)
地方自治体の職員が公費を使って中央省庁の職員を接待すること

アッティ
お店を営んでいると、家族の時間を持つのは難しかったんじゃないですか?

村健太郎さん
実は当時、第2・第4日曜日だけが休みで、あとはもう営業だったんですね。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
限られた休日の日曜日は、父が「どんな用事があっても家族との食事を優先させるように」と強く言っていました。

「遊びに行っていても、食事の時間には絶対に帰宅する」ということが、徹底されていましたね。

アッティ
夕食だけは、月2回必ず一緒に食事されていたんですね。

村健太郎さん
必ずでした。

アッティ
お父さんも、家族の時間についてしっかり考えてらっしゃったんでしょうね。

村健太郎さん
あと当時のことでよく覚えているのが、うちの母はお店で忙しく働いていたのに、それでも必ず毎日自分で料理を作っていたってことです。

アッティ
家の料理を作ってらっしゃったんですね。素晴らしい!

村健太郎さん
たまに出来合いのものもあったかもしれないですけど、「誰かが作ったものだけ」「買ってきたものだけ」という日はなかったです。

アッティ
素晴らしいですね!

そうやって育ちながらも、当時はまだ「料理人として後を継ぎたい」という感覚は全くなかったんですか?

村健太郎さん
「料理人になりたい」という気持ちはなかったですね。

ただ、食べることが好きになったのは、母の手料理があったからこそだと思います。

アッティ
なるほど。料理に興味を持ち始めた感じですかね?

村健太郎さん
食に対する興味はありました。

ただ、作るよりも断然「食べる方が楽しい」と感じてましたね。

大学時代のエピソード

要約

村健太郎さんは神奈川県藤沢の日本大学で海洋資源を学び、この頃漠然と「お店を継ぐかも」と感じていました。

同級生の多くは食品会社に就職し、料理人になったのは少数でしたが、大学で学んだ魚の生態や神経系統の知識は、現在の料理人としての仕事 (魚の温度管理や締め方など) に役立っています。

アッティ
富山を出て県外の大学に行かれたんですよね? どちらに行かれたんですか?

村健太郎さん
神奈川県の藤沢にある日本大学に行きました。

その頃何となく「後を継いでもいいかな」と感じていて、「どうせ大学に行くんだったら (食に) 近いものがいいな」というので、海洋資源を学びにいったんですよ。

場所が藤沢だったので、江の島で釣りをしたり、芦ノ湖にブラックバスを釣りに行ったりしてましたね。

アッティ
幼少期や小中学校時代にはあまり「継ぐ気がない」「興味ない」と思っていながらも、(家業に関係することは) 身体に染みてるんでしょうね。

村健太郎さん
どうなんでしょうね。

今考えてみると、気づかないうちに親がレールの上にエサをまいていて、私はそのエサを食べながらいつの間にかレールの上にしっかりと乗っていたのかな? という感じがしますね。

アッティ
そうかもしれませんね。

当時、ご両親がしっかりレールを敷いてた可能性もゼロじゃないですよね。

村健太郎さん
「うまいことやられたな」って感じですね。

アッティ
大学で海洋資源を専攻されたということは、その時点で「店を継ぐだろう」と感じていたんですか?

村健太郎さん
大学で魚の生態について勉強してるうちに、「いつかは店を継ぐことになるんだろうな」という気持ちが心のどこかで育ってきてたんだと思います。

アッティ
魚の生態などの学びって、料理人に影響してるものなんですか?

村健太郎さん
私のこれまでの料理人としての人生において、この学びが意外と役に立っているんですよ。

アッティ
面白い! どういうところですか?

村健太郎さん
例えば「この水温なら魚がちゃんと生きられる」という知識は、「エビや活イカの鮮度を保つには、この時期ならこのくらいの水温で、水もきれいにしておかないと」って感じで。

また「この魚はここに脳があって、神経がこう走ってる」って体の仕組みの知識は、魚を締めるときにすごく役に立ってます。

アッティ
なるほどなるほど、仕事にかなり活きているわけですね!

村健太郎さん
「美味しい魚はここに脂がつく」など、魚の目利きに通ずるようなところもあります。

アッティ
他の料理人の方で、そういった魚の生態学的な知識を持ってる方って少ないんじゃないですか?

村健太郎さん
そうですね。

実際に魚をたくさん触ってると、やっぱり1匹1匹、個体差が出てくるわけで。料理人としては「この違いをデータとしてどう蓄積していくか」みたいなことが大事になってくるんですよ。

でも僕の場合は、大学で勉強した生態学の知識があるから「この魚は骨がこうなってるから、こうやって捌くといいんだな」って、学術的な知識を料理に活かせるんですよね。

アッティ
ちなみに日本大学藤沢キャンパスの海洋資源を専攻される学生の中には、将来料理人を目指している方って他にもいたものなんですか?

村健太郎さん
僕の同級生だと、料理人はイタリアンをやってる子が1人だけでした。

あとは皆さん「マルハニチロ」「日本ハム」「プリマハム」などの食品系に就職していましたね。

アッティ
ある意味、珍しいキャリアパスを選ばれたということですね。

村健太郎さん
珍しいかもしれないです。

アッティ
大学で魚の生態を勉強してたことが料理人としての土台になってる、って面白いですね。

今回は村さんの子どもの頃から大学時代までの話を聞かせていただきました。

次回は、どうやって料理人としての一歩を踏み出したのか、そのあたりの話を聞いていきたいと思います。

徳島の料亭「青柳」での修行

【村健太郎さん】海老亭別館 4代目主人。テーマ2

徳島「青柳」で弟子入りを直談判

要約

村健太郎さんは大学卒業後、就職活動を避けるために料理人になろうとしていました。

しかし、両親と行った徳島の料亭「青柳」の料理に感動し、本気で料理の道を目指すことを決意。

大将に直接弟子入りを志願し、同店が運営する料理学校への進学が決まりました。

アッティ
前回は村さんが幼少期に「ボンボン中のボンボンだった話」から始まって、料理に全く興味がなかったのに、気づいたら大学では海洋資源の勉強をし始めて、いよいよ「本格的に料理人を目指そうかな」と思い始めた頃までのお話をうかがいました。

今回は、料理人としてのスタートについて聞いていきたいと思います。

大学を出てからはどういう動きを取られたんですか?

