こんにちは、アッティです。
「アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!
今回のゲストは、株式会社アポケアとやま 専務取締役の藤井 大輔(ふじい だいすけ) さんです。※2023年2月現在
株式会社リクルートでフリーマガジン「R25」を創刊後に編集長を務められ、現在はアポケアとやまの専務取締役として高齢者福祉事業を行いつつも、2019年に富山県議会議員に初当選し県議会議員も務めるなど、大活躍の藤井さんに熱く迫っていきます!
この記事は、FMとやま 金曜17:15~17:25放送のラジオ「アッティの熱湯とやま人」の編集前データを、ほぼノーカットでまとめたものです。
放送では流れなかった裏話も含め、お楽しみください。
リクルートへ入社するまで
「ダイスケ」について雑談
「ダイスケ」という名前は世代的に多く、藤井大輔さんもその一人です。
アッティ
藤井さん、1ヶ月間どうぞよろしくお願いいたします。
藤井大輔さん
よろしくお願いします。
アッティ
すごい肩書き多いですね。
藤井大輔さん
いや本当ですね。ちょっと自分でも何やってる人なのかわかんなくなるような感じですけど、ただ自分の中で3つは繋がってると思ってます。
アッティ
1個1個やってるわけではなくて、連携しながらということなんですね。
そういった話も深掘りしながら聞いていきたいなと思っております。
藤井大輔さん
お願いします。
アッティ
アッティの熱湯とやま人の1回目のゲストが、前田薬品の前田大介社長。
「大介・大輔」になってくるんですけれども、藤井さんの世代は「ダイスケ」って名前が多いものなんですか?
藤井大輔さん
どうなんでしょうね? でも僕より前田さんのほうが7歳ぐらい年下になるんですけれども。
やっぱり「ダイスケ」っていう名前の響きの語呂の良さみたいなものがあって、僕らの世代で「ダイスケ」というのは多いですよね。
アッティ
昔よく言われたのがね、ヤクルトの荒木大輔さんがいらっしゃって。
藤井大輔さん
でも、年齢的には荒木大輔をちゃんと見てるので。
アッティ
ですよね。荒木大輔を引き継いだわけでもない?
藤井大輔さん
引き継いだわけではないです。
アッティ
お父さんがそうしたわけでもないと。
藤井大輔さん
松坂世代の松坂大輔はね、もうそうでもないですからね。
アッティ
むしろ逆に年下ですもんね。
藤井大輔さん
はい。
アッティ
じゃあ、本当に世界一有名な「ダイスケさん」になってほしいなと思います。
藤井大輔さん
いやいや、まだ「ダイスケ」のライバルいますからね。
まず「前田大介さんよりも有名になる」そういうことを強調してるわけじゃないですか?(笑)
アッティ
そういう問題じゃないですけどね (笑)
幼少期と学生時代
藤井大輔さんは1973年生まれで、背が低くて大人っぽい喋り方をする子どもでした。
学生時代は勉強に打ち込む日々で、大学時代はバンド活動や競技スキー、映画鑑賞や読書など多様なカルチャーに触れ、特にサブカルチャーに興味を持って過ごします。
アッティ
1回目ということで、藤井さんの幼少期というか昔の時代についてちょっとお聞かせいただきたいなと思います。
「ダイスケ」と呼ばれてたのかわかりませんが、藤井さん自身は、例えば学生時代だとかその前の小学校とか幼児の時代って、どんな感じのお子さんだったんですか?
藤井大輔さん
僕は1973年生まれっていう形で、第二次ベビーブームの頃。
日本全国では210万人子どもがいたといわれていて、今は80万人切ったって話ですから、そういう意味ではたくさんの子どもたちがいたころですよね。
その中でも、僕はめちゃくちゃ背が小さくて。
アッティ
そうですか。
藤井大輔さん
髪の毛も本当にキューピーちゃんぐらいしか生えないっていうのが、小学校入学ぐらいまで。母親も「ちょっと辛いもの食べすぎたのかもしれない」て反省してるぐらいだったんです。
背は中学校入学するときに133cmぐらいしかなくて。小学校4年生の平均身長くらいで、ほとんど一番前。
それでいながら喋りだけはなんか大人っぽくて、生徒会長とかもやって。背が小さすぎて、体育館で誰が喋ってんのか見えないっていうぐらいの。
アッティ
演台のところで、結局その上にも至らないみたいな?
藤井大輔さん
はげた頭しか見えないっていう、そんなような子どもでしたね。
アッティ
そのコンプレックスって、今でも残ってるんですか?
藤井大輔さん
背が小さいということは、それだけ人口の多い中でいくと、不良っていうか「活きのいい」方々もたくさんいる中で、やっぱり腕っぷしが強いのが男としてモテるみたいなところあったと思うんですけど、僕そういうタイプじゃ全くなかったので、そういう方々とうまく交渉しながら…(笑)
本当は自分も背が高くて腕っぷしが強い男に憧れてたんですけど、それになれないので逆張りでずっと生きてるっていう。
アッティ
面白いですね、やっぱりそういうのが残ってらっしゃることがあるかもしれないですね。
そうやって幼少期を過ごされながらも、学生時代っていうのは何かに打ち込まれたこともあったんですか?
藤井大輔さん
富山では学生時代、勉強した思い出しかなくて。
アッティ
勉強しかしてない?
藤井大輔さん
僕はそんなにめちゃくちゃ出来がいい方ではなかったんですね。だから必死になってやらないといけなかったので、あんまり高校時代の記憶がないんです。
もう本当に嫌な思いをしながら、でも「ここから抜け出すには、頑張って成績上げなきゃいけない」みたいな。
唯一、コーラス部っていうのに入らせてもらって。
アッティ
コーラス部ですか?
藤井大輔さん
「コーラス部で歌を歌うことで少し発散してた」っていうのはあると思うんです。
そういう意味では、真面目な生徒ではなかったと思うんですけど「あんまりいい思い出がない」って言ったらいいのか、「勉強した思い出ぐらいしかない」っていう。
アッティ
勉強ばかりをしていた藤井さんが、大学に入って「これに打ち込んでみたい」みたいなものって何かできてきたものですか?
