
こんにちは、アッティです。
「アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!
今回のゲストは、家印株式会社 代表取締役の坂東 秀昭 (ばんどう ひであき) さんです。※2025年4月ラジオ収録
建築家としてだけでなく、空き家再生やまちづくりにも尽力されている坂東さんに、朝日町や建築への思いを伺っていきます!
この記事は、FMとやま 金曜17:15~17:25放送のラジオ「アッティの熱湯とやま人」の編集前データを、ほぼノーカットでまとめたものです。
放送では流れなかった裏話も含め、お楽しみください。
幼少期から建築に出会うまで

坂東秀昭さんの自己紹介
坂東秀昭さんは、朝日町で活動する建築家です。
木造住宅を一貫施工する家印株式会社の代表として、自然素材の建築とまちづくりに情熱を注いでいます。
アッティ
坂東さん、1ヶ月間どうぞよろしくお願いします。
坂東秀昭さん
よろしくお願いします。
アッティ
朝日町から来ていただいたのは、番組史上初めてで。私自身行ったことはありますが、10回も行っていないかもしれませんね。
今回は全5回の放送ということで、朝日町についてもたっぷりお話いただければと思っています。どうぞよろしくお願いします。
坂東秀昭さん
よろしくお願いします。
アッティ
では最初に、簡単に自己紹介と会社紹介をお願いできますか?
坂東秀昭さん
家印株式会社の坂東秀昭です。富山県朝日町を拠点に、建築やまちづくりに取り組んでいます。
なかでも、木の家づくりに魅力を感じていて、木造住宅の設計から施工まで一貫して手がけています。設計には特に思い入れがあり、すべて自分で担当しているのが特徴です。
どうぞよろしくお願いします。
アッティ
木を扱うのが得意な会社なんですね。
坂東秀昭さん
そうなんです。なぜか昔から、木や土、石といった「自然素材」にすごく惹かれるんですよね。見ているだけで飽きないし、癒される感覚があります。
理由ははっきりとは分かりませんが、そういった素材を使って仕事ができることに、すごくやりがいを感じます。
アッティ
なるほど。このあともお仕事のことをたっぷり伺っていきますので、楽しみにしています。
呉服屋の家に生まれて
坂東秀昭さんは朝日町で15代続く呉服屋の長男として生まれ、忙しい両親のもとで着物に囲まれて育ちました。
小さい頃は落ち着きのない少年で、親の勧めで柔道を始めます。
アッティ
現在、朝日町で活動されているということですが、ご出身も朝日町なんですか?
坂東秀昭さん
はい、朝日町の中心部で生まれ育ちました。
実は、うちは代々商売をしている家系で、私は呉服屋の長男として生まれたんです。
アッティ
えっ!? 呉服屋さんだったんですか?
坂東秀昭さん
もともとは米屋から始まり、芝居小屋、用品屋、布団屋などを経て、最終的に呉服屋になりました。
業種は変わりましたが、商家の家系としては15代続いているんですよ。
戦後の混乱も乗り越え、さまざまな商売を続けてきた家系で、私自身は「好きなことをしていい」と言われて育ったので、建築の道を選びました。
アッティ
最初は米屋、次に芝居小屋、そして呉服屋になったんですね。
坂東秀昭さん
途中で用品屋や布団屋もやって、最終的に呉服屋に落ち着きました。
アッティ
ということは、坂東さんの幼少期は呉服屋さんとしての暮らしだったんですか?
坂東秀昭さん
そうです。家とお店がくっついていたので、毎日着物を見ながら生活していました。
当時の朝日町は、着物がとても盛んな町だったんですよ。
アッティ
へぇ、そうだったんですね。
坂東秀昭さん
「担ぎ屋さん」と呼ばれる、戦争で旦那さんを亡くされた女性たちが、着物を風呂敷に包んで全国に売りに出ていました。
朝日町にはそうした卸問屋が何店舗もあったんです。その一つが、うちの「坂東呉服店」でした。
アッティ
そんな中で育った坂東さんの幼少期は、どんな感じだったんですか?
坂東秀昭さん
両親がとても忙しくて、どこかに連れて行ってもらうことはあまりなかったですね。ただ、スタッフのみなさんにかわいがってもらいながら、毎日着物に囲まれて育ちました。
しかし私は、かなり落ち着きのない子どもだったみたいで…。今では想像できないかもしれませんが、「あせぐらしい (落ち着きがない)」って、よく言われてました。
勉強も大嫌いで一切やらず、とにかく暴れ回っていたようです。
それを見た親が「何か向いていることをやらせた方がいい」と、柔道を勧めてくれたんですよ。
柔道漬けの学生時代
坂東秀昭さんは小学5年で柔道を始め、中学では全国トップレベルの強豪校で厳しい練習に打ち込みます。団体戦で無敗を誇る中、大会での大怪我により苦い経験も。
高校・大学でも柔道を続け、将来は柔道を生かした道を模索していました。
アッティ
柔道はいつ頃から始めたんですか?
坂東秀昭さん
興味を持ったのは小学4年生くらいで、本格的に始めたのは5年生からですね。
アッティ
じゃあ、かなり長い間続けてこられたんですね。
坂東秀昭さん
はい、大学を卒業するまでずっと柔道をやっていました。
実は、朝日町って柔道がとても盛んな地域なんです。特に僕の通っていた中学校は、当時、常に全国トップクラスに位置していました。
ただ、その代わりに365日、1日も休みなしの練習生活だったんです。
今だから言えますけど、毎日のように監督の家に泊まり込んで、朝は山頂まで走って、ご飯を丼で3杯以上食べてから登校する生活で…。
学校が終わるとすぐ道場に戻って、また夜の練習があるという毎日でしたね。
アッティ
小・中・高と、ずっとそんな感じだったんですか?
坂東秀昭さん
本格的に取り組んだのは中学校からですね。
小学校の頃は、スポーツ少年団で楽しくやっていました。
アッティ
中学時代は、まさに柔道漬けの毎日だったわけですね?