村健太郎さん
大学のときは就活をしたくなかったので、「就職活動をしなくていいんだったら料理人になろう」ぐらいな感じだったんです。

アッティ
「料理人になりたいから就職活動しない」じゃなくて、逆なんですね (笑)

村健太郎さん
「就職活動をしたくないから料理人でいいか」みたいな感じでした。

料理学校はたくさんあるので、卒業後の修行先は京都か、東京か、はたまた違う土地なのか? と自分なりに考えてみたんです。

京都で修行するとすごく勉強になると思うのですが、富山に帰ってきたときに「京風」と言われるので、「それは自分がやりたいことと違うな」と。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
徳島県に、当時テレビなどでも取り上げられていた有名な「青柳 (あおやぎ)」ってお店があるんですよ。

徳島というと富山と一緒で、知名度もそこまでない感じですよね。大都市に挟まれていて、すぐ近くに香川の高松があったり、ちょっと車を走らせれば神戸の三宮があったりするような場所。

そんな場所から発信しているお店にすごく興味があって、大学4年生のときに家族で食事に行ったんですよ。今思えば、それは父と母の策略だったのかもしれないんですけど。

アッティ
それはご両親が村さんに「行かないか?」って言われたんですか?

村健太郎さん
はい。

アッティ
あ~言われたんですね。完全に策略ですね (笑)

村健太郎さん
「阿波おどりを見に行かないか?」と言うので、「いいね」って感じで行ったんです。

そこで鮎の塩焼きと、鯛の頭で作った「淡々 (たんたん)」という料理を食べたときに、「料理ってこんなにも美味しくなるんだ!」と。調理に使っている調味料は、お酒と日本酒と少量の薄口醤油だけなんですよ。

鮎の塩焼きって、おそらく日本料理のお店では、夏場は日本全国どこでも出すと思います。でも、よくある鮎の塩焼きとは一線を画すくらい全然違うんです。

「食材と調理法が違うだけで、こんなすごい料理になるんだ」と本当にびっくりしました。

しかもそれが大都市ではなく、富山とどっこいどっこいぐらいの地方にある徳島のお店で食べられるなんて、みたいな。

よく考えれば、徳島は海も山もあって富山の環境と非常に似てるし、人口もそんなに変わらないはず。そのような地方からでも全国に向けて十分発信することできるんだと気づかされて、「この店すごい!」と思ったんです。

アッティ
それは大学4年のときに?

村健太郎さん
そうですね。

「青柳で勉強したら、富山に帰ったときに俺はすごく色々なことができるのかもしれないな」と、そのときに初めて料理人になろうと思ったわけなんです。

アッティ
素晴らしい、なるほど。

村健太郎さん
ちょっと興奮してたのか、青柳で食事をしているときに「大学を卒業してからここで働きたいです!」って。

アッティ
その場で言っちゃったんですか!?

村健太郎さん
大将に言ったら「徳島で料理学校をやってるから、そこを出てから来い」と言われました。

アッティ
青柳さんが料理学校の運営をされてるんですか?

村健太郎さん
そうなんですよ。

アッティ
それもすごいですね。

村健太郎さん
これがきっかけで徳島の調理学校に行くことになったんです。

「料理学校どこ?」って聞かれて、「徳島」って言うと、みんな「なんで徳島なの?」って。

アッティ
思いますよね。

村健太郎さん
料亭「青柳」あっての料理学校なんです。

徳島の料理学校での学び

要約

徳島の料理学校は、1年間で日本食だけでなく中華・フレンチ・イタリアンが学べ、生徒は約100人ほどの規模。

村健太郎さんは料理の勉強を始めた当初、包丁で手を切って脳貧血を起こすなど、なかなか料理の楽しさを感じられずにいました。

青柳でアルバイトを希望しましたが、定員オーバーで一度は断られます。それでも料理長にかつらむきを教わることを口実に通い続けたところ、最終的には女将の計らいで働けることになりました。

アッティ
そこは日本食の料理学校なんですか?

村健太郎さん
中華もフレンチもイタリアンも全部あります。1年間の学校だったんですけど。

アッティ
全国から人が集まってるのですか?

村健太郎さん
そうですね。でも徳島出身の人が圧倒的に多くて、当時生徒さんは100人ぐらいでしたね。

アッティ
たくさんいらっしゃいますね。

村健太郎さん
上は40~50代の人もいれば、僕みたいな大学卒業したての20代の人もいました。

でも大半は、高校を卒業したばかりの子たちでした。

アッティ
そこから青柳に入る人もいらっしゃるんですか?

村健太郎さん
年に1〜2人ぐらいはいましたね。

アッティ
実際、料理学校に行ってみてどうでしたか? 料理学校は初めてですよね?

村健太郎さん
初めてですね。

学生のときは自炊だったので、自分で料理はしてたんですけど、友達にチャーハンを作って食べさせたら「こんなベッチャベチャなチャーハン作って、お前よく料理人になるとか言えるな」って (笑)。

今でも同級生に会うと、そんな話をされます。

アッティ
「お前本当に料理してるのか?」みたいな。

村健太郎さん
「本当に自分で料理してんの?」みたいな (笑)

アッティ
実際、初めて料理の勉強をしてみてどうでしたか?