藤井大輔さん
バンドをやったりとか。
アッティ
バンドをやってたんですか?
藤井大輔さん
はい。あと競技スキーっていうのを、ちょっとやったりとかしてましたけど。
大学時代は大阪に行ってたんですけど、どちらかというと何かに打ち込むというよりは、いろんなところをかいつまんで、映画を見に行ったり、本を読んだり、カルチャー的なことにどっぷり浸かっていた感じかもしれませんね。
特にサブカルチャーみたいなものが流行っていて。音楽的には、「渋谷系」って覚えてますか?
アッティ
はいはい。
藤井大輔さん
僕は渋谷に住んでないのに、大阪に住んでるのに「渋谷系だ」とか言ってました (笑)
アッティ
大学のときに何かに深く取り組んだというよりは、カルチャーでいろんな学びをして、そこに興味を持ったんですね。
リクルートへの入社
藤井大輔さんがリクルートに入社したのは、面接が印象的だったからです。
タバコを吸いながら20分遅刻してくる面接官の自由な雰囲気に惹かれ、本音を引き出されてリクルートに魅力を感じ入社を決めます。
アッティ
リクルートで「R25」を創刊されたところに繋がるのかわかりませんが、リクルートに入ろうと思ったきっかけって何だったんですか?
藤井大輔さん
1995年に入社したんですけど、リクルート事件っていうのが1988年にあってですね。95年のときのリクルートって会社は、いわゆるちょっとブラックなイメージの会社で。
あと、バブルがはじけた後の不動産の借金がすごいあって。1兆4000億円ぐらい借金があり、かつダイエーに支援されている会社っていう、あんまりポジティブな感じの雰囲気の会社ではなかったんですよ。
アッティ
でも今は、リクルート出身の人がいろんなとこで活躍されていて、リクルートってそれこそ何やってる会社かわからないぐらいまでにすごい状況になってますよね。
その当時は全然違ったんですね。
藤井大輔さん
違いました。入社も同期50人ぐらいしかいなくて。
アッティ
そんなに少ないんですか!?
藤井大輔さん
それこそ1988年の事件が起こる前後は、1,000人入社とかしていた会社なんですけど。
アッティ
それが50人に!?
藤井大輔さん
当然、富山で「リクルートに入る」って言ったら、両親も「なんでそんな会社に入るんだ」みたいな感じで。
あんまり反対するタイプの親ではないんですけど、そこだけは「何でだ?」って言われたんですが、面接がすごい印象的で。
僕自身もあんまりポジティブなイメージじゃない会社ではあったんですけど、ちょっといろんな方のツテで「1回面接だけ受けに来いよ」と言われて。行ったら、面接官が20分ぐらい遅刻してこられて。
アッティ
面接官がね。
藤井大輔さん
タバコ吸いながら入ってこられて、「君、誰だっけ?」みたいな。
アッティ
すごいですね (笑)、今ではありえない。
藤井大輔さん
っていう感じなんですけど、そういうふうになるとこっちも構えてないから「なんかもういいや」って感じで、結局自分の本音をスラスラ喋らされてるんですよね。
アッティ
向こうもそれが狙いだったんですかね?
藤井大輔さん
かもしれませんね。その面接官っていうのは、伝説の面接官に最終的になっていく方なんですけど。
アッティ
やっぱりそうなんですね、すごい!
藤井大輔さん
その方が、今の社長とかも全部採用している人なんですけどね。
「大輔を最初に見たときは、自分自身の中に何かいろんなアイディアがあるんだけども、それを引き出してくれる環境が彼にはまだないんじゃないか?」みたいなふうに思ったらしく。
リクルートっていうのは、機会を提供するっていうか、環境を提供することは抜群にうまい会社なんですね。
すごい営業が強い会社のように見えるんですけど、どちらかというと、会社よりも個人を大事にする会社で。「個人が伸びることが最終的に会社が伸びる」っていうような発想の会社なんですよ。
そういう意味では、「藤井大輔っていう人間を伸ばせる環境がリクルートにあるだろう」というふうに思ってくれたらしくて。そこから一生懸命口説いてくれるってわけでもないですね、僕の話をとにかく聞いてくれるんです。
だから、気がついたら「パンクロックと資本主義について熱く語っていた」とかっていうふうな。そういうのも「おもろいやん」とかって聞いてくれるんです。そんな面接今までなかったんですよね。
アッティ
ないですよね、今でもなさそうですよね。
藤井大輔さん
そういうのもあって、「ここだったら自分の本音で仕事できる環境をいただけるかもしれない」って思って入社しました。
アッティ
何社かもちろん希望はあったでしょうけど、「ちょっと顔だけ出そうかな」って受けたリクルートの優先順位が一挙に上がって。
藤井大輔さん
「こんな会社あるんだ」と思って、びっくりするぐらいでした。
僕は経済学部だったので金融系の会社、銀行に行くものっていうか、先輩がそうだったので、そういう考えでいたんです。
銀行に行くと、僕はちょっと空気の読めない学生だったので、例えば2つ~3つ年上のOBの方が「俺、2億円の融資決めてきたんだよ」みたいな感じで言われると、「融資の額で仕事の質って決まるんですかね?」みたいなこと言っちゃって、「お前何してんの?」みたいな。
アッティ
それ面接で言っちゃったんですか?
藤井大輔さん
言っちゃったんです (笑)
アッティ
恐ろしいな(笑)
リクルートっていうと「事業領域を設けずに常に新しい領域に行く」みたいな感じが、今はあるような雰囲気がしますけど、元々そういう体質だったんでしょうね?
藤井大輔さん
そうだと思います。
私が一番最初に配属されたのは「ゼクシィ」という結婚情報誌だったんですけど、「ゼクシィ」も創刊して2年目とか3年目なので、有名な雑誌では全くなくて新規事業だったんです。
アッティ
そうしましたら今回は以上とさせていただきまして、次回は、リクルートでの仕事、そしてまた福祉事業とか県議会議員についてお話を聞きたいなと思っております。
リクルートでの仕事
「ゼクシィ」について
藤井大輔さんは、リクルートで「ゼクシィ」の編集部に配属され、当時新規事業だった同誌の編集を担当します。
「ゼクシィ」は花嫁の声に基づいてオリジナルアレンジが可能な結婚式を提案することで業界を変革し、営業マンと協力し新たな結婚式のスタイルを推進することで、大成功を収めました。
アッティ
前回は藤井さんの子ども時代、そしてまたリクルートに入るまでについてお聞きしたんですが、今回は、リクルートでのお仕事についてお話を聞きたいなと思ってます。
リクルートになぜ入ったのかは前回お聞かせいただいたんですが、リクルートではどういう仕事をされていたんですか?