坂東秀昭さん
そうですね、本当にすごかったです。
休みは一切なくて、上下関係もかなり厳しかったんですよ。でも、そうやってしごかれた経験が、今の自分の土台になっていると実感しています。
アッティ
高校、大学でも柔道を続けられたんですか?
坂東秀昭さん
はい。高校は富山第一高校でキャプテンを務めました。
大学は中京大学の体育学部 武道学科に進んで柔道を続けていました。
その学科は、柔道の指導者を目指すようなコースですね。
アッティ
当時は「柔道に関わる仕事に就きたい」という思いがあったんでしょうか?
坂東秀昭さん
当時は、柔道に関わる仕事に就くことを漠然と考えていましたね。
勉強は本当に苦手で大嫌いでしたし、運動も特別得意というわけではなかったんですけど、体格と力には恵まれていて。中学のときには、すでに体重が100キロを超えていました。
自分には柔道が向いていると感じていたので、その道を伸ばしていこうという気持ちが強かったですね。
アッティ
大会などにも出場されていたんですよね? 成績はどうだったんですか?
坂東秀昭さん
中学時代は、富山県で団体優勝を続けていましたし、北信越でも優勝しました。団体戦では一度も負けたことがなかったんですよ。
でも、全国大会を目指していたある年、大事な試合で膝の靭帯を完全に断裂してしまって…。立ち上がることもできなくなりました。
アッティ
試合中にですか?
坂東秀昭さん
はい。そのとき対戦した相手チームは、そのまま全国2位になったんですが、僕らは予選で当たってしまって…。
僕が試合に出られなくなったことで、チームが敗退してしまったんです。本当に申し訳なくて、悔しい経験でした。
アッティ
団体戦では、それが唯一の敗戦だったんですか?
坂東秀昭さん
そうなんです。あの試合で初めて負けを経験しました。
そのあとしばらくはリハビリの生活が続きましたが、高校2年生からまた柔道に復帰して。高校時代には一度だけですが、当時の高校無差別級チャンピオンを倒すところまでいったこともあります。
ただ僕、本番になるとすごく緊張するタイプで…。本番になるとガチガチになってしまって、なかなか良い成績を残せなかったんです。
練習や練習試合ではかなり強くて、寝技で押さえ込まれて負けるなんてことは、ほとんどなかったんですけどね。
アッティ
その緊張がなければ、結果も違っていたかもしれませんね。
坂東秀昭さん
そうですね、今思えば、メンタル面がまだまだ未熟だったのかもしれません。
アッティ
大学にも柔道で進学されたということですが、その後も柔道は続けられていたんですか?
坂東秀昭さん
はい、大学でも柔道を続けていました。
柔道の先生になるつもりはなかったんですけど、まわりには警察官や機動隊に進む人も多くて。
接骨院などの道もありますし、自分も当時はそういった方向に進むのかなと考えていた時期もありました。
柔道から建築へ
坂東秀昭さんは、日本一を目指して柔道に励む中で大胸筋を断裂。
復帰を断念し、情熱の矛先を建築へ切り替える決意を固めました。
アッティ
呉服屋の家に生まれて、学生時代は柔道に打ち込み、そして今は建築家として活動されているんですね。
その間にどんな転機があったのか、すごく気になります。
柔道から建築へ進まれたきっかけは何だったんでしょうか?
坂東秀昭さん
もともと本気で日本一を目指して柔道に取り組んでいたんです。
でも大学時代、柔道界で“最強”と言われる東海大学との練習試合で、大胸筋を断裂する大ケガを負ってしまって。
オリンピック金メダリストの井上康生さんも同じケガをして、長期離脱を余儀なくされたくらいの大ケガで、試合中に筋肉が「バチン」と切れる感覚がありました。
その瞬間、「もう元のレベルには戻れない」と悟り、柔道で頂点を目指す夢をあきらめるしかありませんでした。
そこで気持ちを切り替え、「次に情熱を注げるものは何か」と考えたとき、前から面白いと感じていた建築の世界に挑戦してみようと決心したのが転機ですね。
アッティ
なるほど、東海大学は有名ですよね。
その試合で負傷した経験が、建築へ進む大きなきっかけになったわけですね。
DIYで芽生えた建築への情熱
坂東秀昭さんは、大学柔道部の荒れた寮をDIYで改装し、建築の魅力に目覚めます。
未経験ながら夢中になって間取りを描き続け、当時放送されていたドラマにも影響され、父に「建築家を志す」と相談しました。
アッティ
その後、どのようにして建築の道へ進まれたんですか?
坂東秀昭さん
きっかけは、大学で柔道部に入ったことでした。
寮が「お化け屋敷」みたいに荒れ放題で、砂壁は崩れ、四畳半の小さな部屋がひとつずつあるだけで、衛生面もひどくて。
それが我慢できず、ホームセンターで材料を買ってきて、自分でDIYして部屋をきれいに改装しました。
やってみると想像以上に楽しくて、そこから「将来こんな家に住みたい」という思いを間取りにして方眼紙に描き始めたんです。
アッティ
もともと図面が描けたわけではないですよね?
坂東秀昭さん
はい、まったくの素人でした。
でも描いているうちにどんどん夢中になり、気づけば夜を徹してスケッチしていました。
ちょうどその頃、木村拓哉さんが若手建築家を演じるドラマが放送されていて、高級車に乗って、おしゃれな教会を設計する姿がすごくカッコよく見えたんです。
単純ですが「ああ、建築家っていいな」となり、それがきっかけで「建築の道に進みたい」と思うようになり、父に相談しました。
アッティ
なるほど、寮のDIYを自分でしたことが、建築の出発点だったわけですね。
第1回から目まぐるしい展開でしたが、ようやく建築家への道筋が見えてきました。
次回は、社会人としてのスタートについて伺っていきます。
家印株式会社を立ち上げるまで

建築の専門学校での学び
坂東秀昭さんは、大学卒業後、坂東さんは東京の建築専門学校へ進学。
デザインコースで3年間学び、作品は常に上位表彰されて、「建築は天職かもしれない」と感じるほど夢中になりました。
アッティ
前回は、幼少期から柔道に打ち込み、日本チャンピオンを目指すも怪我で断念。
その後、合宿先のお化け屋敷のような寮を改装した経験から建築に興味を持ったというお話を伺いました。
坂東秀昭さん
そうですね。
アッティ
大学を卒業されたあとは、どんな道に進まれたんですか?