村健太郎さん
包丁で手を切って脳貧血で気持ち悪くなるし、「俺、料理人に向いてないんじゃないかな…」と思うことの連続でした。

アッティ
1年って短いですよね?

村健太郎さん
短いですね。

包丁も満足に研げないし、切れないし、「料理って全然面白くない」って思ってました。

アッティ
面白くない!? (笑)

村健太郎さん
面白くないと思ってましたね。

でも「青柳さんで就職したい」って話をしたら、「じゃあ学校が終わってからアルバイトで来ればいいんじゃないか?」って言われて。

アッティ
学校に通いながら、夕方に行けばいいと。

村健太郎さん
アルバイトに行こうと思っていたんですが、「店員がいっぱいるから、今年はアルバイトの求人は出してない」って断られて。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
それでもすごく悔しくて、どうしようかと考えた結果、青柳の料理長さんが料理学校の先生も兼ねていたので「大根のかつらむきを教えてもらう」という名目で青柳に行っていました。

洗い物などをさせてもらいながら「どういう料理をしてるのか」「どういう食材を扱ってるのか」って、横目で見てたんです。

そしたらある時、女将さんに見つかっちゃって。「あれ、この子誰?」みたいな感じで言われて。

「かつらむきを教えてもらいに来てるんです」って言ったら、「かつらむきだけで毎日来てるの?」と聞かれました。そこで「本当は働きたかったんですけど、定員がいっぱいだと断られて。教えてもらいに来たら仕事を見せてくれると言われたので」と説明したら、女将さんが「私から大将にお願いしてあげるわ」と言ってくださったんです。

それで「今年は新卒もアルバイトも採ってないけど来たらいいじゃん」って、アルバイトに行けるようになりました。

通学しながらの厳しい修行生活

要約

村健太郎さんは、料理学校の授業が終わると青柳で皿洗いのアルバイトを始めました。

先輩たちが意図的に食器や鍋を山積みにして待ち構えていましたが、「僕がしっかり洗っているから料理できるんだ」という気持ちで耐える日々を過ごします。

修行は厳しく、朝から夜11時まで働いていたので疲労で授業中に居眠りすることも。時給換算すると400〜500円程度で、料理には一切触れさせてもらえませんでした。

アッティ
学校に通いながらアルバイトに行ってたんですね。

村健太郎さん
学校が終わった後に行くと、昼食の賄いで使った食器や、昼の営業で使った鍋などが山のようになっていました。

1個上の先輩たちが「アルバイトが来るんやったら洗わんでいいやろ」って…。ひどい目にあいましたよ。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
悔しくて「僕が鍋を綺麗に洗ってるからお前ら料理できるんだろ!」ぐらいの気持ちでやり続けました。

でも、今思い出しても腹が立ってしょうがないですね (笑)

アッティ
なるほど (笑)

村健太郎さん
ご飯を食べさせてもらって、終わって家に帰るのが23時ぐらい。

朝からずっとだと体力がきつくて、学校の授業でよく寝てましたね。

アッティ
それは疲れ切りますよね。

アルバイトも遅い時間まであるんですよね?

村健太郎さん
遅いですね。

これは言っていいのかどうか分からないですけど、当時のアルバイト代を時給に換算すると400〜500円ぐらいだったんですよ。

アッティ
なるほど (笑)

村健太郎さん
お願いして修行させてもらってるので。

アッティ
お金もらうためじゃないからね。

村健太郎さん
それにしても「こんなにこき使われるんだな」ってくらい、こき使われましたね (笑)

アッティ
その時はまだ、料理には全くタッチさせてもらえてない感じですか?

村健太郎さん
料理には一切タッチせず、洗いものだけです。

アッティ
洗い物だけなんですね。

まかない作りで大号泣

要約

村健太郎さんは、「料理学校を首席で卒業すること」という高い入社条件を乗り越え、青柳に正式採用されました。

入社後1年目は、料理人の先輩が15人もいる大所帯でまかない担当を任され、特に田村さんというおばあちゃんから薄味にするよう厳しく指導されます。

参考にしていた料理本が親方に見つかり「明日から来なくていい」と叱責され、人目をはばからず大泣きした日もありました。

アッティ
アルバイト経験を経て、その後は青柳に就職されたんですか?

村健太郎さん
就職しました。

アッティ
入れてもらえたんですね。

村健太郎さん
はい。「青柳に就職するには料理学校を首席で卒業しないとダメだ」って言われたので、実技なども一生懸命やって入社させていただきました。

アッティ
そこからはどうだったんですか?

村健太郎さん
当時は、本店以外に徳島のそごうの中にも店があって、先輩の料理人は全部で15人ぐらいいたんです。

アッティ
多いですね。

村健太郎さん
大所帯でした。

1年目は、昼夜のまかないを作らなきゃいけなくて。

アッティ
ハードル高そうですね。

村健太郎さん
ハードル高いんですよ。

しかも調理場の田村さんっておばあちゃんが、10時ぐらいになると「村くんお腹すいたえ、ご飯まだえ?」って。

アッティ
10時?

村健太郎さん
10~11時台です。

こっちはまだ仕込みがいっぱい残ってるのに、田村さんのご飯を作ってから他の人のご飯も作るんです。

それもかなり薄味にしないといけないので、まかないを1日3食作ってるような感じでした。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
それがしんどくて、まかないを作るのが嫌いで嫌いでしょうがなかったですね。

いつも田村さんに「村くん、今日のまかないは本当に味が濃くてね、こんなん食べられんわ」みたいなことを言われて。

「このババア」くらいな感じで思ってましたね (笑)

アッティ
なるほど (笑)

村健太郎さん
当時は、自分で料理の本を買ってきて、それを見ながらまかないを作っていたんです。

「大城さん」という方の料理本だったんですけど、ある時それをうっかり調理場の上にポンと置いたまま仕事をしてしまって…

親方が来て「この本だれなや!?」ってなって「僕のです」と言ったら、「 大城さんの弟子になれ!! 明日から来んでええわ!」と言われて。

そのときはもう人目をはばからずに大泣きしまして、「帰れ!」って言われても「帰りません!」みたいな感じで。

アッティ
青柳には何年いらっしゃったんですか?

