こんにちは、アッティです。
「アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!
今回のゲストは、石川、富山を拠点にスタートした複合商社、イノベーションを起こす会社、三谷産業株式会社 代表取締役の三谷 忠照 (みたに ただてる) さんです。
若くしてグループ従業員3500名を超える三谷産業の4代目を継いだ、三谷さんに熱く迫っていきます!
この記事は、FMとやま 金曜17:15~17:25放送のラジオ「アッティの熱湯とやま人」の編集前データを、ほぼノーカットでまとめたものです。
放送では流れなかった裏話も含め、お楽しみください。
自己紹介と会社紹介
初めての出会いと誕生日
三谷さんとアッティは、2年前の会食でたまたま隣の席になり知り合いに。その後お互いの番組に出演する仲になります。
今回の収録日6月20日は、三谷さんの40歳の誕生日でした。
アッティ
三谷さん、どうぞよろしくお願いいたします。
三谷忠照さん
いやもうね、出たかったんですよ「アッティの熱湯とやま人」に。
アッティ
そうですか! 私も出て欲しかったんですよ。
三谷忠照さん
ありがとうございます。
アッティ
と言いますのもですね、この番組はこれで2年強ほど経つんですけど、ちょうど2年半ほど前に三谷さんとお会いして。
三谷忠照さん
お会いはしていましたよね。
アッティ
会食のときに隣の席になって話をしていたら、何やら「石川県の方でラジオ番組をやってる」と。
「えー!?、経営者がラジオ番組やってるんだ」ということを聞きながら。
三谷忠照さん
はい。
アッティ
よく聞いたらね、それこそ石川県のトップリーダーの方をお招きして、いろんなお話を聞いて。
三谷忠照さん
この番組の姉妹番組としてやらせていただいています。
アッティ
そんな感じですよね。それを私的には「パクって、富山でいこう」と。
三谷忠照さん
いやいや。
アッティ
実はそういったところから、この番組がスタートしているということで。
三谷忠照さん
でも僕も普段は「三谷社長」ではなくて、違う名前で謎のラジオパーソナリティをやってるんですけど。
アッティ
それは「Tad Mitani」と呼んでよろしいですか? イノベーションナウですよね?
三谷忠照さん
「Tad Mitani」でやっていますね、ありがとうございます。
アッティ
石川県で流れてるということで、今日は兄貴分に来ていただきました。私とてつもなく緊張しています。
実はちょっとこれは話が違うんですけど、1ヶ月か2ヶ月ほど前ですかね、アッティは、このTadの番組にも出させていただいたんですよ。
三谷忠照さん
そうなんですよ。
アッティ
お互い相互に番組に出ているという。
三谷忠照さん
ラジオ交換留学させていただきましたけども。
アッティ
みんながよく分からない趣味を2人で持ってるみたいな、そんな感じを受けるんですけどね。
今日は逆に「三谷さんのお話をたくさん聞きたいな」と思っていますので。
三谷忠照さん
ありがとうございます。
アッティ
楽しみにしてまいりました。どうぞよろしくお願いいたします。
三谷忠照さん
よろしくお願いいたします。
アッティ
本題に入る前に、この番組は収録をして流させてもらってるんですが、(収録日の) 今日は6月20日なんですよね。三谷さんの誕生日ということで。
三谷忠照さん
ありがとうございます。
アッティ
お誕生日おめでとうございます!
三谷忠照さん
40歳になりました。
アッティ
40歳になりましたか! 30代と40代は全然違いますか? まだ初日ですけどね。
三谷忠照さん
初日なんですけど「もうだんだん若手じゃなくなっていくんだな」っていう心構えは、ちょっとずつしています。
アッティ
これからじわじわと感じながらいくところなんでしょうね。
大事な誕生日の1日でありますけれども、このラジオ番組に出演していただき、ありがとうございます。
三谷忠照さん
ありがとうございます。
三谷さんの自己紹介
三谷さんは、石川県の三谷産業の社長で、富山生まれ。東京の慶應義塾大学卒業後、アメリカでベンチャーキャピタル会社に勤務し、起業します。
その後三谷産業に入社し、2017年から社長を務め、売上を660億円から1,000億円を目指せるところまで成長させました。
アッティ
まず最初に、簡単に自己紹介と会社の紹介をしていただけますでしょうか?
三谷忠照さん
三谷産業の社長を務めています、三谷忠照と申します。
「熱湯とやま人」ということで、「石川県が本社の会社が出ていいのか」ってところはあるんですけど、私自身は実は富山生まれでして。母が富山の人間で、里帰り出産で「おぎゃあ」と。
お産のときに、入院してすぐに「歩くといいよ」と言われたのを真に受けた母が、松川沿いをたくさん歩いたら、すぐその日に生まれちゃって。
父が母を富山に送り届けて金沢に帰ったら、すぐ電話がかかってきて「何やってんだ、生まれたぞ」みたいな、そんなことらしいんですけど。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
私自身は、祖父祖母が富山にいたり、叔父がいたり、叔母がいたりとかするんですけども、自己紹介ですから。
私は金沢で育ちまして、高校から東京の慶應に入って、大学はけっこう足踏みを。留年を繰り返しまして、自分の研究活動を深めていました。
そのあと、アメリカのサンフランシスコに渡りまして、2009年からベンチャーキャピタルの会社で働きます。
シリコンバレーのベンチャー企業に投資をする会社だったんですけれども、そこでは本当に下っ端でした。雑用とかも含めてやってましたが、その間に向こうで会社を作りまして。
いろんなベンチャー企業の若手経営者の方とお話をしていると、何となく「自分もやれるんじゃないか」という想いが沸々と湧いてきまして。留年してまでやっていた大学の研究をもとに起業しました。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
起業していたんですけど、いろいろありまして日本に帰ることになって、三谷産業に入社して、という感じですね。
そのあと数年して社長をやり始めたんですが、もう7年ぐらい経ちますかね。
アッティ
社長になって7年ですね?