坂東秀昭さん
東京の専門学校の建築デザインコースで3年間学びました。
大学卒業後に「再び学校に通いたい」と父に相談したところ、「長男として地元に戻ることを約束するなら通わせてやる」という条件を提示されました。
当時はまだ着物も売れていた時代で、どうにか進学を許してもらえたんです。
アッティ
ちなみに、その呉服屋さんは今どうなってるんですか?
坂東秀昭さん
父も母も高齢になり、着物屋は廃業しました。
今はその呉服屋の場所を使って、建築の会社を営んでいます。
アッティ
そうなんですね。
実際に専門学校で建築を学ばれたわけですが、まったく未知の分野だったと思います。
いかがでしたか?
坂東秀昭さん
どハマりしましたね。
本当に楽しくて、毎日夢中になって勉強していました。
世界中の建築家の作品について学びながら、自分でも作品づくりに没頭したんです。
本気で取り組んでいたので、提出した課題は全て1位か2位に選ばれて、表彰もされて。自分にとっては、すごく充実した楽しい時間でした。
アッティ
やっぱり坂東さんって、何かやりたいことが見つかると、ものすごく深く集中できるタイプなんでしょうね。
坂東秀昭さん
そうかもしれません。気づいたら、一直線に突き進でいるタイプですね。
富山の建築会社で味わった挫折
坂東秀昭さんは専門学校卒業後、一流事務所からの誘いもありましたが、父との約束で富山へ帰郷。
富山の地元建築会社に就職しましたが、予算や社風の違いに苦しみ、5年間契約が取れませんでした。
さらに、勤めていた会社が倒産し、大好きだった建築に失望。「ロマンとそろばん」といわれる理想と現実のギャップに苦しむ日々を送りました。
アッティ
専門学校は3年制だったんですね?
坂東秀昭さん
3年制のコースでした。
ただ、当時ちょっと勘違いしてしまって、「自分には才能があるんじゃないか」と思い込んでしまったんですよ。
「もしかしたら、自分って天才なんじゃないか」って (笑)
実際、空港の設計を手がけるような一流の建築事務所からオファーをいただいて、「この仕事をやっていきたい」と強く思いました。
でも、父との約束があったので、富山に戻って、父の知り合いの建築会社に就職したんです。
アッティ
東京で学ばれて、そのまますぐ富山の建築会社に戻られたんですね。
実際に働いてみて、いかがでしたか?
坂東秀昭さん
学生時代に思い描いていた「やりたいことができる世界」とは、まるで違いましたね。
現場では予算の制約もあるし、お客様や会社の方針に合わせる必要もある。自分のやりたいことが全然できなくて、本当にストレスでした。
学生の頃は、自由に設計できて、相手もいないしお金の制約もない。でも現実はそう甘くなくて、すごく厳しかったです。
会社も当時は毎年のように赤字を出していて、私自身も5年間勤めた中で、1件も契約を取れませんでした。
補佐として設計を手伝うことはあっても、自分に依頼が来て制約した案件はゼロ。正直、能力のない社員として足を引っ張っている状態だったと思います。
アッティ
ということは、その5年間は売り上げゼロだったということになりますか?
坂東秀昭さん
はい。補佐として設計の手伝いはしていましたが、私が直接受注して契約につながった仕事は、本当に1件もありませんでした。
アッティ
なるほど。
坂東秀昭さん
今振り返ると、「ロマンとそろばんの違い」ってあるんですよね。その会社はロマンばかり追いかけていて、仕事自体はあったけど、建てれば建てるほど赤字になるような状況でした。
会社が持ち出しで資金を補填して、なんとか家を完成させる。でも、利益はまったく残らない。そのうち借金が膨らみ、社内の空気も悪くなって、上司同士が喧嘩してるような場面も増えて。
そんな姿を毎日見ているうちに、かつて夢中になって図面を描くほど好きだった建築が、すごく嫌になってしまったんです。
アッティ
その会社は、最終的にどうなったんですか?
坂東秀昭さん
社長が夜逃げして、社員全員がいきなり仕事を失うという結末でした。
アッティ
そうだったんですね…
ちなみに、社会人になるときに「いずれは経営者に」みたいな思いってあったんですか?
坂東秀昭さん
はい。「いつかは自分で事務所を立ち上げたい」という夢は、ずっと持っていました。
アッティ
なるほど。独立への想いは、当初からあったわけですね。
寿司屋からの奇跡の依頼
坂東秀昭さんは、寿司屋の女将から「失敗してもいいから弟の家を設計して」と頼まれたものの、過去の挫折が影響し最初は断りました。
しかし熱意ある再三の依頼に心を動かされ、アルバイトとして寿司屋の弟さんと共に設計に関わることに。
家が完成すると大変喜ばれ、感謝の言葉をもらったことで、建築への情熱が再び芽生えました。
アッティ
会社の倒産後はどのように動かれたんですか?
坂東秀昭さん
一度は建築自体が嫌になり、フリーランスでアルバイトなど様々な仕事をしていました。
そんな時、地元のお寿司屋さんが「学生の頃、建築を楽しそうに話してたよね」と声をかけてくれて、「弟が家を建てるから、設計してみない?」と誘ってくれたんです。
アッティ
その寿司屋さん、すごいですね!
坂東秀昭さん
でも僕、「挫折した人間には無理です」と断ったんです。
そしたら、「失敗してもいいからやってみなよ!」と言ってくれて…。その言葉にすごく驚きました。
アッティ
その方にとっても大切な家なのに、すごい信頼ですね。
坂東秀昭さん
だからこそ、最初は「自分には無理です」と断ったんです。まだ見習いの身で、会社もあんな状態でしたから。
でも後日、お寿司屋さんの女将さんから「あなたにやってほしい」と改めて声をかけていただいて。
本当になぜそこまで手を差し伸べてくれたのか、今でも本当に不思議なんですけど…。でも、あそこまで言ってもらえたからには「やらせてください!」とお受けすることにしました。
当時はアルバイトという立場でしたが、弟さんと一緒に設計を進め、家を完成させたんです。
アッティ
すごい展開ですね!その家、どうだったんですか?