村健太郎さん
3年ですね。

東京支店での忙しい2年間

要約

村健太郎さんは、徳島本店で漬物盛りなどの簡単な仕事から始め、魚を締めて東京支店に出荷する業務を経て、1年後に東京支店へ異動。そこで2年間勤務しました。

東京は同世代のやる気に満ちた料理人が多く、魚をおろす機会を求めて仕事を奪い合うほどの競争社会。

労働時間は朝9時から深夜3〜4時までと長時間でしたが、現在の体力の基盤へとつながりました。青柳で体得した調理技術は現在も全てが活きています。

アッティ
最初は料理させてもらえなかったんでしょうけど、後半は料理されていたんですか?

村健太郎さん
1年間は徳島で、漬物などを担当していました。「漬物を盛れ」って言われるだけでも本当に嬉しくて。

それからしばらくして徳島の市場に行き、魚を締めて東京の支店に出荷する仕事に従事させてもらいました。

1年たった頃には、東京支店が忙しくなり東京に異動になりまして。

アッティ
そうなんですね。

村健太郎さん
徳島で1年過ごしたあと、東京で2年。

東京は時間の流れが全く違って「こんなに忙しいんだ」って思っていましたね。

アッティ
生活だけでも変わっちゃいますよね。動きが全然違いますもんね。

村健太郎さん
東京に行くと同じ世代の子たちがたくさんいました。みんな本当にやる気に溢れてるような子たちで、魚を触りたくてしょうがないんですよ。

魚をおろしたくて、みんなで奪い合いをするような状況で、自分用に魚を隠しておいたんです。

でもそれを忘れてしまって、「魚持ってこい」って言われたときに「忘れてました!」なんてこともありましたね。

アッティ
そのぐらい、みんな魚をさばきたかったんですね。

村健太郎さん
当時は「仕事は奪い合ってやる」って感じでした。

アッティ
総じて言うならば、青柳で学んだ3年間はどんなものだったんですか?

村健太郎さん
労働時間はすごく長かったです。朝は遅くても9時には入って、夜は3時~4時ぐらいまで働いてました。

ただ、それが今の体の頑丈さというか、体力に繋がってるのかなと思うと、感謝しなきゃいけないなとは思いますね。

アッティ
今の料理の基本は、青柳で学んだことなんですか?

村健太郎さん
魚の締め方、包丁の扱い方など調理の仕方は全て青柳で学びました。

僕はほぼ青柳でしか修行したことがないので、そこで見たことが全てだと思ってます。

現在も続く青柳とのつながり

要約

村健太郎さんと青柳との関係は現在も続いており、直近でも「東京で雪の影響でカニが不足している」「吉兆の女将が明日来店予定なのにカニがない」という理由で、急遽富山から東京へカニを送りました。

電話がかかってくるとドキッとしますが、今でも良好な関係が続いています。

アッティ
青柳の方が来られることってあるんですか?

村健太郎さん
ついこの前、電話がかかってきました。

「雪の影響で東京にカニが一杯もおらんのや」「明日吉兆の女将さんが食べに来るんやけどなんとかならんか」って言われて、その日使う予定だったカニを急遽東京に送りましたよ。

アッティ
そういう電話なんですね (笑)

村健太郎さん
そういう電話もありますね。

アッティ
でも、まだ関係が続いてるのは嬉しいですよね。

村健太郎さん
電話がかかってくるとドキッとしますけどね。

アッティ
わかりましたありがとうございます。

今回は料理人としてのスタートと、青柳での学びが非常に大きかったという話をいただきました。

来週は、海老亭別館に入られてからの活躍について詳しく話を聞いていきたいと思っております。

新しい海老亭別館を作るまで

【村健太郎さん】海老亭別館 4代目主人。テーマ3

父の急逝で修行半ばで富山へ帰郷

要約

村健太郎さんは青柳での3年間 (徳島1年、東京2年)の修行後、父の急逝で予定より早く富山の海老亭別館に戻ります。

青柳では様々な仕事を任されるポジションに就き、ちょうど料理が面白くなり始めた時期だったので、修行不足の物足りなさを感じていました。

アッティ
前回は料理人としてスタートして、徳島にある料亭青柳での修行時代のお話をいただきました。

そこから富山に戻って海老亭別館に入られて、どうでしたか?

村健太郎さん
父が他界したことで思いがけず予定よりも早く帰ってきてしまったので、料理人の知り合いもほぼいませんでしたし、満足のいく修行もできませんでしたから、物足りなさが先行するような感じでしたね。

アッティ
青柳さんには3年間いらっしゃったんですよね?

村健太郎さん
そうですね。徳島1年、東京2年の計3年間修業しました。

アッティ
本当はもう少し修行していたかった感じですか?

村健太郎さん
ちょうど多くのことをさせてもらえるポジションについて、料理が面白くなってきた頃だったので、自分としては「もうちょっといたかったな」と思っていましたね。

家業の「いきいき亭」での葛藤

要約

村健太郎さんが青柳で学んだ料理の技術は、家業の「いきいき亭」では全く通用しませんでした。

青柳は少人数向けの高級料理店でしたが、「いきいき亭」は100人以上の宴会があり、40〜50人の団体客を満足させる料理は全く経験がなかったためです。

このジャンルの違いに葛藤し、「温泉旅館に就職すればよかった」と後悔していたこともありました。

アッティ
お父さんがお亡くなりになって、急遽富山に戻って家業を継いでみて、今までの経験は十分通用したんですか?