三谷忠照さん
2017年からやってますので。
会社はその当時660~670億円ぐらいの売上高だったんですけれども、今年は1,000億円を目指せる会社になりまして。
アッティ
すごいですね。
三谷忠照さん
この数年で+300億、1.5倍ぐらいになってる。
「ちょっとすごいんじゃないっ?」って、社長を認めていただけるようになってきたのかな、と思っています。
三谷産業の事業内容
三谷産業は石炭業を発祥とし、現在は化学品の卸売や情報システム、空調設備、自動車部品製造、エネルギー関連など多岐にわたる事業を展開する複合商社です。
アッティ
三谷産業は、どういったことをやってらっしゃるんですか?
三谷忠照さん
今はもう売り物としてほとんど取り扱ってはいないんですが、もともとは石炭業の会社。石炭を発祥として、いろんな商品の卸売業が基礎になってます。
今メインにやってるのは、化学品の卸売販売ですとか、コンピュータ関係の情報システム。
アッティ
化学品もあれば、情報システムという全く違う分野もあるんですね。
三谷忠照さん
建設業での「サブコン」と呼ばれる空調のお仕事とか、電気のお仕事とかですね。
あと自動車部品をベトナムで製造していますね。
アッティ
ベトナムですか!?
三谷忠照さん
あとはエネルギー関係も一応ありますけれども。
いろんな形で大メーカーさんが、空調ならダイキン、コンピュータは富士通、化学品は日本曹達さんとか日産化学さんとか。
そういう大メーカーさんの商品を北陸で展開する上での「地域総合代理店業」みたいな言い方をしてもいいかもしれません。
アッティ
もう何か、今の話を聞くだけでお腹いっぱいになる経歴と会社の中身ですけれども。
三谷忠照さん
私も「何の会社なの?」って言われても、答えられないんです。
アッティ
このぐらいの時間かかっちゃいますよね。
三谷忠照さん
「総合商社」っていうと、いろんな事業があって「AもBもCもDもあります」なんですけど、三谷産業は「複合商社」と言ってます。
「AとBで何か新しいXが生まれる」「CとDで何か別のYに生まれ変わる」みたいな。
何か組み合わせることによるイノベーションっていうのを志向している会社でもありますね。それがゆえの+300億だったかもしれないです。
アッティ
それだけ多くの事業をされている会社の社長を、7年勤めてらっしゃるということなんですね。
幼少期の三谷さん
幼少期の三谷さんは、内向的でふざけるのが好きな少年。企画やシナリオを書くことを好み、学生時代にはラジオ番組を作るなど創作活動を楽しんでいました。
現在の社長業では大勢の前で話すことが多く、引き出しの多さと考えのまとめが重要で、話すのは大変だと感じています。
アッティ
昔の話になるんですが、子どもの頃とかはどういう人だったんですか?
三谷忠照さん
しゃべるのが下手くそでした。
アッティ
そうなんですか?
三谷忠照さん
本当に内向的なところもあったと思います。でも、ふざけるのがすごく好きだったので。
今も童心に返ると、ドッキリを仕掛けたりとか。今日は何も用意してませんけど (笑)
アッティ
「そういうことはいつも考えてる」みたいな感じですか?
三谷忠照さん
いつも何か考えてはいますね。
だからどっちかっていうと、ラジオ的には僕は放送作家の側にいる人だったんです。
アッティ
喋る方ではなくてね。
三谷忠照さん
止むに止まれず演者側に来ることもあったんですけど、文化祭での出し物などでは、僕がシナリオを書いたコントをやったりとか、そういうことばっかりやってたんですよ。
アッティ
企画する側なんですね、どっちかというと。
三谷忠照さん
そうです。
アッティ
表に出て何か喋ったりとかするというよりは、いろんな企画をされるっていうことの方が向いていると。
そうすると、学生時代に好きでやってたことって何かあるものですか?
三谷忠照さん
学生時代は、構成作家さんが通う学校に顔出してたこともあったりとか。
ラジオ番組は、実は学生時代にちょろっと自分たちで作って。当時ちょうどポッドキャストが始まったりとか、そのもっと前の中学生のときはテープ。
NHKの「基礎英語」っていうのにセロテープを貼って重ねて録音して、学校の先生にばれないように流通させて、先生の悪口言ったりとか。
アッティ
ラジオを聞いてるように見せかけながらね。
三谷忠照さん
そうそう、そういう遊びはしてましたけどね。
アッティ
そうやって「イマジネーション豊かにいろんなものを生み出す」ってことが好きだったんですかね?
三谷忠照さん
そうですね。でも社長業って、アッティさんも心当たりあるかもしれませんけど、いろんな人たちの前に立って喋る仕事じゃないですか。
アッティ
多いですよね。
三谷忠照さん
社員の方には、背中にボタンでもついていてポチっと押すと、もうペラペラって。
アッティ
口が勝手に喋ってるみたいな感じに思われますよね。
三谷忠照さん
でも、それのために実はすごくいろんな引き出しを持っとかなきゃいけないし、すごくたくさんの考えをまとめておかなきゃいけない。
そういう意味では、半分は素養が一応あったのかなと思うんですけど、喋る方は結構大変だなと。
デザイン思考と経営
三谷さんは、学生時代に学んだデザインやアートの考え方「デザイン思考」が、今の経営スタイルに繋がっていると感じています。
アッティ
学生時分にいろんなデザインや、アートみたいなものにも関心があったって話を聞いているんですが、やっぱりそういう経験から今の形ができてきているんですかね?