坂東秀昭さん
「あなたに頼んで本当によかった」と喜んでもらえて、自分の理想を形にしたものが人の幸せに繋がることを実感できたんです。
その後もリフォームの相談をいただいたりと、20年以上経った今でもお付き合いが続いています。
この経験をきっかけに「もう一度、建築の仕事にチャレンジしたい!」という想いが湧き上がり、会社を立ち上げる決意をしました。
会社経営の知識もなく、建築もまだ見習いの段階でしたが、とにかく「想い」だけを頼りに、無計画なまま会社を興したんです。
アッティ
やっぱり、あのお寿司屋さんの存在が大きかったんですね。
坂東秀昭さん
本当にそう思います。あの方がいなければ、今の僕は存在していなかったと思っています。
アッティ
「なぜ自分に頼んでくれたのか」って聞かれました?
坂東秀昭さん
聞いたんですが、理由は教えてもらえなかったんです。今は、その方は亡くなられていて…。
アッティ
そうだったんですね。
坂東秀昭さん
だからこそ、あのときの言葉や気持ちは今でも忘れられません。
アッティ
まさに、「人生の転機」でしたね。
坂東秀昭さん
本当にそう思います。
「失敗してもいいからやってごらん」なんて言ってくれる人、なかなかいないですよね。
あの出来事は、今でも「奇跡だった」と感じています。
アッティ
普通に考えたら、アルバイトに家の設計を任せるなんて考えられないですよね。
坂東秀昭さん
僕も、そんな話聞いたことないです (笑)
アッティ
でも、それだけ坂東さんに何か感じるものがあったんでしょうね。
坂東建築設計室の誕生
坂東秀昭さんは、寿司屋の案件をきっかけに「もう一度、建築で勝負しよう」と決意。
資金ゼロの状態で、自宅の寝室にパソコン2台を並べ、坂東建築設計室を立ち上げました。
その後の9年間は借金に苦しみながらも建築への情熱を絶やさず、裏方として地道に経験を積み重ね、自立への道を切り開いていきました。
アッティ
寿司屋の設計が、坂東建築設計室に繋がるわけですね。立ち上げは、お一人で?
坂東秀昭さん
そうです、全く資金がなかったので、自宅の寝室でパソコン2台を並べてスタートしました。
アッティ
会社の立ち上げは、やっぱり大変だったんじゃないですか?
坂東秀昭さん
実は、会社を興してからの方がずっと大変でした。
最初の9年間は全く上手くいかなくて…。
アッティ
9年間も…、それは長いですね。
坂東秀昭さん
そうなんです。借金がどんどん膨らんで、親にすべて面倒を見てもらっている状態が続きました。
長男なのに38歳になっても自立できず、親からも「そろそろ会社勤めして家にお金を入れてくれ」と言われるような状況で、正直、苦しかったですね。呉服屋も売れない時代に入っていましたし…。
アッティ
それでも、建築を諦めなかったんですね。
坂東秀昭さん
一度ハマってしまったら、やっぱり諦めきれなかったんです。
ただ、冷静に考えてみると「失敗してもいい」と言ってくれる人は本当に奇跡的な存在で。
当時は、知名度も実績もない、ただの見習いのような立場のまま会社を立ち上げた状態。数千万円規模の建築を、そんな僕に頼む人なんて誰1人いなかったんですよね。
アッティ
確かに、家って人生に一度の大きな買い物ですしね。
坂東秀昭さん
そうなんです。だから誰も僕に直接仕事をくれず、工務店さんや住宅メーカーさんの下請けとして、裏方で設計だけを担当していました。
名前も出ず、契約が成立しなければ報酬も出ないような働き方でした。
アッティ
それは本当に大変だったでしょうね…。
坂東秀昭さん
立場が弱いので、「今回は予算が少ないから、報酬は2割カットで」とか、「支払日前に1割削ってくれ」なんて連絡が来ることもしょっちゅうで…。
でも、仕事を選べる立場でもなかったので、とにかく全て受けていました。経費を払ったら手元に何も残らない。そんな日々が続いて、借金ばかりがどんどん膨らんでいったんです。
今思えば、経営の知識もなかったし、能力も足りていなかった。でも、それも全部「勉強代だった」と、今では感謝しています。
あの経験のおかげで、自立できたので。
アッティ
なるほど…。その苦労が、今の家印に繋がっているんですね。
このお話の続きは、また改めてじっくり伺いたいと思います。
さて、次回は少し視点を変えて、坂東さんが拠点を構える「朝日町」についてお話を伺ってまいります。
富山県内でもまだあまり知られていない魅力がたくさんある町ですので、ぜひ楽しみにしていてください。
朝日町の挑戦と未来

朝日町の現状と挑戦
坂東秀昭さんが拠点を置く富山県朝日町は、「消滅可能性都市」とも言われ、高齢化と若者の流出が深刻。
出生数は坂東さんが生まれたころと比べると約8分の1にまで減少しており、急激な過疎が進行している危機的な状況となっています。
アッティ
ここまで、幼少期から大学を卒業して社会に出て、起業に至るまでのお話を伺ってきました。
今回は少し話題を変えて、坂東さんが拠点を構えている「朝日町」についてお聞きしたいと思います。
少し時期は遅れましたが、「春の四重奏」などの取り組みなどもあって、最近注目されているエリアですよね。
一方で、「消滅可能性都市」とも言われていますが、そんな朝日町には、今どんな課題があると感じていますか?