藤井大輔さん
一番最初に配属されたのが、「ゼクシィ」という結婚情報誌でした。
今は「ゼクシィ」というと、CMとかもバンバン流れてるので富山の方もご存知かと思うんですけど、僕が入ったときはまだ新規事業で、1~2年目ぐらいのとき。創刊2年目のときに入ったんですよね。
編集部に配属されたんですけども、ほとんど女性の中に僕1人入ったみたいな感じで。
リクルートって基本的に営業で育てて、最終的に3~4年目ぐらいにいろんなとこに配属振り分けをされるんですけど、私は営業を1回もやったことなく、いきなりダイレクトに編集の仕事をさせていただいたんです。
この「ゼクシィ」というところで、最初は「出会い、付き合い、結婚」っていう、本当に昔でいうと「ねるとん」みたいな。
アッティ
はいはいはい。
藤井大輔さん
いわゆる出会い系みたいなことのページから、デートのページがあり、そしてブティックホテルの情報があり、最後、結婚式場の情報があるという。
アッティ
一応その流れですね (笑)
藤井大輔さん
とんでもない何か幅広な雑誌だったのが、最終的に「したい結婚見つかる、できる」っていうコンセプトに変わっていくタイミングで私は編集部にいました。
お仕着せの結婚式ではなく、「自分のやりたい結婚式を花嫁さんの視点で編集していく」っていう雑誌だったんです。
アッティ
なるほど。
藤井大輔さん
それまでの結婚式っていうのが、いわゆる「結婚式場で80万円とか100万円出したら、あとはお任せ」っていうか。
アッティ
そうですね。
藤井大輔さん
曲を1曲も選べないようなパッケージの。
アッティ
「パッケージでこれが全部ひとつ」みたいな感じでしたもんね、昔は。
藤井大輔さん
それを自分でフラワーのデザインをしたりとか、選曲を自分でやったりとか、そういうようなオリジナルアレンジをできるようにしていったのが、実は「ゼクシィ」だったんですね。
アッティ
今のいろんな結婚式場、それこそプライベートなものも多いじゃないですか。ああいう形を一個一個組み立てるのは「ゼクシィ」がスタートだったんですか?
藤井大輔さん
そうなんです。レストランウェディングとか、そういったところも新しく開発していったのが「ゼクシィ」。
いわゆる「結婚業界のタブー」みたいなところを打ち破っていくんですけど、そのベースになるのはやっぱり「花嫁さんの声」なんですよね。「もっとこんな結婚式がしたかった」とか。
「こんなもんだ」って思えばあれなんですけど、「どんな結婚式だったらもっと挙げたい?」みたいなことを、我々編集部が情報を集めてきて、それを記事にしていく。
そうすると、今度は営業マンが「こんな結婚式をやってみましょうよ」っていうふうに提案していって、業界を変革していくっていうような、そういうダイナミックなタイミング。そこで、僕ちょうど1~3年目ぐらいまで働かせていただきました。
アッティ
「ゼクシィ」の編集を務めて提案をしていくという中で、営業の人は、実際に結婚事業もやっていくってことなんですよね?
藤井大輔さん
結婚式場に対して、「こういうふうなニーズがあるから変えていったらどうですか?」っていうふうに言っていくんですよ。
そしたら、儲かっているところは「そんなこと要らねえよ」ってなるんですけど、業績がそこまで伸びてないところは「ちょっとやってみよう」ってなるわけですよね。
アッティ
なるほど。
藤井大輔さん
そういうフリープランみたいなものを作って、それが爆発的にヒットすると、当然これまでやってた業界の人たちにとってみたら「とんでもないことをやってる」みたいな感じで。
「ゼクシィ反対運動、掲載しない!」みたいな運動も起こったんですけど、結果、ニーズにあった式場の方が儲かっていくので、そういうふうな形で業界が変わっていったっていう。
アッティ
すごいですね。やっぱりリクルートっていう会社は、編集的なそういう提案もするし、業界自身を変える営業も行いながら、コンサルもしていくみたいな事も全般的にやってるわけですね。
藤井大輔さん
でもベースとなっているのは「ゼクシィ」の場合は、花嫁さんの「負」ですね。
「嫌な思いをしてる」とか、「もっとこんなことをしたい」とかっていう「負」に着目して、花嫁さんの「負」を解消しているので、最終的には市場の変革まで持っていけるんだと。
それがもっといえば広告掲載費が上がるし、「ゼクシィ」もどんどんどんどん分厚くなっていくことで収益化ができていく。
そういうストーリーを、後の5代目社長になる峰岸真澄 (みねぎし ますみ)さんという人が組み上げて、これだけ大きな事業にしていったという。
「R25」について
藤井大輔さんが編集長を務めた「R25」は、リクルートの新規事業開発コンテストから生まれたフリーペーパーで、25歳から30歳の男性向けに「日経新聞を読んだふりができる」というコンセプトで作られました。
藤井さんは調査とインタビューを通じて「若者が日経新聞を読みたがっているが、内容が難しい」と感じていることを発見し、そのニーズに応えた結果、毎週60万部がすぐに完売する成功を収めます。
アッティ
我々の世代にすると、R25ってのは非常に有名で、それこそ「世の中を変えた」というか「その当時の若者はみんな読んでた」みたいなフリーマガジンだったと思います。
藤井さんはなんと、その編集長を務めたということなんですけれども、実際「R25」っていうのは何だったのか? それに対してどういう想いで、どういう活動をされてたのか? ちょっとお話いただけますか?