村健太郎さん
いや、もう全く。

同じ「料理屋」のくくりでも、これまで自分がやってきたことは何一つ使えませんでした。

アッティ
そうなのですね。

村健太郎さん
「青柳さんを選択したのは失敗だったのかな」って…、そこまで思いましたね。

アッティ
その状態から、どう変わっていったんですか?

村健太郎さん
青柳さんはお客さんが入っても20人ぐらいで、一皿一皿にこだわった品質の高い料理を出せるお店でした。

それに対して、当時うちの「いきいき亭」は100人以上入る宴会場があって、一席に40〜50人の宴会もあったんですよ。

僕は3〜4人のお客さんに対しての美味しい料理の作り方は学んできましたが、40〜50人のお客さんを満足させる料理の作り方は一切勉強してこなかったので…

まずその部分での葛藤があり、「こんなことなら温泉地の旅館に就職すればよかった」って、ずっと思っていました。

アッティ
あまりにも種類が違いすぎるんですね。

村健太郎さん
ジャンルが全然違いますね。

アッティ
同じ料理といっても、ギャップを感じながら続けてこられたんですね。

海老亭別館の開店について

要約

村健太郎さんは、うつ状態になるほど苦しんだ経験から「このままでは死んでしまう」と一念発起。

10年間の葛藤の末、自分のやりたかった料理を提供するため、カウンター7席と部屋席12席の小規模な「海老亭別館」を開業します。

当初は「食後の抹茶」や「テレビなし」が地元客に受け入れられませんでしたが、1年後には浸透。県外客の評価が地元客にも影響し、富山では珍しいカウンター料亭スタイルが定着しました。

アッティ
葛藤を続けた後に、海老亭別館を作られたんですよね。

村健太郎さん
そうですね。

アッティ
お客様は何名入れるんですか?

村健太郎さん
カウンターが7席と、お部屋が12席、全部で20人弱ぐらいですね。

アッティ
徳島で学んだことを活かして、自分のやりたかった料理を提供されたんですか?

村健太郎さん
そうですね。富山に帰って後を継いで10年ぐらい経ったときに、自分が思い描いてたものとあまりにかけ離れてしまって、自分の中でモチベーションが維持できなくなってしまったんです。

調理場に入ると体調が悪くなるという、一種の「うつ」ですよね。

アッティ
そうなんですね。

村健太郎さん
「このままだと、俺本当に死んじゃうかもしれない」「自分のやりたいことをできる店を作らないと本当にだめになってしまう」と思って。

もっと多くの人と話をしたかったので、ちょうどそのタイミングで青年会議所にも入りました。

アッティ
なるほど。それで思い切って海老亭別館を作られたんですね。

そこからはどうでしたか?

村健太郎さん
新しい海老亭別館では「食事の最後に抹茶を出す」というサービスを提供したんですが、なかなか理解してもらえませんでした。

「食事の最中にテレビを見られない」ということも不評で。以前のお店には、テレビがまだあったんですよ。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
当初は「プロ野球が見られない」「新聞はないのか」など結構言われましたね。でも1年経った頃から、逆に「抹茶っていいものだね」「こういうスタイルもありだね」とだんだん浸透していきました。

富山にないものを作ったので、最初は受け入れられなかったんですよね。でも、県外の人から「こんな良いお店が富山にあるんだね」って、だんだん浸透してきて。

富山の人も「なるほど、こういうのが良いお店なんだ」と、周りの目が変わってきました。

アッティ
あの周辺で食事の最後に抹茶を出すような料亭って、ほぼなかったですよね。

村健太郎さん
なかったです。

アッティ
料亭自体少なくなってきましたが、確かにカウンター席を予約してじっくりと料理を食べるお店はなかったですね。

村健太郎さん
そうですね。

アッティ
そのお店で、自分自身のやりたいことができ始めたんですね。

ミシュラン2つ星獲得後の心境の変化

要約

村健太郎さんは新しい「海老亭別館」で料理を主目的とするお客が増え、すぐに反応が得られることにやりがいを感じていました。

同時にミシュラン取得後、同じ志を持つ富山の料理人たちと切磋琢磨する一方で、100人規模の宴会をこなす「いきいき亭」と二刀流で経営するハードな日々の中「料理か調理か作業か」という葛藤も生まれます。

3年間の修行しかない自分の技術不足に悩み、同業者の完成度に焦りを感じていました。

アッティ
少しずつ達成感とトライする意欲が湧いてきたということですかね?

村健太郎さん
今までのお店は宴会が多くて、お酒を飲むことがメインで料理は二の次だったんです。

でも、新しいお店では料理を食べることを目的に来てくださるお客様がすごく増えたので、自分の中でやる気がでてきました。

お客さんの反応がすぐ返ってくることが、本当に嬉しかったのをよく覚えてます。

アッティ
それがミシュランの2つ星に繋がってきたと。

村健太郎さん
お店を作った後にミシュランの星をいただきました。

「ミシュランって、日本料理関係あるんだ!?」くらいの感覚だったんですけど、富山で営業を続けていく中で自分の思いがしっかりしてくると、同じような志を持った仲間が増えてきたんですね。

彼らと一緒に切磋琢磨して、もちろん「負けたくない」というのもあって、富山に良い気運が高まってきました。

そのように、仲間たちとの関係が始まった時期だったと思います。

アッティ
今も富山で、有名なお店がどんどん増えてきて、皆さんが一つの良いチームになってる感じがします。

でもミシュランを獲得したあと、海老亭別館での仕事のほかに、100人単位の宴会もできる「いきいき亭」もあるとすると、仕事は相当ハードになってたんじゃないですか?