坂東秀昭さん
朝日町は、富山県内で最初に「消滅可能性都市」と言われた町なんです。
高齢者が人口の半分を占めていて、企業も少ないので、若者がどんどん町を離れてしまっています。
出生数もかなり減っていて、私が生まれた頃と比べると、今はおよそ約8分の1まで減少しているんです。
アッティ
8分の1…それはかなり深刻ですね。
坂東秀昭さん
私の時代は、同級生が275人いたんですが、今は同じ世代で生まれる子どもが30人にも満たない状況です。
今年、妻との間に子どもが生まれたんですが、その月に生まれたのは、うちの子1人でした。そして翌月はなんと0人だったんです。
それくらい急激に過疎が進んでいます。
地域と住民が育む未来
アッティ
坂東さんは朝日町で生まれ育ち、今もそこで活躍されていますよね。
町としても、当然その現状を放っておくわけではなく、いろいろな取り組みをされていると思います。
現在、朝日町が特に力を入れていることはどんなことなんでしょうか?
坂東秀昭さん
朝日町は今、「デジタルの力」を活用した地方創生に取り組んでおり、全国からも先進的な事例として注目されて、視察に来る方も増えています。
また、「子育て日本一」を掲げて、子育て環境の整備にも積極的に取り組んでいるんです。
企業誘致にも力を入れていますが、特に「教育」に対しては、町全体として強い思いを持って取り組んでいる印象があります。
アッティ
なるほど。視察が来るほど注目されているという「デジタル」の取り組み、具体的にはどんなことをされているんですか?
坂東秀昭さん
いくつかありますが、特にすごいのは、コロナ禍になる前から子どもたち一人ひとりにタブレットが配布されていて、すでにオンライン授業ができる体制が整っていたことですね。
アッティ
本当ですか!? それはすごいですね!
坂東秀昭さん
はい。コロナが始まってすぐにオンライン授業へ切り替えることができました。
アッティ
ということは、全国で問題になっていた「空白の7ヶ月間」みたいな期間もなく、すぐに学習を継続できたわけですね。
坂東秀昭さん
そうなんです。それ以外に、「ノッカル」という取り組みもあります。
これは地域の方々がボランティアで車を出して、高齢者を行きたい場所に送り届けたり、子どもたちをいろんな場所へ連れて行って学ばせるという活動です。
その延長線上に「みんまなび」という仕組みもあって、地域の塾や、多様な大人たちから学べるような学習環境も整えられています。
アッティ
かなり進んでいますね!
坂東秀昭さん
さらに、マイナンバーカードの普及率も非常に高くて、全国でもトップクラスだったと記憶しています。
最近では、マイナンバーカードを使って買い物ができるような取り組みも始まっていて、本当に最先端を走っている町だと思います。
すべてを把握しているわけではありませんが、小さな町だからこそできるスピード感もあるんだと思います。子どもの数も少ないですし、行政の意思決定が早いというのも一因ですね。
アッティ
まさか富山県内に、ここまで進んでいる町があるとは驚きです。
「ノッカル」や「みんまなび」もそうですが、まさに国や自治体がこれからやろうとしていることを、すでに先駆けて実現している印象ですね。
坂東秀昭さん
過疎化が急速に進んだ分、町としての危機感も大きかったんだと思います。
「消滅する」と言われたことが引き金になって、一気に様々な挑戦がスタート。その積み重ねが、今の朝日町の動きにつながっていると感じます。
アッティ
もちろん、町長さんのリーダーシップもあると思いますが、住民の理解がなければこうした取り組みは進まないですよね。
住民の皆さんの反応はどうですか?
坂東秀昭さん
そうですね、最初はやはり理解を得るのが難しい部分もありました。
でも、行政をはじめ関係者の皆さんが本当に一生懸命取り組んでくださったおかげで、少しずつ受け入れられて、じわじわと広がっていったという感覚がありますね。
もちろん、新しいことを始めると不安や不満も出てきますが、それをひとつひとつ丁寧に乗り越えてきたことで、今のような前向きな変化が生まれているんだと思います。
企業誘致と移住の可能性
朝日町では視察や移住希望者が増加し、企業誘致やワーケーション拠点の整備が進んでいます。
古民家の活用やウニ養殖場「ウニノミクス」の誘致により、雇用創出も実現。「自然」と「利便性」のバランスが評価され、訪れる人々から好評を得ています。
アッティ
県外から移住する人だけでなく、さまざまな方が朝日町を訪れる流れができているような気がします。
そのあたり、いかがですか?
坂東秀昭さん
そうですね。実際に視察に訪れる方はかなり増えてきています。
以前は行政が無料で対応していたんですが、件数が多すぎて対応しきれなくなってしまい、今では1回1万円で有料化しましたが、それでも問い合わせが絶えない状態だそうです。
アッティ
企業の進出や誘致だけでなく、ワーケーションなど多様な形で人の流れが生まれている印象がありますが、そのあたりはどうでしょうか?
坂東秀昭さん
まさにおっしゃる通りです。
私自身、朝日町で11年ほど地域貢献活動を続けてきましたが、人口減少の一番の要因は「企業がないこと」だと感じています。
若い人たちにとって、働く場所の選択肢が少ないというのは致命的なんです。
だからこそ、企業との関係性を深めながら、朝日町に拠点を持ってもらえるような働きかけを続けてきました。
行政も「ウニノミクス」さんのような事例を通じて積極的に動いています。
アッティ
ウニノミクス、あのウニの養殖ビジネスですね。
坂東秀昭さん
そうです。2026年5月には、朝日町では日本最大級のウニ養殖場ができる予定です。
それとは別に私自身も、美しい景観や古民家など、町の魅力を活かして企業に提案しています。
実際に、企業が古民家を購入してリノベーションし、拠点として活用する事例も出てきました。
地域にあるものを活かして企業を誘致することで、雇用も生まれますし、町にとっては大きなチャンスになると考えています。
アッティ
実際に訪れた企業の方々やワーケーションで来られた方たちは、朝日町にどんな印象を持っているんでしょうか?
坂東秀昭さん
皆さん、本当に喜んでくれています。私自身もあらためて気づかされたんですが、富山県って景色が本当にきれいなんです。
地元の人には当たり前に感じられている自然も、外から来た人にはすごく新鮮に映るようで。朝日町は海も山も近く、水も豊かで、井戸を掘れば、まるで噴水のように水が吹き上がるんですよ!