藤井大輔さん
リクルートは、新規事業開発コンテストっていうのをすごくやっている会社で、「ゼクシィ」も、その新規事業開発コンテストの優秀作品の中で出来上がったものなんです。
2002年に「ペーパーポータル構想」、インターネットのポータルサイトっていうのは、Yahooとか要はインターネットの入口になるサイト、「ポータル」ってのは「入口」っていう意味、つまり「紙で入口を作って」っていうような考え方。
もうちょっというと、「新聞を無料化して、若者の人たちの新聞的価値のあるところをリクルートで押さえてしまおう」というようなアイディアを出した人がいて。その若者がコンテストで最優秀賞を取ったんですね。
最優秀賞を取った後、その人たちは「プランナーではあるんだけれども、編集ができない」ということで、当時僕は「都心に住む」っていう雑誌をやってたんですけど、「その雑誌が結構面白いことをやってる」ってその若者たちが見てくれて、「編集やるんだったら藤井さんしかいない」みたいなふうに声をかけてもらって。
僕からしてみたら、ありがた迷惑だったんですけど (笑)
アッティ
「仕事でパンパンなのに何を持ってくるんだ」みたいな。
藤井大輔さん
ただそれがきっかけで「いわゆる新聞的なものをフリーペーパーという形で無料化して、週刊誌で発行していく」っていうアイディアにどんどん変わっていくんです。そのとき僕30歳なんですね。
アッティ
若い。
藤井大輔さん
編集長経験がなかった人間だったんですけれども、抜擢してくださったんです。
僕は最初「うまくいくはずがない」と。新聞社っていうのはとんでもない記者の数と、あと輪転機 (印刷機) を持ってるわけですけど、うちは記者っていうか編集部は僕1人だけですし、あと、雑誌を作るノウハウみたいなものもなく。
実は「情報誌」と「雑誌」って違うんですよ。「情報誌」っていうのは、あくまで広告が束ねられてるもので、営業マンがたくさんいればできるんです。でも「雑誌」っていうのは編集者がたくさんいないとできないのに「僕1人でやるんですか?」みたいな。そんなとこからスタートはしたんですけどね。
ただやっぱり、これもニーズなんですけども、25歳から30歳ぐらいの男性の人たちに「新聞をどれぐらい日常的に読んでるか?」みたいな話をしたときに、「読んでる」って答えてる人がすごいいるんだけど「本当かな?」と。
「本当は読んでるふりしてるだけなんじゃないかな?」っていうところまでいろいろ掘り下げたインタビューを2ヶ月間やって、300人ぐらいの人たちに会って声を聞いて集めたところ「日経新聞を読みたがってるんだけど、日経新聞が難しすぎてわからない」っていう人たちが、すごい沢山いるってことがわかって。
アッティ
そうでしょうね。
藤井大輔さん
1個出来上がったコンセプトが「日経新聞を読んだフリができる」。そんなフリーマガジンなら、これは当たるんじゃないかと。
アッティ
それを面白おかしく、わかりやすく。そして、それを読んだ人が言葉にできそうなとこまで持っていくんですよね?
藤井大輔さん
日経新聞に書いてあることをわかりやすくするんじゃなくて、日経新聞に書いてありそうなこと。
なので、日経新聞に一切載っていなくても「日経新聞風」なことで、営業現場とかビジネスの現場とかでちょっとトークができたり、基礎的な情報をさっと仕入れられるような。
まさに「読んだふり」ができるっていうコンセプトで作ったら、毎週60万部があっという間になくなるフリーペーパーになったということですよね。
アッティ
社会人として、お客さんのところや社内で人と話をするときに、普通のちょっとした雑談ではなくて、ちょっと「こいつ、なかなかだな」「なんでこんなことまで知ってるんだ」みたいなこと、かゆい所に手が届くようなこととか、そういうのがズラっと並んでる感じでしたもんね。
藤井大輔さん
最初7号ぐらいで「もう終わるかな」と思ったら、それが300号以上続いたフリーマガジンになったんです。
あのときは「なんかすごいホームランを当てたな」っていう実感もあったんですけど、今から振り返っても「何であんなに当たったんだろう」っていうのが未だにわからないぐらい。
アッティ
「最初の調査をしっかりやって、コンセプトを明確化させた」っていうのが、やっぱり大きいのかもしれないですよね。
藤井大輔さん
「日経新聞を読んだふりができる」っていうコンセプトは、いまだに使っていただいてるんだと思いますね、今の「新R25」で。
編集力と議員活動のつながり
藤井大輔さんがリクルート時代に培った編集の技術は、人々の本音を引き出し、わかりやすくまとめて伝えていく議員の仕事にも活きています。
編集の力は、社会で活動する上で情報を取捨選択し行動するために必須の技術です。
アッティ
「ゼクシィ」で編集からスタートして、「R25」で編集長をされて、今でもやっぱり編集の力ってすごい身につけられてることだと思うし、それこそ藤井さんの武器だと思うんです。
編集っていうのは元々やりたかったことなのか、編集に対する想いってどんなものですか?
藤井大輔さん
「編集者になりたいと思ったかどうか」っていうと、微妙ですね。
でも、自分が大学時代とかにいろんなサブカルチャー含めて、雑食的に興味のあることをたくさん仕入れた経験から、僕はいろんな素材を集めて、それを加工して編んで、人に提示したときに「これ面白いねって言ってもらう」、飲み会の席とかでも話題提供をして「それがみんなの話題として盛り上がる」みたいなものは、やっぱり好きだったんだと思います。それを技術として磨かせていただいたのが、リクルート時代だったと。
それは変な話、議員の仕事でもめちゃくちゃ活きていて。
一般の方々からの声を聞くんですけど、声の聞き方も「こんなことをしてほしい」って言っている裏側の背景とか、その心の中の本音みたいなところを「どうなんだろう?」って観察する癖がやっぱりすごくあって。
人の「やってほしい」っていう言葉の裏には、実は違った欲求があって、それが言葉になってないだけだと。
さっきの「日経新聞を読んだふりができる」みたいなのって、「僕は日経新聞を読んだふりしたいんですよ」なんて言う人いないわけですよね。
同じように「富山県をこういうふうにしてほしいんですよ」っていうなかなか出にくいところを引っ張ってきてわかりやすくまとめて、それを議会とかそういったところで伝えていくのが役割だとすると、「これは編集の技術と一緒だわ」って思って。
アッティ
ある政治家さんは「聞く力」って最近おっしゃられてますけど、聞けばいいってものではなくて、それをわかりやすく、それこそ「まとめる」ってことがやっぱり大事なんですよね。
「まとめたものをシンプルに活動に繋げるとこまでしないと意味がない」という意味では、「編集」ってやっぱり大事ですよね。
藤井大輔さん
すごく大事です。
アッティ
それこそみんなもやっぱり、それぞれで何か編集してるんでしょうね?