村健太郎さん
ハードでしたね。宴会があるとお昼ぐらいからお刺身を切らないと間に合わないんです。

いきいき亭は、お客さんの反応も良くてやりがいもありました。でも、100人超えの料理を作っていると「調理と作業」の垣根が見出せなくなってきて…

「自分がやってるのは調理なのか、それとも作業なのか」と葛藤した時期がありました。

それと、富山で今一緒に頑張ってる料理人たちがお店を構え始めたのもその頃だったと思います。

アッティ
自分の中に焦りも出てきたんですか?

村健太郎さん
実際他の料理人のお店に食べに行くと、みんな僕より仕事ができるんですよね。自分が納得するまで修行してからお店を出してるので、仕上がってる。

僕は3年しか修行してなかったので、引き出しの数があまりにも少なすぎて…。一生懸命挽回しようと思っても限界がありました。

だから、YouTubeの動画を真似て料理することもしょっちゅうありますよ。

アッティ
本当ですか!?

村健太郎さん
しょちゅうあります。

アッティ
え~!! そうなんですね。

村健太郎さん
しょっちゅうありますね。

一時休業の決断

要約

老朽化した建物での営業中にエレベーター故障事故が発生。村健太郎さんは修繕費用の負担や父親から引き継いだ借金返済の問題から店舗を一時休業することに決めました。

同時に、修行不足を補うため3年間の再修行を決意し、東京・赤坂の「松川」で修行します。

店主の「うちで勉強する?」の一言を真に受けて店を畳んで行き驚かれましたが、憧れの料理屋での修行は成長に繋がりました。

アッティ
一時休業されたのは、どういったことが影響していたんですか?

村健太郎さん
建物が古くなっていて、お客様がエレベーターのリフトに乗っている間に止まって動かなくなり、お店の営業中にレスキュー隊に来てもらう事故があったんです。

そのとき、もしリフトが落ちてたらと思うと…

古い建物は修繕しながら経営していかなければいけないので、ある程度利益が出ても、どこかが壊れたときのためにお金を残しておかないといけないんです。

でも、直すといっても1個1個の規模が何百万単位と大きかったので、新しいことをする余裕ができなくて。この先ずっと新しいことにチャレンジしないまま料理してても、全然楽しくないなと。

アッティ
確かに。

村健太郎さん
海老亭を継いだ時からずっと、父親から引き継いだ借金を完済するタイミングを模索していたんです。

それと、3年しか修行していないので、自分の想いを実現させるために「もう1回修行に行くチャンスが欲しい」と思っていました。

それで「店を閉めたときがチャンスだ!」と、思い切ってやってみることにしたんですよ。

アッティ
お店は1回全部畳んで、新しいお店を作るまでの間にもう一度を修行しようとしたんですね。

実際、どんな修行をされたんですか?

村健太郎さん
最初の修行と大きく違うところは、自分に何が足りなくて何が必要かをわかってた上で修行に行ったところです。

今回の修行が3年、最初の修行も3年。同じ3年ですが、時間のロスなく、効率よく多くのものを吸収することができました。

アッティ
ちなみにどちらへ行かれたんですか?

村健太郎さん
最初は僕の憧れの料理屋さんの、東京の赤坂にある「松川」というお店に行きました。

以前から松川のご主人には仲良くしてもらっていて「店が老朽化して、こんな状況なんだよね」って話をした時に、「うちにきて勉強する?」と言ってくれたんです。

その一言を僕が真に受けて、店を畳んで行ったら「本当に来たんだね」って言われちゃいましたけどね (笑)

新店舗の準備中のアルバイト生活

要約

村健太郎さんは予定していた3年間の修行をコロナの影響で2年弱に短縮し、2度目の修行を終えました。

元の桜木町での再開を計画しましたが、富山城遺跡の発掘調査に1,000万円が必要なため断念。新たな土地探しから設計まで紆余曲折を経て、再開までに5年かかりました。

その間は富山市内の料亭でアルバイトをしながら過ごし、新たなスタートを切ります。

アッティ
2度目の修行に3年間行ってからどうされたんですか?

結局、新しい建屋を建てられたんですか?

村健太郎さん
3年の計画でしたが、翌年からコロナが始まって、思うような成果も得られないまま2年弱ぐらいで富山に帰ってくることになりました。

新店舗については、今までやってた桜木町で建設予定だったのですが、富山城の遺跡があるとのことで発掘調査をしなきゃいけなくなって…

アッティ
元々は、今のところ (安野屋) に建てようと思っていたわけじゃなかったんですね。

村健太郎さん
「発掘調査は自費で1,000万ぐらいかかる」って言われて…

「だったら違うところにお店を出そうか!」と。

アッティ
それが理由なんですね。

村健太郎さん
最初は雪見橋の近くにしようと思ったんですけど、様々な経緯があって話がなくなってしまったんです。

それでもう一度土地を探したんですが、かなり時間がかかってしまいました。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
ご縁があって土地を譲っていただけることになったんですが、そこからもう1回設計し直して、多くの手続きを踏んでいると、再開までに5年かかってしまったんです。

アッティ
5年かかったんですね!?

その間はまた修行ができたんですか?