アッティ
いいですね~!
坂東秀昭さん
利便性もそれほど悪くないですし、「気がいい」というか、行くだけで気持ちがスッと晴れるようなエリアもあるんです。これは町にとって大きな財産だと思っています。
ただ、地元の方からは「海の近くは塩害がある」「津波や高潮が心配」といった声もあります。
でも実際には、ハザードマップで見ると津波のリスクは非常に低くて、仮に震度7の地震が起きたとしても、最大で50cm程度の浸水とされている場所なんです。
もちろんリスクがゼロではないですが、そこを理解した上で企業に説明して誘致を進めています。
最近では、富山市にある「アンダス」という企業が、全国の起業家を集めて研修やワーケーションを行う拠点施設を朝日町に建設し、投資もしてくれました。
木造建築の美しい建物で、目の前には海のパノラマが広がっていて、宿泊や交流、学びの場として機能しています。
こうした動きが、これからもっと広がっていくと感じています。
朝日町の魅力とこれから
朝日町では視察や土地購入を希望する人が増えており、特に東京など都市部からの関心が高まっています。
地元産メロンを使ったカフェや「四重奏」などの話題性も後押しとなり、町を訪れる理由が少しずつ広がる中、移住者による店舗開業など、地域にも新たな変化が現れ始めているところです。
アッティ
まだまだ、旭町には施設を建てる余地はたくさんあるんでしょうか?
坂東秀昭さん
はい。あまり大々的には言えませんが、最近は視察や土地探しのご相談をいただくことが増えてきています。
何件かご案内するうちに、「この辺で土地を買いたいので探してもらえませんか?」といった声をいただくこともあるんです。
こうしたご相談は、富山県内の方というよりも、東京など都市部の方が多いんですよね。普段なかなか絶景に触れる機会がない分、自然のある暮らしに対して強い憧れをお持ちのようです。
アッティ
私たち富山県民にとっても、あらためて朝日町の魅力を再認識させられるお話ですね。
地元にいると慣れてしまって気づきにくい部分もあるかもしれませんが、訪れる「きっかけ」をつくっていくことが、今後ますます大事になってきそうですね。
坂東秀昭さん
本当にそう思います。今までは「わざわざ訪れる理由」が少なかっただけかもしれません。
たとえば「四重奏」も、昔は地元の人たちだけが楽しんでいたものですが、メディアに取り上げられてから一気に知名度が上がり、全国から人が来るようになりました。
最近では、ヒスイテラスに地元産のメロンを使ったカフェがオープンしたりして、町を訪れるきっかけが少しずつ増えてきています。
さらに、移住してお店を開いてくださる方も出てきていて、地域にも徐々に変化が表れてきていると感じています。
アッティ
「四重奏」だけでなく、そこから他のエリアにも人の流れが生まれると、もっと面白くなりそうですね。
今日は朝日町について、たっぷりお話を伺いました。ありがとうございます! ますます実際に足を運んでみたくなりました。
次回は話題を戻して、坂東さんが家印株式会社として現在取り組まれている活動や、そこに込めた想い、価値観についてお聞きしていきたいと思います。
朝日町での取り組み

坂東建築設計室の立ち上げと苦労
坂東秀昭さんは設計専門の個人事務所を9年間運営する中で地域の信頼を得て、設計から施工まで対応できる「家印株式会社」を設立。
「家に印」と書いて“やじるし”と読む社名には、幸せな家の印を地域に広げ、皆で同じ方向に進むという思いが込められています。
アッティ
先週は少し話を逸らして、生まれ故郷であり、現在もご活躍されている朝日町について伺いました。
今回は話を戻して、第2回でお話しいただいた「坂東建築設計室」の立ち上げから、およそ9年間なかなか業績が伸びずに苦しんだ時期、そしてそこから現在の「家印株式会社」へとつながっていく経緯について、お聞かせいただけますか?
坂東秀昭さん
はい。9年間、個人事務所として「坂東建築設計室」をやっていたんですが、最初の頃はなかなかうまくいかなくて。
ただ、その中でも地域貢献をコツコツと続けていくうちに、少しずつ地域の方々からの信頼を得られるようになってきたんです。
もともとは設計専門の事務所だったんですけど、「リフォームをお願いできないか」とか「工事までやってもらえないか」といった声をいただくようになってきて。
それなら「地域のニーズにもっと幅広く応えられる会社にしよう」ということで、設計から施工まで一貫して対応できる体制を整え、「家印株式会社」を立ち上げました。
はい。9年間個人事務所をやっていて、最初はなかなかうまくいかなかったんですが、地域貢献を地道に続けていく中で、少しずつ地域での信用・信頼が積み重なっていきました。
もともとは設計だけを行う事務所だったんですけど、地域の方から「リフォームしてもらえないか」とか「工事もお願いできないか」といった声をいただくようになってきたので、「地域のニーズに応える会社にしよう」となりました。
それで、設計から施工までできる会社として「家印株式会社」という会社を立ち上げたんです。
アッティ
なるほど。
坂東秀昭さん
会社名の「家印(やじるし)」は、“家に印”と書いて“やじるし”と読みます。
「みんなで同じ方向を向いて一丸となって進む“矢印”」という意味と、「幸せな家の“印”を地域に点在させることで、地域全体の幸せにつなげていく」という想いを込めて名付けました。
実は、最初は「無印良品のパクリみたいじゃないか」って思って、僕はこの名前に反対してたんです (笑)。
でも、社員みんなで名前を出し合って、候補をいくつかFacebookに投稿してみたら、「家印」が圧倒的に支持を集めて。「やっぱりいい名前だよね」ってことで、最終的にこの名前に決まりました。
アッティ
なるほど。名前だけでなく、設計から施工まで一貫してできる会社に生まれ変わったということなんですね。
坂東秀昭さん
そうですね。
アッティ
「家印」って、本当にいい名前ですよね。
坂東秀昭さん
ありがとうございます。
アッティ
私はあまり「無印」っぽさは感じませんでしたけどね。
坂東秀昭さん
そう言ってもらえると嬉しいです。結局、私の思い過ごしだったのかもしれませんね。
今では多くの方から「いい名前だね」と言っていただけてます。
アッティ
すごく素敵な名前だと思います!