三谷忠照さん
そうかもしれないですね、自分は特にデザインを勉強してきたんですけど。
デザインって、プロトタイピングの繰り返しっていうか。自分のアイディアを形にして手に馴染むかどうかを考えるので「頭の外を使って考えることを繰り返すことがデザインの過程でもあるな」と思うんです。
「1回頭の外に出さないと考えられない」という世界でもあったので、「新しい会社の制度を作る」とか、「新しいビジネスを作る」とかっていうのは、企画書を整えて100%にしてから「いざ出陣」じゃなくて。
ちょろっとやり始めてみて、うまくいったら、それをもっと強化していくし、うまくいかないところは失敗の要因を潰していくみたいな。
アッティ
何だか経営に繋がってますよね?
三谷忠照さん
経営のスタイルがそうだと思うんですよね。
アッティ
確かに経営のスタイルって、それぞれ皆さん違うと思いますが、新しいものを生み出しながら作り上げていく経営って、最近特にウケてるというよりは、いろんな企業さんが成長する中で目立つようになってきたような感じがしますよね。
三谷忠照さん
そうですね。「デザイン思考」という言葉が、企業経営の中でも普通に入るようになってきました。
デザインをする過程の思考プロセスを「フレームワーク的に、メソッドとしてビジネスの現場に応用していく」みたいなことが流行った時期がありましたよね。
アッティ
そうですよね。
三谷忠照さん
もう定着までしてるかもしれないですね。
アッティ
そうだと思いますね。そういう経営をされてる方が非常に増えている感じがしますよね。
デザインやアートの経験をしながら、それが結びついて今の経営をされているということでありますが、今週は以上とさせていただきまして。
三谷忠照さん
早いですね。
アッティ
そうなんですよ、あっという間なんですよ。
次回は、三谷産業さんというよりは、三谷さん自身のこと、海外にいらっしゃった話などをどんどん聞きたいと思います。
アメリカでの起業経験
内定がダメになりアメリカへ
三谷さんは、(株)内田洋行への就職を目指していたものの、留年が判明して就職できませんでした。
その後ベンチャーキャピタリストの原丈人さんに誘われて、2009年に大学を卒業後、アメリカで働くことになります。
アッティ
前回は幼少期や、学生時分についてお話をいただきました。
今回は、大学を卒業されてアメリカに行かれたことについて、お話をいただきたいなと思います。
三谷忠照さん
大学を卒業したのが2009年、そこからサンフランシスコに飛ぶんですけど。
僕は就職活動で「本当に決め打ちでこの会社に入りたい」って思ってた会社が1社だけあって、(株)内田洋行なんですけどね。
「内田洋行に入りたい」と思って、すごく姑息な手を使いまして。インクが出ないボールペン持っていって「ペンを貸してください」みたいなところから、人事の人と少し接点を持ったりとか、何かちょっとずるい手を使ってた。
バレバレだったかもしれないけど、そういう手段でお近づきさせていただくみたいな「仕込める人が採用されるんじゃないかな?」と勝手に思ってて、そういうチャレンジをしたんですね。
いいとこまでいったんですよ、かなり。ほぼ内定の直前だったと思うんですけど、もう自分が入社したい部署の人と握手したりとかして。
それがですね、大学の先生から「お前、今年も留年なの?」って言われて。「ええっ!?」って、「ちょっと待ってくださいよ、先生!」って。
「僕、今回就職するつもりで、もうこの会社に入るって決めてるのがあるんですよ」って。「いや、知らないけど。書いてあるから留年リストに」って言われて。
それでゾっとして、膝が地面に落ちるっていう経験をそのとき初めてしました。それで内田洋行の人事の方に連絡を入れたら「頑張ってまた来年チャレンジしてね」って言われちゃいまして。
もう1回人事の人にボールペンを借りる、みたいなのをやるわけにいかなくて。
アッティ
そうですよね。
三谷忠照さん
「どうしようかな」って思ってたら、のちに就職先のボスになる、原丈人 (はらじょうじ) さんっていうベンチャーキャピタリストで投資をされてきた方に出会うことがあって。
大学時代、僕は電子新聞の研究活動をしていて、電子新聞のハードウェアのデザインとかソフトウェアの設計をしてたんですね。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
経済学部だったんですけど、それを面白がっていただけたところもあって「卒業したらうちで働いてみる?」みたいに言っていただけまして。
「ぜひお願いします! ちょうど就職先がダメになったところなんです」と。
アッティ
それは目的が「アメリカに行こう」ではなくて?
三谷忠照さん
ではなくて。
アッティ
たまたまその方と、お会いしてそうなったんですか?
三谷忠照さん
そうですね。原丈人さんを本当に心から尊敬していましたので、まさかそんなふうに言っていただけるとは思ってなくて「望むところです!喜んで」ということで。
ただ別に英語がうまいわけでもなかったので、「どうしようかな?」って思いましたね。というか「アメリカで働く」っていう意識がその当時まだなくて。
日本橋にオフィスがあったので、勝手にそっちに就職するようなつもりでいたんです。
でも、最後の夏休みに「ビザ取る準備してる?」って言われて、「いや何もしてないんですけど」って言ったら、「急いで赤坂のアメリカ領事館に行ってビザを準備しなさい」みたいな。
そんな感じでいろいろと大変な思いはしたんですけども、2009年からアメリカのサンフランシスコに行きました。
サンフランシスコでの仕事
三谷さんは、サンフランシスコでベンチャーキャピタルの業務に従事。出資だけでなく、人脈や技術、ビジネス機会などを繋げる支援を行っていました。
アッティ
サンフランシスコでは、どういうお仕事をされてたんですか?