藤井大輔さん
そうなんですよね。人間が社会の中で活動してるってことは、ある程度自分で情報を取捨選択して、その中から何かしらか自分に合ったものを選んで行動していくっていうこと。
それってまさに「編集」っていう技術ですよね。
アッティ
それでは今回は以上とさせていただいて、次回は、なぜリクルートから富山に戻ってこられたのか、福祉事業を含めた今の活躍にどのように繋がってきているのか、そんなお話を聞いていきたいと思っております。
人生の転換期
高齢者福祉事業への転身
藤井大輔さんは、「R25」編集長として成功を収めましたが、2008年からの経済危機で事業が悪化し、リストラなどの対応に追われました。
心が疲弊し、40歳を機にリクルートを退社。母親の介護事業を手伝うため、富山に戻り、社会保障と行政の重要性を感じながら新たな挑戦に踏み出しました。
アッティ
3週目ということで、前回の話から藤井さんはリクルートで大活躍をされてたわけじゃないですか? なぜ富山に戻ってこられたかというのがちょっと疑問なんですけど。
藤井大輔さん
「R25」って私が31歳のときに創刊して、それで編集長をやらせてもらうんですけど、それが2004年なんですね。
2007年ぐらいまではものすごい絶好調の事業で、それこそ「大手の広告代理店の電通さんと合弁会社を作って」みたいなところで、もうイケイケドンドンみたいな感じだったんですけど、2008年ぐらいから「サブプライムローン」みたいなことで、アメリカの経済が…
アッティ
リーマンショックのときですよね?
藤井大輔さん
そうなんです。アメリカ経済が空回りして翌年にリーマン・ショックがまさに起こるんですけど、フリーマガジンって、当たり前なんですが、広告がないと回らなくて。
一時期は、1号を出すので1億円ぐらい広告収入があったぐらいのすごいフリーマガジンになっていたんですけど、それがもう1号で2000万円も集まらないみたいなふうに一気に逆回転になっていくんです。
アッティ
それは厳しいですね。
藤井大輔さん
やっぱり電通さん的には「テレビCM」っていうところが何よりも大事な事業の柱なので、R25のフリーマガジンっていうのは雑誌局で、あっという間に一位の雑誌ブランドになるんですけど、新規事業。
広告費が3分の1とかに激減する中では、守るべきは「テレビCM」ということで、一気に業績が悪化していくんですね。
アッティ
なるほど。
藤井大輔さん
それの責任もやっぱり自分で取らなきゃいけない立場になっていまして。
そこから2008年、2009年、2010年ぐらいは、本当に敗戦処理みたいな感じで。
アッティ
そのとき「R25」は終了してる状況ですか?
藤井大輔さん
「R25」は2015年までずっと続くんですけど、事業としてはものすごい投資フェーズだったところから、一気に人員整理などのリストラも含めてやらなきゃいけないと。
そういう意味でいくと、3年前はそれこそ「ガイアの夜明け」に出させてもらうぐらいすごいイケイケだったのが、いきなり「もう藤井の時代は終わったね」ぐらいの感じで言われるのが、37歳~38歳ぐらいのときです。
アッティ
すごい30代ですよね。
藤井大輔さん
もうジェットコースターのようです。
ただやっぱり敗戦処理とかをする中で学んだことはたくさんあるんですけども、リクルートはひとつ40歳というのが区切りになってる会社で。
40歳までは、敗戦処理って言ったら変ですけど「自分の中では最後までやりきろう」という感じでは思ってたんですけど、正直もう心が擦り減ってしまったところもあって。
アッティ
疲れ果ててしまって。
藤井大輔さん
あとリクルートが「紙からネットへ」っていう、いわゆる「ネットの会社」に変わっていくんですね。
アッティ
なるほどなるほど。
藤井大輔さん
私自身もインターネットとかっていうよりは、紙の編集者っていうところで、自分がどれだけ新しいことをやろうと思っても、会社の中ではどっちかというと「古い実績のある人」っていうふうに。
アッティ
古い媒体を使っている人というね。
藤井大輔さん
であれば、「若い人たちにチャンスを与える」。僕も若いときにチャンスをいただいたからリクルートですごくいい経験ができたので、「後進に譲るべきだ」というようなこともあって。
それで辞めるときに「東京で起業する」っていうことも有り得たんですけど、せっかくなら「富山で、今までの経験を生かせるようなことができれば」と。
母親がちょうど介護事業をやっていたので、全然違う業界に飛び込んでみることにしました。
アッティ
びっくりですね。全く違いますもんね。
藤井大輔さん
あとはリーマン・ショックで思ったのは、ビジネスって結局お金がないと継続できないわけですよね。
でも社会保障の仕組みとか、行政の仕組みっていうのは、やっぱりずっと継続していく。要は、ビジネスで解決できる世の中の課題って、やっぱり限定的。
それこそ介護とか高齢化とかって、これからの社会の中では向き合ってかなきゃいけないんだけど「僕は全く知識がないや」と思って。
アッティ
お母さんが「アポケアとやま」という事業をやっていらっしゃった?
藤井大輔さん
そうです。全くそういう基礎知識もないまま飛び込んでいくわけなんですけど。
高齢者福祉事業での気づき
藤井大輔さんは、リクルートから介護施設に移った際、リクルートのマネジメントを持ち込もうとしましたが、現場で通用せず苦労しました。
そこで社会福祉士の資格を取得し、福祉の歴史や貧困問題を学びます。それによって現場の声を理解し、適切な支援を提供する重要性を学び、謙虚さを持つようになりました。
アッティ
編集長から高齢者施設、介護施設の方に移って、まずは何をされたんですか?