地域貢献活動と空き家活用
坂東秀昭さんは仕事のない時期、自らの信用不足を痛感し、空き家活用などの地域貢献を通じて信頼を築きました。
朝日町への想いは活動を重ねる中で芽生え、地域に必要とされる存在を目指して「家印株式会社」を設立。今では「地域に愛される会社づくり」が理念となっています。
アッティ
現在、家印が取り組んでいる活動というのは、基本的には朝日町を中心に展開されているんですよね?
坂東秀昭さん
地域活性化やまちづくりなどは朝日町で取り組ませてもらっていますが、仕事自体は朝日町に限らず、富山市から朝日町までの呉東エリア全域でやらせていただいています。
今も、富山市で新築のご依頼をいただいたり。
アッティ
地域貢献を通じて信頼を得てきたということですが、具体的にはどのようなことをされてきたんですか?
坂東秀昭さん
正直に言うと、当時は本当に仕事がなかったんです。
「どうすれば仕事がもらえるんだろう」と悩んで考えたときに、自分には圧倒的に「信用」「信頼」が足りないということに気づいたんです。
建築って、何千万という大きなお金が動く世界ですから、信頼がなければ依頼なんて来ない。だったらまずは、地域貢献を通じて「自分を知ってもらうこと」が大切だと思いました。
でも、お金がなかったので、自分の時間と体を使って何かできることはないかと考えたんです。
その中で、自分の知識や経験を活かして取り組めるのが「空き家の活用」だったので、最初はそこからスタートしました。
アッティ
「空き家」ですか。
坂東秀昭さん
当時、朝日町では空き家の利活用件数が年間で1桁、多くても5件以下。ひどいときにはゼロ、という状況だったんです。
「それを何とかしたい」と思って、行政と連携して4年間取り組んできました。行政が主体的に頑張ってくれたおかげもあって、「利活用ゼロ」の年をなくすことができたんです。
その取り組みを通じて、移住や企業誘致のサポートにも関わるようになり、地域の方々にも少しずつ顔を覚えてもらえるようになっていきました。
おじいちゃんおばあちゃんに「がんばってるね」「応援してるよ」って声をかけてもらえたり、町長からも冗談交じりに「お前は救世主だ、頑張れよ!」なんて言ってもらったりしてるうちに、僕も、いい意味でちょっと調子に乗っちゃって (笑)
そうやって励ましてもらいながら、だんだんと「本気でこの町を良くしていきたいな」って思うようになったんです。
最初の頃は「仕事をもらうための地域貢献」だったんですけど、朝日町に関わっていくうちに、5年くらいかけて少しずつ自分の気持ちが変わっていきました。
アッティ
ということは、大学を卒業して富山に戻ってきた当初は、まだ「朝日町のために何かしたい」という気持ちはそれほどなかったんですか?
坂東秀昭さん
はい、正直あまりなかったですね。
「こんな建築をやりたい」「こんな自分になりたい」という利己的な想いが強かったです。若かったですから。
アッティ
「朝日町のために」と思うようになったのは、家印を立ち上げた頃からなんでしょうか?
坂東秀昭さん
そうですね。家印を立ち上げた頃から、少しずつそういう気持ちが芽生えてきました。
いろんな人に支えてもらって、今の自分があると気づいたんです。
町を支えてきた人たちがいたからこそ、今こうして仕事ができて、幸せに暮らせている。 だったら「自分も、この町に貢献できる会社を作ろう」と。
「地域に愛される、いい会社を作りたい」という思いが、家印の理念にもなっています。
アッティ
なるほど。建築って、まちづくりと密接に結びついていますもんね。
町が良くならないと、建築も増えないですし。
みらいまちラボの立ち上げ
空き家活用や移住支援に取り組む中で限界を感じた坂東さんは、テレビ番組で藤野氏に感銘を受け、粘り強くアプローチ。
朝日町を案内し共感を得て「みらいまちラボ」を立ち上げ、日本全体を良くする活動へと広げました。
アッティ
建築とまちづくりって、密接に結びついていますよね。町が良くならないと建築も増えませんし。
そんな中で「朝日町のために」という想いが強くなってきて、その一環として「みらいまちラボ」を立ち上げられたとお聞きしましたが、その経緯を教えてもらえますか?