三谷忠照さん
会社自体はベンチャーキャピタルなので、いわゆる投資業でもありますが、当時の原丈人 (はら じょうじ)さんは「企業を作るという意味では、製造業に近いんだ」ということをおっしゃってました。
ベンチャー企業のいろんな意味でのご支援ですね。一般的に「キャピタル」は「資本」って意味ですから、出資をしていくのが入口の手段のひとつです。
でもその次に、ベンチャー企業が必要としている、いろんな人脈、ネットワーク技術、ビジネスの機会、コラボレーションする相手とか、いろんな足りてないものを繋げてあげるようなお仕事を、私もちょっとだけ。本当に下っ端なので雑用が当然多いんですけども、少しだけそういうところに関わらせていただいて。
100はいかないですが、2桁、数十社の面談とか、いろんな形で「どうやったらコラボレーションが生まれやすい環境ができるのか?」みたいな意味で、アクセラレータープログラムとかにも顔を出したことがありました。
「投資したベンチャー企業がどうやったらうまく成功してくれるのか?」というところのお手伝いをしましたね。
アッティ
単なる投資というわけではもちろんなくて?
三谷忠照さん
お金だけじゃないのが、当時の就職先の特徴だったかなと。
電子書籍ビジネスの立ち上げ
三谷さんは、サンフランシスコで働く中で起業を志し、電子書籍ビジネスを始めます。
東京のビジネスコンテストで最優秀賞を受賞し、原丈人さんから支援を受けてアメリカで会社を設立。電子書籍の新しい読み方や、コンテクストを重視したプラットフォームを開発します。
この経験から、若い起業家を支援する姿勢を持つようになりました。
アッティ
アメリカでは、その会社だけですか?
三谷忠照さん
いろんな起業家に出会う中で「自分も起業してみたい」と思って、電子新聞の研究を活かして、電子書籍のビジネスを始めました。ちょうどiPadが出る直前ですね。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
東京でコンテストに出てですね。「出張に行く」と、原さんには嘘をついて。もうすみません、申し訳なかったんですけど。
東京のビジネスコンテストで、最優秀賞、特別賞を両方いただくっていう機会があって。
アッティ
電子書籍の仕組みを作ったんですか?
三谷忠照さん
そうですね。今でもまだあんまりそういうものはないんですけど、「電子書籍の時代になると、新しい本の読み方ができるはず」と思って、それを追求してたんですね。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
「単に電子的に提供されてるだけじゃなくて、コミュニケーションの舞台になる」と思ったので、そういう企画をいろいろ考えて形にしてたんです。
それで原丈人さんに「すみませんでした、出張って嘘ついてましたけど、でも優勝したから許してください」ってお詫びに行ったら、「なんだと!」みたいな。
ちょっと怒られて「キミは本当にやる気あるのか?」って言われて、「あります、頑張ります」と言ったら、背中を押していただいて「じゃあ、アメリカで会社を作りなさい」と。
アッティ
事業の立ち上げをしたわけですね?
三谷忠照さん
そうなんです。それでアメリカでいろいろと模索をして、ビジネスもその後いろいろ変わっていってしまうんですけども。
そのときの経験ってすごく嬉しかったし、楽しかったんです。もう2度とやりたくないぐらい大変だったんですけど。
アッティ
そうなんですね。
三谷忠照さん
今も会社経営者としての自分は、若い人たちが「こういうことやりたいです社長!」って言ってきたときに「何だと」と。
アッティ
その気持ちがすごい分かるわけですね。
三谷忠照さん
「頑張れ!」と、背中を押してあげたいなって思うようになりました。
アッティ
具体的に、電子書籍のどういった事業だったんですか?
三谷忠照さん
電子書籍のプラットフォームであるソフトウェアを作ってたんです。書籍の上に、別の情報レイヤーを重ねるっていう新しい基軸だったんですね。
同じ本でも「みんな違う読み方をしてます」と。違う人に紹介されたり、違う理由で読んだり、コンテクストが違いますね、コンテンツが同じでも。
コンテンツはこれから大量に来るだろうと。電子書籍化されて、われわれも文字を読む機会がすごく増えましたよね?
アッティ
そうですね。
三谷忠照さん
「活字離れ」とか言われてるけど、全然そんなことなくて。
ただし、その「コンテンツ」そのものよりも、「コンテクスト」の方がより重要になっている時代だなっていうふうに、当時から思っていたので。
誰と読んでるとか、誰に紹介されたとか、誰がこういう読み方してるとか、そういうふうなものを書籍ソフトウェアの上で表現できるようにした。
ざっくり言うと「ドラッカー」って経営学の、日本ですごく人気のある先生ですけれども「ドラッカーの書いた本をユニクロの柳井さんがどう読むか?」って、注釈とかメモ書き。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
「孫正義さんの場合は、また違うふうに読むのか?」という。メモ書きって、コンテンツそのものよりも、場合によっては価値がありますよね。
アッティ
そうですよね。
三谷忠照さん
それを読み比べたりすることができる、っていう感じですね。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
違う人のメモをまた載せてみるとか。
アッティ
その時代にそれを考えたわけですか?
三谷忠照さん
そうですね、2009~2010年ぐらいですね。
アッティ
単純に読むものだけではなく、ですよね?
三谷忠照さん
そうですね。
アッティ
面白いですね!
起業失敗から学んだこと
三谷さんの電子書籍事業は、業界の構造を理解できず失敗。出版社との協力は盛り上がったものの、統括団体から「まだ早い」と拒否されました。
現在はベンチャー企業の相談に乗っていますが、そのときの経験から「業界構造を否定せず、Win-Winの関係を築く重要性」を助言しています。
アッティ
その事業自体はどうなったんですか?