藤井大輔さん
リクルートってマネジメントとかがものすごくよくできてる会社なので、「リクルート的マネジメントを福祉の業界に入れたら良くなるんじゃないか」っていう上から目線で。
アッティ
危険そうな匂いがしますね (笑)
藤井大輔さん
そうそう (笑)
入っていったら、現場の職員さんに「誰こいつ?」みたいな (笑)
アッティ
「お前何言ってんの?」みたいなそんな感じで? (笑)
藤井大輔さん
介護の資格も「ヘルパー2級」は、一応取って入社したんです。
けど、基礎的な知識ぐらいしかない中で、やっぱり現場で切った貼ったで。
ケアをやられてる職員さんには、全然僕の声が届かないし「カタカナばっかりで何言ってるかわかりません」みたいな (笑)
アッティ
なるほどなるほど (笑)
藤井大輔さん
もう2年間ぐらい全く通用しなくて。
「これもう駄目だな」って思ったんですけど、そこから「社会福祉士」っていう国家資格を…
アッティ
あれは大変な資格ですよね。
藤井大輔さん
今はリスキリングなんて言葉がありますけど、通信の大学に入り直して学んだ「社会福祉」がめちゃくちゃ面白い勉強で。
いわゆる資本主義で格差が生まれてくる中の「貧困」っていうものに対して、「どうやって支援していくか」っていうのを、1890年ぐらいにイギリスからまずスタートしていく。
そういった歴史とかを学んでいくと、僕が今まで「マーケティング」っていうふうにやっていたことが、いわゆる「貧困の方への支援」みたいなところと、すごい似てるんです。
ニーズ調査をしていくんですけど、貧困で困った方は何が困ってるかって「とにかく今、食うものがない」とかそういったことですけど、構造的にやっぱり何かあるわけですよね。
アッティ
求めていることが、ということですね。
藤井大輔さん
社会的な構造の問題であったり、その方の住んでいる地域の構造的な問題だったりがあるわけです。
その構造的問題に焦点をあてていきながら、その方の環境を整えていって、最終的にはその方の「自立心」とか「モチベーション」とか、「エンパワーメント」って言葉があるんですけど、それを高めていく作業っていうのは、まさに編集でやってた「情報を提供して、それを読んだ人が自分で行動するってことと一緒やん」と思って。
アッティ
面白い。
藤井大輔さん
これで僕は、目から鱗になって。
アッティ
なるほど、そこが繋がりますね。
藤井大輔さん
繋がるんですよね。これは編集の技術が生かせるし、あくまで主体は支援をする側ではなく「支援を受ける側の方々を主体として考えていくんだ」っていうことに気づいてから、だいぶ変わりましたよね。
アッティ
先ほど言われた「編集」っていうのは、聞く力があって、聞いてわかりやすくして、またそれを伝えていくこと。そこは確実に繋がりますよね。
藤井大輔さん
そうなんですよ。
まずそもそも「困ってることを言うのが恥ずかしい」とかね、そう思ってる方は心を解きほぐしながら「その人に本当に必要なものって何なんだろう」っていうのを解きほぐしていかないと、適切な支援ってやっぱりできないわけなので。
アッティ
そうやって「社会福祉士」を取られて、そういう意味では認められてきてる部分があると思うんですけど。
藤井大輔さん
まだまだっていうか、僕自身がやっぱりすごい謙虚になりましたね。
アッティ
なるほどなるほど。
県議会議員への立候補
藤井大輔さんは、2019年に富山県議会議員に当選しました。高齢者福祉で地域包括支援センターの相談員を務める中で、地域との繋がりを深めたことが立候補のきっかけ。
リクルートでの経験や福祉の知識を活かし、世の中のニーズを探求し、課題を発見し、提案するプロセスが全ての活動に共通しています。
アッティ
福祉のプロまでになってるかわかりませんけれども、そこから2019年に富山県議会議員になられるわけじゃないですか。
なぜそこを目指されたものなんですか?
藤井大輔さん
これも不思議なものでですね、ご縁なんですよね。
地域の中に溶け込みながら、特に僕の場合は高齢者福祉で「地域包括支援センター」というものがあって、そこの相談員という役割で地域の方の助け合い活動みたいなものを支援していくっていう、個人を支援するだけじゃなくて「地域を支援する」っていう仕事も出てくるんです。
僕は個人の支援よりも地域の支援のほうが得意っていうところもあって、それを積極的にやらせていただくと、地域の方々と繋がりができてきますよね。
その中で、政務活動費の不正問題とかで「今、私の地域から議員の方がいなくなってしまった」とかっていうこともあって、「どうだ、出てみないか?」って言っていただけたっていうところがあると思います。
さっきも申し上げたんですが、行政の仕事っていうのは、やっぱりすごい大事だなって。「ビジネスでは解決できない部分を行政が担ってる」って思っていたので、その行政に関わっていくきっかけとしての議員っていうのは、やっぱりあるんだなと。
アッティ
福祉を経ずに、例えばリクルートから富山に帰ってきて、そういう声がかかってすぐに議員になったってことってありうると思います?
藤井大輔さん
ないと思います。
アッティ
やっぱりそうなんですね。
藤井大輔さん
ないと思いますね。
アッティ
面白いですね、その流れというのはね。
藤井大輔さん
それと、たぶんできないと思います。
リクルートから戻ってきて、すぐ議員になってたら多分できないと思いますね。
アッティ
今回大きなテーマだと思うんですが、リクルートで編集長を極めてこられて、福祉の世界でも学びを多くされて、さらに県議会議員をされているという、この3つ。
「他の人から見ると、点にしか見えないようなことを3つやられてるな」って感じはするんですが、その3つが繋がってることってどういった点でしょうかね?