村健太郎さん
その間は富山に帰ってきて、様々なお店で転々とアルバイトをしていました。

お客さんに「あれ? この前、他のお店にいませんでしたっけ?」と言われることもありましたね。

アッティ
料亭の主人を経験してミシュランも取った上で、もう1回修行して、「出直し」って言い方はおかしいですけども、いい機会になったのですね。

次回は新たなスタートを切ったその後についてお話を聞きたいと思います。

富山への想い&オススメ店&リクエスト曲

【村健太郎さん】海老亭別館 4代目主人。テーマ4

新しい海老亭別館の現況

要約

村健太郎さんは、いきいき亭と旧海老亭別館を閉じ、5年の修行を経て安野屋の桜のそばに新店舗を開業。

屋根が特徴的な店舗は2025年で2年目を迎え、経営は安定と課題が混在しています。

アッティ
これまで、いきいき亭と海老亭別館を一度閉じて、再度アルバイトも含めて5年間修業をされてきた話をお聞きしました。

いよいよ現在の海老亭別館が新築されましたが、場所はどちらですか?

村健太郎さん
富山市の安野屋 (やすのや) です。

たくさんの方に「屋根の形が変わってて、目につくお店だね」と言われます。

アッティ
すぐ隣に桜が咲く、いい場所ですよね。

村健太郎さん
はい、ありがとうございます。

アッティ
新店に移られて何年になるんでしょうか?

村健太郎さん
2025年で2年経ちまして、ちょうど今3年目に入ったところですね。

アッティ
当初と比べると、今は落ち着いてきましたか?

村健太郎さん
落ち着いてるような気もするし、そうでもないようなところもある感じです。

ANAファーストクラスの料理を監修

要約

富山が「行きたい場所100選」で52位に選ばれる中、村健太郎さんはANA国際線ファーストクラスの料理を監修。

「食」が富山の魅力であり、年4〜5回訪れるリピーターもそれを目的にしていると確信しています。

アッティ
2025年、富山はニューヨーク・タイムズの「世界で行きたい場所100選」で52位に入っていましたよね。

海外からもたくさんの方が来られ、まさに今、富山が注目されています。

そんな中で、ANAさんのファーストクラスの料理を監修されておられるんですよね?

村健太郎さん
そうですね。縁あって、国際線のファーストクラスの料理を監修させていただいています。

アッティ
(国際線のファーストクラスということで、) 我々は気軽には食べに行けないんですけども…

村健太郎さん
そこを何とか、ぜひお願いします!

アッティ
「国際線ファーストクラスの料理監修」という絶好のチャンスがくるのも、今、富山が注目されている証拠ですよね。

中でも日本料理が注目されていることに対しては、何か感じるところがありますか?

村健太郎さん
うちのお店でもお客さんとの会話のさわりに「富山は初めてですか?」とよく尋ねるんですよ。

「毎年来てます」「年に4〜5回来てます」という人たちに共通しているのは、「食」ってキーワードなんです。

富山をPRする上で「”食”はキラーコンテンツになる」とずっと思っています。

アッティ
やはり!

村健太郎さん
自分に置き換えてみると、観光目的だけで同じ場所に何度も行くってことは、まず「ない」と思うんです。

アッティ
みんな「新しいところに行こう」って思うので、行先はばらけますよね。

村健太郎さん
でも「食」に関しては、それだけの人を引きつける力があるんだなと強く感じています。

アッティ
なるほど面白いですね。

ふるさと富山について

要約

村健太郎さんは県外の大学進学をきっかけに、富山の水や米の良さに気づきました。

お店では、ご飯の香りに感動するお客さんも多くいます。

若い頃は東京に憧れていましたが、今は富山の食や自然、暮らしやすさの魅力を実感し、料理屋の家に生まれ育ったことに感謝しています。

アッティ
村さんは県外に出られた経験もあるということで、それも踏まえて、ふるさと富山への想いをお聞かせいただけますか?

村健太郎さん
家が料理屋でしたから、小さいときから魚や米などの食べ物には不自由しない生活でした。それが大学で県外に出ると、米や水がこんなに違うものなのかと。

富山では当たり前に蛇口をひねって飲む水ですら、東京のミネラルウォーター並みの美味しさがあるわけで。

アッティ
確かに。

村健太郎さん
特に米なんかは「炊き上がったときの香りって、こんなにいい香りがするんだ」って、うちの店でもよく言われるんですよ。

アッティ
へえ~!なるほど。

村健太郎さん
「食」に関しては、「恵まれすぎててわからなくなってるんだな」と感じています。

富山は住みやすく、人口も多すぎなくて丁度いいし、四季折々の景色も楽しめて、「こんないいところ、他にあるのかな」と。

でも、若いときは刺激がなくて「東京に行きたい」と思っていましたね。

アッティ
そうですよね。

村健太郎さん
今は「よくぞ富山で料理屋をやってる家に生まれ、継がせてもらったな」って、本当に感謝しかないです。

アッティ
幼少期からここまで様々な話を聞いてきましたが、ここでやっと感謝の気持ちが出てきたんですね (笑)

村健太郎さん
もしかすると、ここ3〜4年ぐらいかもしれないですね。

やっと「料理人になってよかったな」って思えるようになりました。

アッティ
まだまだ人生長いですから、ここからが楽しみですね。

富山県内で大好きな飲食店

ひまわり食堂2

公式HP

住所:富山県富山市神通本町1丁目5-18

アッティ
村さんのお気に入りの飲食店を教えていただけますか?

村健太郎さん
あ~…

アッティ
言いづらいと思うんですけど。

村健太郎さん
いや~、好きな店はいっぱいあるんですけど…

その中でも1軒あげるなら、神通町にある「ひまわり食堂」さんが好きです。

僕は日本料理の料理人ですが、多様なジャンルの料理が好きで。

アッティ
どういうお店なんですか?