三谷忠照さん
東京で賞をもらったのもあって、日本の出版社からたくさん声がかかったんですけど、結局、一言でいうと業界の構造を読み切れずに、自分としては失敗していったって言ったらいいんですかね。
出版社と個別に話をしていても「電子化」ってなると、それを統括してる別の団体や会社があったりして。
出版社さんとはすごく盛り上がって「いいね、やろう!」とかって作っていくんです。でもそうすると、統括する側の人たちが出てきて「今そういう機能はいらない」と。
「むしろコンテンツの量で勝負しなきゃいけない」と思っているので、新しい読み方も必要かもしれないけど、「また何年後かに来てね」みたいな。
アッティ
「まだ早いよ」みたいな感じだったんですね。
三谷忠照さん
それで意気消沈して。出版社の人からは、「講演料」って3文字が書かれた封筒をもらって。
「講演してませんけど」って言ったら、「今まで手弁当で作らせていたから、この名目でしか出せないけど、受け取って」って。手切れ金をいただいて。
アッティ
手切れ金なんですね。
三谷忠照さん
とぼとぼ帰るという。
アッティ
なるほど、なるほど。
三谷忠照さん
そんな経験もありましたね。
アッティ
その経験は今の社長業にどう活きてるものなんですか?
三谷忠照さん
私自身、今はいろんなベンチャーの社長さんとかから相談を受ける立場になっていて。
こちらから助言をする場合ももちろんありますけど、僕のポイントは「既存の業界構造を否定しちゃいけない」ってこと。
お互いにWin-Winでなければならないし、今は相手の方が大きいんだから、そちらの論理に合わせて上手くくさびを打てないと業界に認められることはない。
アッティ
「否定して戦うだけじゃなく」っていうことですね?
三谷忠照さん
そうですね。「お互い仲間になっていくためにどうしたらいいか」っていうことを助言したりしますね。
アッティ
なるほど。今回はアメリカの話ということで、たくさんお話をいただきました。
次回は、いよいよ三谷産業さんについてお話を聞いていきたいと思っております。
三谷産業の挑戦と未来
三谷産業入社の経緯
三谷忠照さんは、アメリカでの起業失敗後、三谷産業に戻りました。
当初は逃げ帰る気持ちもありましたが、社員の温かい歓迎を受け「社員を幸せにするために頑張ろう」と決意。現在もその想いを持ち続けています。
アッティ
前回、大学を出られてアメリカに行って起業もした経験をお聞かせいただきました。
その経験をもって日本に戻られてから、三谷産業に入ったのは何歳のときなんですか?
三谷忠照さん
社外取締役みたいな入り方をしてるので、厳密な年数ではないんですけど、2014年とかだったと思いますね。違うな、ごめんなさい2012年かな?
アッティ
入社したときには、「将来社長になる」ってことはもう心に決めていたんですか?
三谷忠照さん
いや別にそういうことではないんですけど、「自分がやるべきならやろう」と思ってはいましたね。
アッティ
今現在は何代目になるんですか?
三谷忠照さん
祖父が創業してから、父が社長をやって、前社長の饗庭 (あいば) 社長がいて、その次に僕なんで、4人目。
アッティ
4人目でこれだけ長い年数がある、歴史のある会社ですよね。
三谷忠照さん
もうすぐ100年になりますね。
アッティ
100年ですもんね。
「会社を継ぐにあたっての想い」っていうのはどうだったんですか?
三谷忠照さん
会社を継いで社長をやるときの気持ちというよりも、会社に戻ってきてからしばらくの気持ちを言いますね。
僕はベンチャー企業をやっていて、アメリカで会社を作って、でも最終的に潰して帰ってきてるわけですよ。失敗したし、負けて帰ってきたけど、本当は凱旋帰国したかった。
アッティ
だと思いますよね、多分。
三谷忠照さん
でも当時の自分は「三谷産業に戻って来い」って言われて、ホイホイ戻ってきちゃった気持ちがあって。うまくいかなかったときだったんで、「会社戻ってくるか?」って言われて「ぜひ戻ります」と。
渡りに船みたいな気持ちで戻っちゃったところが、「逃げて帰ってきていい場所じゃなかったな」って、すごく痛感してて。社員のみんなが「おかえりなさい、忠照さん」みたいな感じで。
アッティ
そんな感じなんですか?
三谷忠照さん
もうすごいパーティーを開いてくれて。
アッティ
ちょっと言い方悪いですけど、アメリカでの事業が上手くかなかったってことは皆さん知ってて?
三谷忠照さん
いや、そこまで知らないかもしれません。
当時は知らなかったと思いますけど、「会社を作ったらしいよ」ぐらいの認識はたぶんあったかも。
アッティ
「やっと会社に入ってくれてありがとう」みたいな感じのウェルカムだったってことですよね?
三谷忠照さん
そのように自分は感じてしまいまして。
それでハッとして、「逃げて帰ってくる場所じゃなかったな」「逃げていたな、自分は」って。
アッティ
「もっとちゃんと本腰を入れてこなきゃいけないとこだった」ってことですか?
三谷忠照さん
そうですね、この先はもう「社員のみんなを幸せにするために頑張ろう」っていう感じの想いで。
社長にまでなってしまいましたけど。
アッティ
その想いは今でも変わらないわけですよね?
三谷忠照さん
変わらないですね。
社長としての意識
三谷忠照さんは、社長として社員との距離を近づけることを意識しています。
3,000人以上の社員がいても、チャットで直接連絡を取ることを推奨し、各オフィスを訪問して手土産を持参するなど、親しみやすい態度を心がけています。
アッティ
社長になられて7年ということですけれども、代表社長として意識してることっていうのは何かありますか?
三谷忠照さん
「距離の近さ」みたいなのをなるべく。
うちの会社は、ベトナムの社員とかも合わせていくと三千数百人規模になるんですけど、「本当に必要であれば、社長にチャット入れてくれて構わないから」って言っていますし、なるべくすぐ返す。
もしチャットが全然なくても、普段からなるべく各地のオフィスを訪問したり、社員に気に入られようと手土産を持って行ったり。
アッティ
なるほど。でも3,000人って相当多いじゃないですか。当然全員の名前って分からないですよね??
三谷忠照さん
分かりますけど「すぐ名前が出てくるか?」って言われたら出てこないですよね。
アッティ
その距離を縮めるって相当難しいことだと思います。何か工夫してることってあるものなんですか?