藤井大輔さん
「世の中のニーズ」っていうか、「本当の課題って何だろう」って探求していくっていうこと。
そこから発見していくと、その発見をベースに「こんなことしてみようよ」って提案ができて、その提案が最終的に行動になり、変革になるっていうのは、全部一緒なんですね。
特に社会福祉士の仕事は、個人に焦点を当てていって、個人の中での課題発見から、最終的にその方々の生活なり意識を変革していくことをサポートすること。これは、ものすごいダイナミックな話だと思っていて。
でも、こっちが介入しすぎると良くないっていう。これは「教育」とか「子育て」にもある話なんですが、「根本的なところが共通してるんだな」って、最近本当に思いますね。
アッティ
今の話をちょっと聞いていて、もちろん3つを1個1個極めていく、今であれば、福祉事業と県議会議員を極めていくってことは大前提なんでしょうけど、今のその3つの繋がりのキーを聞いていると、多分間違いなく次のステージでまた「全く別のように見えることでありながら、ベースは一緒なこと」をやられるんじゃないかなって、そんなことを感じました。
藤井大輔さん
嬉しいですね、ありがとうございます。
アッティ
今回は以上とさせていただいて、次回はいよいよ最終回ということで、ふるさと富山についてとか、人生のこだわりについてお聞きしたいと思っております。
富山への想い&オススメ店&リクエスト曲
ふるさと富山について
藤井大輔さんは、富山に戻って9年、富山大学に通う息子と一緒に住む中で、富山の豊かさを再発見しました。
過去自分が感じていたものと、息子を通じて感じるものが多面的に見えてきて、食べ物であったり自然であったり、そういった富山の豊かさは、息子がいたから気づけた魅力です。
アッティ
ここまでですね、今までの子ども時代から含めてリクルートでの時代、富山に帰ってきてからの福祉事業、そして県議会議員をされているという話をいただきました。
今回最終回ということでもありますので、ふるさと富山について、まず思いを語っていただきたいと思います。
藤井大輔さん
富山に戻ってきて、これで9年になるんですけど、うちの息子は大学が富山。元々東京で子育てはしてたんですけど、息子が富山に来て5年になって、今は息子とも一緒に住んでるんです。
富山の良さみたいなところは、過去自分が感じていたものと、息子を通じて感じるものが多面的に見えてきてます。
やっぱり豊かですよね、食べ物であったり、自然であったりっていうところは。この豊かさに、息子がいたから気づかされてるところがあって。
自分自身の富山の見方って、なんかちょっと足りない部分とか、何かそういうとこばっかり目が行きがちで「息子と一緒にいることで新たな魅力を発見できたな」って思ってます。
あと、やっぱり「いろんな人たちが活躍できる富山県になったらいいな」っていうのは思っていて。そういう意味では「久遠チョコレート富山店」っていうのを、アポケアとやまの方で2021年12月にオープンさせていただいたんですが。
アッティ
新庄の方にあるんですよね?
藤井大輔さん
向新庄の、富山第一高校さんの近く。
そこは障害者の方の所得向上を目指してやる100%ピュアチョコレートのショップで、愛知県豊橋市からスタートしたプロジェクトなんですけれども、それの富山1号店というのを今回やらせていただいてるんです。
そこで今ちょうど1年ぐらい経ってですね、障害者の雇用もさせていただきながら、気づくのは「やっぱりいろんな方々に活躍の場をもっと作れるんじゃないかな」っていうような考え方。
「障害者雇用」っていうと、簡易な組み立てとか、そういったものがベースだったりするんです。でも、久遠チョコレートっていうのは100%ピュアチョコレートなので作るのが結構難しいんですけども、30ぐらいの工程に分けて、障害者の方でも得意なところに絞ってやることができるっていう工夫があって。
最終商品は「非常にクオリティが高い」というふうに自分で言うのもあれなんですけど、評価いただいてたりするんです。
そういう意味では、「こういう仕事の作り方ってあるんだな」「いろんな人が活躍できる仕事の作り方ってあるんだな」と。
「こういった考え方を富山にどんどん広げていけたらいいな」っていうのは感じていますよね。
アッティ
いいですよね。私も久遠チョコレートさん、何度かお邪魔したことがあるんです。
味もそうですけど、見た目もすごいおしゃれじゃないですか?
藤井大輔さん
はい。
アッティ
そういったことを障害者の方というわけではないんですが、彼らが作ることによって、実際に買われている皆さんが笑顔になってる姿を見ると、たぶん働かれてる方々もすごい喜びにあふれてるんじゃないですかね?
藤井大輔さん
実際やっていらっしゃる方も「食品の仕事に就きたい」と思っていても、なかなかそういう仕事がない。また、一般雇用で頑張って入っても、やっぱりどうしても体がついていかないっていうことがあったらしく。
久遠チョコレートだったら最終商品みたいなものに自分が携わって、しかも売ってるものを自分でも食べて「美味しい」って感じることができるっていう。「そのおかげで、すごく前向きに仕事に取り組める」っていうお話もいただいたりしています。
こういう発想って、それを考えたのが自分だったらいいんですけど、僕は持ってきただけなので。
アッティ
なるほど。
藤井大輔さん
創業者の夏目浩次 (なつめ ひろつぐ) さんという方がいらっしゃるんですが、「やっぱすごい発想だな」って思うんですよね。
アッティ
チョコレートも、それこそ失敗したからって捨てるものではなくて、何度も作れるじゃないですか。
藤井大輔さん
そうなんですよね。「チョコレートは溶かせばまた作り直せる」っていう意味では、「失敗も再チャレンジもできる」っていう、そういうメッセージもありますよね。
アッティ
素敵ですね。
藤井大輔さん
うちは高齢者施設を「サービス付き高齢者住宅」っていう名前でやっていて、これを「サ高住」って呼んでるんですけど、ゆくゆくは「シ高住」にしたいと思ってて。「仕事付き高齢者住宅」にしようと。
アッティ
面白いですね。
藤井大輔さん
久遠チョコレートのお仕事を、高齢者の人であっても、それこそ団塊世代の人たちがこれから我々の親世代になるんですけども「ケアを受けながら仕事もできる」っていう、そういう状態ってやっぱ大事なんじゃないかなと思って。
そういう意味では、「シ高住」っていうのもやってみたいなと思っています。
アッティ
ちょうどね私もお邪魔させてもらったときに、もちろんチョコレートも素敵ではあるんですが、建物もすごいおしゃれじゃないですか。
藤井大輔さん
ありがとうございます。
アッティ
先日お聞きしたら「ベストショップコンテスト」っていうのも取られたそうで。
藤井大輔さん
富山の商工会議所さんが主催されている「ベストショップコンテスト」で、なんとグランプリを取らせていただいて。
アッティ
素晴らしい!