村健太郎さん
イタリアンのお店です。

最初は「食堂」という名前のとおり、アラカルトが頼めるお店だったんですけど、今じゃもう結構な高級店になってしまいました。

店主の作る料理は独創的でありながら、ちゃんと富山らしさもあって、僕はすごく好きですね。

アルバイトでお世話になったときに「同じ食材でも日本料理とイタリアンはこんなにも違うのか」と驚かされました。

アッティ
なるほど! 2回目の修業時代に。

村健太郎さん
料理に対する姿勢は、すごく尊敬してます。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
人としては別ですけど (笑)

アッティ
余計な一言入りました (笑)

やっぱり違うジャンルのところに行くと、結構学びが大きいものですか?

村健太郎さん
そうですね。例えばマクドナルドに行っても、「この人笑顔が素敵だな」「こういう対応いいな」「あのサービスはうちの店にないな」などの気づきがあるんですよ。

僕はさまざまなところでアンテナを張っていて、ジャンルが違っても学べることは多々あります。

アッティ
そうすると、日本食に限らず多ジャンルのお店に行かれてるわけですか?

村健太郎さん
そうですね。逆に、最近は日本料理のお店にはあまり行かないかもしれないです。

アッティ
そうですか!?

村健太郎さん
何でも食べますもん。中華でもハンバーガーでも。

アッティ
ファストフードでも?

村健太郎さん
何でも食べます。

アッティ
日本料理以外のお店にも学びがあるんですね。

村健太郎さん
僕は、人生で最も好きな食べ物が2つあって。

アッティ
何ですか?

村健太郎さん
「鶏の唐揚げ」と「コロッケ」が大好きなんです。

アッティ
そうなの!?

村健太郎さん
コロッケも好きですけど、特に鶏のから揚げは毎日食べても飽きないくらい大好きです。

カリカリした食感と味付けがたまらないですね。

アッティ
ミシュランをとられるほどの腕前の村さんが鶏のから揚げとコロッケを作ると、素晴らしいものになるんじゃないですか?

村健太郎さん
好物は自分では作らないです。

アッティ
作らないんだ? (笑)

村健太郎さん
そこは作らない。

アッティ
他の人の作ったものがいいんですね。

村健太郎さん
もちろん、自分が作ったものも美味しいと思ってお客さんに出していますよ。

でも、自分は人が作ってくれたものを食べたいんです。

アッティ
そういうことなんですね。

村健太郎さん
誰かが自分に作ってくれたものっていう。

アッティ
なるほど。

村健太郎さん
それは奥さんの料理や買ってきた料理でも同じで、要は自分が作るとタネがわかってるマジックを見てるような感覚になるんですよね。

アッティ
そういうことか。

村健太郎さん
自分が作ると「これはどんな味がするんだろう」という楽しみがないんです。

アッティ
驚きがあまりないんですね。

村健太郎さん
想像力を働かせたくて。

アッティ
なるほど。料理人って、そんな感じなんですね。

村健太郎さん
そういって家であんまり料理しないっていうね。

アッティ
理由を付けて (笑)

村健太郎さん
奥さんから「もうちょっと料理してもいいんじゃないの?」とか言われますけどね。

アッティ
「私だって驚かせてほしいんだけど」なんて言われちゃったんじゃないですか?

村健太郎さん
そうですね。

リクエスト曲

「動画を再生できません」と表示されている場合、「Youtubeで見る」をタップすると見られます。

アッティ
リクエスト曲を教えていただけますか?

村健太郎さん
僕は学生時代、江ノ島の近くの神奈川県藤沢に住んでいて。

サザンオールスターズが大好きで、よく「勝手にシンドバッド」を聴きながら、みんなでワイワイ過ごした思い出があります。

アッティ
うん。

村健太郎さん
「勝手にシンドバッド」を聴くと、あの頃の青春を思い出します。

アッティ
その頃は、まだ料理人になろうとは考えていなかった時期ですよね?

村健太郎さん
そうですね、まだ考えてなかったですね。

アッティ
わかりました、ありがとうございます。

それでは村健太郎さんのリクエストで、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」です。

これからの夢や目標について

要約

村健太郎さんは、料理を通じて富山の魅力を広めたいと考え、全国・世界へのPRに力を入れています。

ANAファーストクラスの料理監修も、富山を発信するチャンスと捉えて引き受けました。多くの人に富山を知ってもらい、地元の人にも誇りを持ってほしいと願っています。

アッティ
最後になりますが、村さんのこれからの夢や目標についてお聞かせいただけますか?

村健太郎さん
僕は料理屋の息子として生まれ、お店を継いで主人をしてるわけですから、何か残していきたいと思うんです。

それで「自分に何ができるのか」と思ったときに、今日までお店が続けられているのは富山の皆さんのおかげなので、恩返しする意味でも、富山を全国、そして世界にPRしていきたいなと。

ANAファーストクラスの料理を監修する話も、最初は「僕にできるかな」と思って躊躇したんです。

でも今、富山を発信する機運の中で「恩返しになるならやってみようかな」って、重い腰を上げて何とか取り組んでいます。

目標はもっと富山にたくさんの人が来て、富山の素晴らしさが伝播していくことですね。 それと同時に富山の人も「富山はすごいんだ」と、もっと自信を持ってほしいです。

富山の良いお店にたくさんの方をお連れして、どんどん富山を誇っていったらいいと思うんですよね。

アッティ
そうですよね!

お客様を心遣いで喜ばせようとあらゆる工夫をされて、富山の食材を最高の状態で提供し続ける村さん。

これからも富山と、そして村さんの夢のためにご活躍されることを祈念しております。村さん、1ヶ月間どうもありがとうございました。

村健太郎さん
ありがとうございました。

アッティ
この番組のこれまでの放送は、ポッドキャストで聞くことができます。FMとやまのホームページにアクセスをしてみてください。

お風呂の中でのぼせてまいりましたので、そろそろあがらせていただきます。アッティでした。

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