三谷忠照さん
こちら側からの接し方によるところもあると思うので、「こういうふうに接していいんだ、この社長は」って思ってもらえるような態度をなるべく心がけてますね。
イノベーションについて
既存の要素同士の「新結合」によって生まれるのがイノベーション。例えば、化学品と情報システムを組み合わせることで新しい価値が生まれます。
三谷産業が空調事業を始めたのは、祖父がアメリカでの経験から日本に持ち帰ったアイデアに基づいています。
アッティ
事業の話になってくるんですけど、化学品であるとか、情報システムだったりとか、空調であったりとか、ましてやベトナムでの事業であったりとか、多種多様じゃないですか?
三谷忠照さん
はい、ありがとうございます。
アッティ
最初からそれができてるわけじゃないと思うんですが、イノベーションってどうやって起きてくるものなんですか?
三谷忠照さん
「イノベーション」ってすごい難しい言葉で、僕もいろんな解釈ができる言葉だなと思っているんですけど、僕が好きな訳語は「新結合」なんですよ。
アッティ
新結合?
三谷忠照さん
シュンペーターが最初に言ったのは、「新結合」「ニューコンビネーション」だったんです。
それはどういうことかというと、何か既存のものと既存のものの新しい組み合わせ、あり方を「新結合」と呼ぶ。
ならばですよ、どの事業も、どの会社も、みんなイノベーションに必要なものの片方は少なくとも持ってるんですよ。
アッティ
事業はひとつあるわけですからね。
三谷忠照さん
それに何か違う発想で別のものを組み合わせていくと、イノベーションになるかもしれない。
例えば「化学品のタンクに、IoTセンサーをつけたらどうなるんだろう?」みたいな、そういう発想ですよね。
そういう足し算だったり、逆に引き算の場合もあると思いますけれども、何かと何かを組み合わせていく、もうごちゃまぜに、とにかく出会い頭で組み合わせてみたときに何か起きるんですよ。
アッティ
ちなみ今、化学品と情報の組み合わせの話をされましたけど、空調あたりの話ってどうやって生まれてくるものなんですか?
三谷忠照さん
それはそのビジネスをスタートしたときに?
アッティ
いわゆる2つが組み合わさっていったって話だと思うんですけど。
三谷忠照さん
空調だとか、情報システムだとかっていうのは、実は関連会社に陶磁器のメーカーで「ニッコー」っていうのがあるんです。
その「ニッコー」の経営をうちの祖父が預かったときにですね、お皿をアメリカに売りに行ったんですよ。販路開拓で洋食器を作ってるんで。
行く先々で、とにかくどのデパートもコンピューター使って仕事をしてる。もう数十年前の話ですけどね、70年近く前かなと思いますけど。それから、どのオーナーさんの家に行ってもエアコン空調が効いている。
そういうのを見てきて羨ましく思ったんだと思うんですが、「これは日本のお客さんにもプラスになる」って祖父が感じて始めた事業がいくつかあるんですね。
アッティ
生まれ方が面白いですね、ひとつひとつが。
富山県との繋がり
三谷忠照さんは、富山県に拠点を持つ「アクティブファーマ」で医薬品の原薬を製造し、富山の薬産業の発展に貢献したいと考えています。
アッティ
「事業として富山県との繋がりもある」という話を聞いているんですが、ちょっとお聞かせいただけますか?
三谷忠照さん
「熱湯とやま人」ですから。
アッティ
そうなんですよ。「石川じゃないのか」みたいな話になると思って。
三谷忠照さん
私の、富山への熱い気持ちをね。
アッティ
ちょっとお聞かせいただいただけますでしょうか?
三谷忠照さん
すみません、これ長くなっちゃうけどいいですか?
アッティ
大丈夫ですよ。
三谷忠照さん
富山県内でもコンピュータだとか空調だとかのお仕事をしていますけど、富山が主要拠点のグループ会社を持っています。
それが「アクティブファーマ」っていう医薬品の原薬を作っている会社でして。
アッティ
なるほど、原薬ですね。
三谷忠照さん
はい、有効成分とか言ったら分かりやすいかと思いますけど。
その会社は、本当にいろんな製薬会社さん、富山県内外、全国区の会社さんも含めてお客様なんですけども、「ここを起点にして、くすりの富山をアップデートさせていくことに少しでも貢献できればな」と、そういう想いで今やってるんですね。
具体的には結構難しい話になっちゃうかもしれないんですけど、技術開発を進めている領域がありまして。
医薬品の「連続フロー生産」
「連続フロー生産」という技術を使えば、医薬品の原薬を効率的かつ安全に製造できます。
この技術は従来の大規模設備に比べて小さなスペースで行え、有害物質のリスクや廃棄物も少ない。三谷忠照さんは、東京大学や日本曹達と協力し、これを世界に広めたいと考えています。
三谷忠照さん
化学品の製造って「大きな釜に入れて反応させて目的化合物を取り出す」みたいなのが一般的なんです。
でもそうではなくて、常にちょっとずつちょっとずつ原料を投入して、管の中を通して、その中でいろんな形で反応させていって、最後に管の終わりから目的生成物を取り出す。ずっと生産し続けるし、ずっと反応し続ける「連続フロー生産」。
アッティ
そういう言い方をするんですね。
三谷忠照さん
これが技術として元々あるんですけども、医薬品の原薬でこれを適用できるっていうのは、実はこのアクティブファーマが初めて。
アッティ
全国で?
三谷忠照さん
全世界で!
アッティ
全世界ですか!?