藤井大輔さん
「商工富山」という雑誌の表紙まで飾らせていただいて。
アッティ
今日お持ちいただいていますけど、思いっきり出ていらっしゃいますね。
藤井大輔さん
恥ずかしいぐらいに出させていただいて、本当にありがたいなと。
アッティ
ぜひとも、皆さんも足を運んでいただければと思っております。
富山県内で大好きな飲食店
アッティ
あらゆるゲストの方にお聞きしてるんですが、藤井さんの富山県における、お気に入りの飲食店みたいなものって何かありますか?
藤井大輔さん
居酒屋とかでもいいんですか?
アッティ
全然OKです。
藤井大輔さん
私が好きなのは、桜木町のレストタウンビルっていうところの1階に入ってる「居酒屋ちろり」。
アッティ
ちろり?
藤井大輔さん
「親方」と呼ばれる女性の板前さんがいらっしゃるんですけど、ものすごい美味しいんですよね。
藤井家は、下手すると誰かしらがいるっていうような。
アッティ
藤井家全体でお気に入りなんですね?
藤井大輔さん
藤井家全体で、お気に入りでございまして。
アッティ
特に何が美味しいんですか?
藤井大輔さん
いやもう本当に刺身からおでんとか、タコさんウインナーみたいな。
アッティ
昔ながらのタコさんウインナー、いいですね。
藤井大輔さん
そういうところまでね、いろいろとっても美味しい居酒屋さんですね。
アッティ
惹かれますね。ぜひともご一緒したいなと思います。
藤井大輔さん
ぜひ行きましょう!
アッティ
ありがとうございます。
リクエスト曲
アッティ
それでは最後の最後になりますけれども、ぜひともリクエストの曲をね、ひとつお聞かせいただきたいと思います。
藤井大輔さん
ちょっと恥ずかしいんですけど、恥ずかしいって言ったら変だな、富山のバンドで Melt in Glasgow (メルトイングラスゴー)っていうバンドがありまして、富山大学のバンドなんですけど。
アッティ
富山大学の!?
藤井大輔さん
富山大学の学生さんたちが中心になってやってるバンドなんですけど、その曲をリクエストできればと思います。
アッティ
それは何か繋がりがあるんですか? 富山ということで。
藤井大輔さん
はい、一緒に住んでる息子のバンドなんですけど (笑)
アッティ
(笑) 息子さんがやられてるんですね、なるほど。曲も出されていて? すごい!
藤井大輔さん
一応Spotifyとかそういったストリーミングサービスでは聴けるようになっております。
その中で「Cloudless」って、全く雲がない青空っていう。これは彼が富山に来て、いつも曇天だったところから、真っ青な立山連峰を見て「やっぱりすげえな、富山」って思って作った歌らしいので。
アッティ
息子さん自身がこの曲を作ったんですか?
藤井大輔さん
作詞作曲ボーカルをやってるんです。
アッティ
ボーカルもやってらっしゃって!? お~、素晴らしい!
藤井大輔さん
恥ずかしいんですが、もしリクエストして良いのであれば、ぜひお願いします。
アッティ
どうもありがとうございます。
富山のバンドのリクエストは初めてですので楽しみです。
藤井大輔さん
本当ですか!
アッティ
はい。それでは藤井大輔さんの曲のリクエストということで、 Melt in Glasgowの「Cloudless」になります。
これからの夢や目標について
藤井大輔さんの夢は、芥川賞作家になることです。
80歳くらいで小説を書くために、「今頑張って多くの経験を積んでいる」と言っても過言ではありません。
アッティ
最後の最後になりましたが、藤井さんの方から、これからの夢、目標についてお聞かせいただきたいと思います。
藤井大輔さん
私自身としては「富山県を希望と機会にあふれる富山に」みたいな、いわゆるちょっと議員ぽいような言い方もあるんですけど。
実は僕、芥川賞作家になりたくてですね。
アッティ
やっぱりそういうのあったんですね。
藤井大輔さん
「80歳になったら、ようやく書けるんじゃないか」と思ってまして。
僕は20代の頃「ダ・ヴィンチ」っていう雑誌をやってまして、いろんな作家さん、例えば町田康さんの担当とかをやらしていただいたりしたんですけど、やっぱり天才なんですよ。
その天才には僕は敵わないけども、一生懸命いろんな人の声を聞いていくうちに、80歳ぐらいになったら1本~2本いい小説が書けるんじゃないかと思って。
アッティ
小説だってのがいいですよね。
藤井大輔さん
小説を書きたくて、「そのために今頑張ってる」と言っても過言ではないです。
アッティ
例えば政治家としてとか、障害者施設についての実情とか書くんじゃなくて、小説?
藤井大輔さん
そうなんです、「何か物語を描きたいな」と思ってるんです。
でも今はまだ書けるだけの能力がないので、溜めて溜めて溜めて「自分の経験を上手いぐらいに物語に昇華できたらいいな」と思ってます。
アッティ
80歳というと、政治家もそうですけど、そのあとに「これも、あれも」って極めていくことによって、より深い藤井さんになって素敵な小説ができるかもしれないですよね。すごい良いですね!
藤井大輔さん
熱い小説になればいいなと思っています。
アッティ
楽しみにしております。
今月全4回にわたって藤井さんからお話をいただきました。
われわれにしてみると懐かしいフリーマガジンの「R25」について、そしてまた高齢者福祉事業について、そしてそこから波及してきている障害者支援の久遠チョコレートの話、そして現在務めていらっしゃいます富山県議会議員での活躍ということでお話をお聞きしました。
たくさんの役割がある中で、今後の藤井さんの活躍が非常に楽しみです。
藤井大輔さん
ありがとうございます。
アッティ
今月のゲストは、株式会社アポケアとやまの藤井大輔さんでした。藤井さん、1ヶ月間ありがとうございました。
藤井大輔さん
本当にありがとうございました。
アッティ
この番組のこれまでの放送は、ポッドキャストで聞くことができます。FMとやまのホームページにアクセスをしてみてください。
お風呂の中でのぼせてまいりましたので、そろそろあがらせていただきます。アッティでした。