三谷忠照さん
はい、実施ができまして。
東京大学とか、あと富山県にゆかりが深い日本曹達さんとか、三者協働でいろいろと企んでいるんです。
これができると、お薬の原薬に必要なスペース、エネルギー、あと危険性・安全性みたいなところとか、いろんなものが改善していくんですね。
窯のサイズがどのぐらいかちょっと想像つくか分かんないですけど、お風呂でいったら10人入れるぐらいの窯。もっと入れるかも知れないですけどね。通常はそのサイズの釜に原料をドカンと大量に入れて、そこで熱をかけたり反応させたりして化合物を作るんです。
これが「連続フロー生産」だと、ペットボトルぐらいの管の中をずっと通していくスペースになるので、お風呂でいったら普通のご自宅のユニットバスのサイズとかでできちゃうんですよ。
アッティ
小さくできるわけですか。
三谷忠照さん
なので、10分の1とかのスペースになりますね。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
それから、一般的には途中で有害物質とかが出ちゃう可能性があるんですよね。だから製造にかかる人って、防護服を着たりして絶対触れないように。吸っちゃうとおかしくなっちゃうみたいな、そういうものも多いので。
途中途中で人の手が介在してるような釜の仕事から、「連続フロー生産」ではもう誰の手も触らないと。
アッティ
なるほどなるほど。
三谷忠照さん
途中の有害かもしれない物質を管の中で完結できます。あと、廃棄物が極端に少なくなります。
アッティ
効率面も安全面も、ましてはそういったものも。
三谷忠照さん
サステナビリティの観点でも、使うエネルギー電気も非常に小さい。これは革命的だと思ってます。
自動車でいうと、1台1台手組みで作ってた時代から、ベルトコンベアで作れる流れ作業になったぐらいのインパクトが出ると思ってるんですね。
アッティ
この技術っていうのは、これから日本、ましてや世界にどんどん伝わっていく可能性が高いんですか?
三谷忠照さん
むしろですね、伝えていきたいんですよ。
われわれは、まずその法法で1品目がうまくいきました。2品目3品目と、われわれもやっていくんですけど、「皆さん、これまでの原薬製造からアップデートしたいですよね?」と。
だって、かかる投資のスケールも全然違ってくるので。だから「一緒にやりませんか?」って思っていて。
まず実績や実例を作りますから、それをもとに他社さんがご理解できる形を何とか作っていって、一緒になって富山県勢が新しい作り方で原薬を作っていくとか、そういった未来を何となく自分としてはイメージしながらやってますね。
アッティ
富山の八尾ですよね?
三谷忠照さん
八尾でやっています。
アッティ
八尾の方にあるアクティブファーマさん。まさかそれが三谷産業さんというか、石川から出てきている会社さんがやってらっしゃる、そして代表の生まれは富山であるという。
たぶん皆さんほとんど知らない話だと思いますし、技術にもちょっと驚きましたね。
三谷忠照さん
長すぎますかね?
アッティ
大丈夫です。でも今回は以上とさせていただきます。
次回はいよいよ4回目。北陸への想いであるとか、そういったお話を聞いていきたいと思っております。
富山への想い&オススメ店&リクエスト曲
北陸への想い
三谷忠照さんは、自分が生まれた富山や父・祖父・曽祖父が駆け巡った北陸地域に対して深い思い入れを持ち、その地での仕事に感慨深いものを感じています。
特にまち作りにおいては、地域の再生や新幹線の延伸が北陸の一体感を高めると考え、地域の魅力を活かしていきたいと考えています。
アッティ
最終回の4回目になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。
三谷忠照さん
よろしくお願いいたします。
アッティ
いつも最後にゲストの方に富山への想いを聞いているんですが、お生まれは富山で?
三谷忠照さん
はい。
アッティ
富山への想いもそうですけれども、今回能登の地震がありましたし、福井では新幹線延伸もありましたので、北陸全体に対する想いでも構いません。
この北陸エリアに対しての想いを聞かせていただきたいと思います。
三谷忠照さん
三谷家って、私の曾祖父は福井出身で、祖父も福井から石川に出てきて富山で大きな仕事を受けたりしていて、北陸3県をいろいろと。
私は母が富山出身なので、やっぱり自分の父や祖父や曾祖父が駆け巡った場所なんだっていうのを、仕事をしてる身からするとすごく感慨深いところがあります。
もう1人の祖父が富山の人間ということになりますけども、日医工の創業者の田村四郎さん。さん付けしちゃって大丈夫かな?
アッティ
いいんじゃないですか?
三谷忠照さん
自分自身もお薬の事業に関わっているので「母方祖父の田村四郎がどういう想いで富山でお薬の会社を作ったのかな」っていう、その部分にすごく気持ちを馳せながら、富山に来るだけでもそういうふうな気持ちを持ちます。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
能登の地震のお話もされましたけど、実はこの番組のゲストで来られたグリーンノートレーベルの明石さんの話。
僕の番組にも出ていただいたんですけど、新湊の再生の話が、この番組であったじゃないですか。あれがすごく実は能登のふるさと復興という意味では。
アッティ
参考になりますよね。
三谷忠照さん
参考にしなきゃいけないですよね。
まちって計画的に作られていくものじゃなくて、参加者1人1人の想いがのっていく。計画都市を作るならまた別なんですけど、やっぱり自然発生的なまち作りのされ方をしている。
明石さんって「まち作りの1個目のカフェを出しました」っていうところからのお話だったじゃないですか。
プレイヤーとしての1件目「自分はこれやるぞ」っていう想いを、みんな能登でやりたいところが本当はあるんじゃないのかなって思うんです。やっぱりどうしても行政の枠組みの中で、すごくフレームに落とされていくところがあるので。
このあと、新湊ももちろん被災しましたけども、石川県能登の方では「どういうふうに復興に携わっていけるかな」っていうのも、自分の中では思いますし。
あと、福井まで延伸した新幹線ですね。これ僕また別の番組のゲストで、JR西日本の社長に来ていただいたことがありまして。
新幹線の価値は「東京と繋がる」だったんですよね、これまでは。
アッティ
そうですね。
三谷忠照さん
なんですけど、この先は「福井・石川・富山」、この3県の人たちがお互いに交流し合える。
だからある意味峠は越えるんだけど、「一塊になれる時代がやってくるのかな」って思うと、福井の血で、富山の血で、石川で育った私がですね、「何かできることがあるかもしれないな」という気持ちになっております。
アッティ
世界とか遠くから見れば、石川も富山も点でしかないし、北陸も小さなものでしかないですから。
そういう意味では、そこで分かれてる必要性ってないですよね?
三谷忠照さん
もちろん中ですごく多様な面白さがあるので、お祭りひとつひとつも全然違う、同じ祭りの中だって町内で違う山車がある。
何かそういう繊細な違いって、外国の人はわからないし、東京の人から見ても、他の地域の人から見てもわからないと思うんです。
でも、われわれ自身「その繊細な違いを大事にしないと、面白い北陸じゃなくなってくるんだろうな」とも思うので、それを理解し合うためにも新幹線開通をうまく使っていきたいですね。
アッティ
いいですね、北陸3県それぞれに何か関わりを持っていらっしゃる三谷さんだからこその考え方だと思います。
富山県内で大好きな飲食店
アッティ
皆さんにお聞きしてるんですが、富山のお気に入りの飲食店をお聞かせいただけますか?
三谷忠照さん
もう閉店したお店でもいいですかね?
アッティ
いいですよ。
三谷忠照さん
あのね、うちのおばあちゃんの家に行くと「出前でラーメン取る?」って言ってもらって。
それで「青柳 (あおやぎ)」っていうラーメン屋さんがあったんですよ。うどんとかも出してたと思いますけど。
もうね、なんかムレムレのラップに包まれた岡持ちから溢れてるラーメンのいい匂いが。
アッティ
はいはいはい。
三谷忠照さん
「もう1回匂いを嗅いでみたいな」って。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
今もすごく思い出せるんですけど、なんか不思議ですね嗅覚って、ずっと覚えてるから。
思い出すだけでですね、祖父が生きてた頃の姿が目に浮かびますし、なんかちょっと涙ぐむところも今もあるんですけど。
アッティ
そのお店に行ったことはあったんですか?
三谷忠照さん
お店に行ったことはなくて、どこにあるかも知らないんですけど、僕にとっては「出前の青柳」。
アッティ
いい思い出ですね。
三谷忠照さん
また食べてみたいです。
アッティ
なるほど。それはずっと想い続けてほしいなと思いますね。
リクエスト曲
アッティ
それと、ぜひとも1曲リクエスト曲をいただきたいと思います。
三谷忠照さん
ちょっと変わった曲なんですけど、BLUE BEAT PLAYERSというユニットの、「Thunderbirds Are Go」という、サンダーバードのテーマ曲のアレンジですね。
アッティ
なぜこの曲を?
三谷忠照さん
そうですね、なんかゆったりしたいんですよ。
アッティ
ゆったりしたい?
三谷忠照さん
日々いろんなことが起きるけども、気持ちを落ち着かせられる曲。
アッティ
そんな曲なんですね。サンダーバードですよね?
三谷忠照さん
そうなんです。威勢のいい曲ですよね。
アッティ
ですよね。
三谷忠照さん
もう「今から戦闘するぞ!」みたいな。
ですけど、勇ましいはずのあの曲が「アレンジ次第でこんなにまろやかに聞けるのか」っていう、なんかそんな感じでイノベーション的だなと採用しました。
アッティ
それでは三谷さんのリクエストで、BLUE BEAT PLAYERSの「Thunderbirds Are Go」です。
これからの夢や目標について
三谷忠照さんの目標は、「今年度 売上1000億円」の達成と、社員の幸せを第一に考え続けることです。
また、アクティブファーマを通じて「くすりの富山」を次の次元に進化させ、サステナビリティを重視したビジネスモデルを構築し、地域ブランドの発展に貢献したいと考えています。
アッティ
最後の最後になりました。ぜひとも三谷さんの、これからの夢や目標についてお聞かせいただけますか?
三谷忠照さん
まずは「今年度 売上1000億」っていうのを着実に達成したいですけども…。
会社的にはですね、利益率がどうとか言ってますよ、でも、売上も利益も業績も大事だけれども、まず「お預かりしてる社員のみんなが幸せに生きていくために何ができるのか」っていうのをすごく考え続けたいです。
それって「これをやれば正解」とかではなくて、常にアップデートし続けなきゃいけないと思っています。
そういう中で富山のお薬の事業もあるわけですけど、富山を主要拠点にしているアクティブファーマの経営っていうことからすると「アクティブファーマがあってくれて、富山の薬がまたさらに良く、もう次の次元に入ったね」と言ってもらえるように頑張りたいなと。
アッティ
なるほど。
三谷忠照さん
「くすりの富山」って、今でも十分地域のブランドになってると思うんです。
けどさらに今からの時代、本当に必要とされるもの作りの方法と、サステナビリティがしっかり考えられているビジネスのあり方と、いろんな形で「くすりの富山」をアップデートしていく。
三谷産業グループが、その1人になれたらいいなと。
アッティ
なるほど、ありがとうございます。
それでは今月、全4回にわたって三谷さんからお話をいただきました。
シリコンバレーでベンチャーキャピタルなどを経験されまして、若くしてグループ従業員3500名を超える三谷産業の4代目を継いだ三谷さん。富山の八尾にありますアクティブファーマでは、連続フロー生産の世界初の商用化などのイノベーションであったりとか、そして富山との繋がりなどということで、これからの活動をとても楽しみにしております。
今月のゲストは、三谷産業株式会社代表取締役社長の三谷忠照さんでした。三谷さん、1ヶ月間どうもありがとうございました。
三谷忠照さん
ありがとうございました。
お風呂の中でのぼせてきましたので、そろそろあがらせていただきます。
アッティ
アッティでした。ありがとうございました (笑)
三谷忠照さん
すいません言っちゃって (笑)
アッティ
(笑) 新しいパターンですよね。