坂東秀昭さん
空き家の活用はある程度成果が出て、コミュニティづくりや移住のサポートなどにも取り組んできました。
でも、「このまま自分たちだけで頑張って地域を良くできるのか?」と考えたとき、正直、限界を感じたんです。
自分たちの力だけでは難しいんじゃないかなと。
アッティ
なるほど、自分たちだけでは限界があると感じたわけですね。
坂東秀昭さん
そうなんです。「どうすればこの町をもっと良くできるのか?」「どうやったら企業が来て、若者が働けるようになるのか?」「移住者を増やすにはどうしたらいいのか?」
そんなことを真剣に考えていたとき、たまたまテレビ番組『カンブリア宮殿』で藤野さんの回を見たんです。
アッティ
あの藤のさんですね。
坂東秀昭さん
そうです。藤野さんは富山県出身で、その放送回が特にインパクトが強くて、評判も良かったんですね。
私もそれを見てすごく感化されて、「この人と組んだら何か起こせるかもしれない。可能性があるんじゃないか」と思ったんですよ 。
それでFacebookで藤野さんを見つけて、Messengerで「朝日町に遊びに来てください」とメッセージを1年〜1年半くらい、送り続けました。
講演があると聞けば、名刺を持っていって「坂東です。ぜひ朝日町に来てください!」って直接お願いしたりもしましたね。
アッティ
なかなかの情熱ですね。ストーカー並みじゃないですか (笑)
坂東秀昭さん
そうなんです (笑)。でも、全然来てくれなくて…。
そこで、「源」の鱒寿司の社長さんや、朝日印刷の当時の社長、格闘家の小路さんなど、富山で活躍する経営者の皆さんに集まってもらって、「藤野さんが富山に来るついでに、朝日町に立ち寄っていただけないか」と段取りしました。
それで、ようやく来ていただけました。
アッティ
だいぶ強引に連れてこられたんですね (笑)
坂東秀昭さん
はい (笑)。朝日町を案内させていただいて、最後に1対1でプレゼンをさせてもらいました。
「朝日町の未来、家印の未来」について本気の想いを伝えたところ、「そこまで言うなら一緒にやろう」と言っていただいて、「みらいまちラボ」が誕生したんです。
アッティ
まさに「日本を元気にしよう」という想いから始まったわけですね。
坂東秀昭さん
そうなんです。僕は最初「朝日町のために」とばかり言っていたんですが、藤野さんに「それじゃ全国から人は来ないよ」と言われて。
「朝日町から富山、そして日本を良くする。みんなにメリットがあるからこそ、いろんな人が混ざって交流が生まれ、可能性が広がる」と教えてもらいました。
その言葉に納得して、今では朝日町に限らず、さまざまな市町村でイベントを行いながら、「日本を良くする」という思いで活動しています。
地方創生への取り組み
みらいまちラボでは、全国の地方創生の成功事例を学ぶ勉強会や視察を行い、参加者同士が交流することで協業や地域連携が自然と生まれる場を提供しています。
朝日町は、行政も新しい取り組みに積極的で、実験的な取組を進めているところです。
アッティ
みらいまちラボでは、具体的にどんな活動をされているんですか?
坂東秀昭さん
全国の地方創生の成功事例を実践している方をお招きして、勉強会や視察を行っています。
その後、公民館などで料理を持ち寄って宴会を開いたりして、「混ざる」ことを大切にしているんです。
アッティ
「混ざる」ことによって、新しい動きが生まれているんですね。
坂東秀昭さん
そうなんです。 いろんな人たちが協業して事業を起こしたり、町と連携してプロジェクトが始まったりと、表には出ていませんが、いろんな変化がたくさん生まれています。
アッティ
参加されているのは、富山県内の方が中心なんですか?
坂東秀昭さん
富山県内の方も多いですが、北海道から沖縄まで全国各地から参加者が集まってくれています。
地方創生に関心がある方や、何か挑戦したいという思っている方々が来てくれていて、本当に面白いですよ。
アッティ
全国の成功事例を学ぶだけでなく、交流を通じて全国の人たちがつながり、それぞれの地域にその成果を持ち帰って、日本全体が良くなっていく。
まさに「みらいまちラボ」ですね。
坂東秀昭さん
そうなんです。
アッティ
家印もそうですが、坂東さんご自身が、今では「朝日町に欠かせない存在」になってらっしゃいますね。
坂東秀昭さん
ありがとうございます。行政もすごく前向きでに取り組んでくれていて、例えば博報堂さんと組んだプロジェクトが実現したりと、みらいまちラボを通じていろんなものが形になってきました。
こちらから企画を持ち込んだ時に、「やってみよう」とチャレンジしてくれる行政には本当に感謝しています。
アッティ
先週もお話に出ましたが、「デジタル子育て」や「マイナンバーカードの実証実験」など、他ではあまり聞かないようなことにも取り組まれていますよね。
坂東秀昭さん
はい。他の自治体ではなかなか難しいことでも、「とりあえずやってみよう」という姿勢で挑戦できる。それが朝日町の面白さであり、可能性だと思っています。
アッティ
行政も、住民も、起業家も、みんなが連携して町を良くしようとしている。本当に素晴らしい取り組みですね。
今回はここまでとさせていただきます。次回は最終回の、第5回です。
ふるさと富山への想いや、これからの夢についてお話を伺いたいと思っています。
富山への想い&オススメ店&リクエスト曲

ふるさと富山への想い
坂東さんは、富山の持つ魅力や可能性に改めて気づき、朝日町を拠点に地域づくりのモデルを構築中。
食や自然、暮らしやすさといった富山の価値を宝物に変え、多くの人の幸せを広げ、次世代へとつないでいくことを目指しています。
アッティ
いよいよ最終回となりました。改めて、どうぞよろしくお願いいたします。
ここまで、生い立ちから始まり、現在の活動、特に「家印株式会社」としての取り組みについてお話を伺ってきました。
最後に、ふるさと富山についての想いを少し語っていただけますか?
坂東秀昭さん
これまでいろんな活動をしてきて、あらためて「自分は富山のことが本当に好きなんだな」と実感するようになりました。
若い頃は、正直そこまで思えていませんでした。でも、各地で富山を良くしようと頑張っている仲間たちと出会って、親しくなる中で、「富山って本当に素晴らしいところだな」って自然と感じるようになったんです。
当たり前だと思っていたことが、実はすごく価値のあることだったんだと気づくようになって。
富山って、食べ物がおいしいし、景色がきれいだし、住みやすくて安全だし、いいところが本当にたくさんあるんですよね。
それを「宝物」に変えていくことが、自分たちの役割なんじゃないかと感じています。
今はまず、朝日町でいろんなモデルづくりに取り組んでいますが、いずれは富山全体、そしてその先まで広げていきたいと思っています。
「幸せになる人をどれだけ増やせるか」が、ひとつのテーマであり、企業の存在意義とも重なる部分だと思うんです。
つまり、「幸せの“パイ”をいかに広げていくか。」
これは、僕自身の生きる意味でもあって、どれだけ多くの人を笑顔にし、幸せにできるかってこと。そして、その状態を次の世代にしっかり引き継いで、さらに発展できるような形を作ること。
それが、自分の目標だと思っています。
アッティ
なるほど、ありがとうございます。
まさに朝日町を起点に、富山、そして全国へと幸せを広げていくような活動をされているのが、坂東さんの目指す姿なんだなと、改めて感じました。
富山県内で大好きな飲食店
アッティ
お気に入りの飲食店を一つ挙げていただけますか?
朝日町に限らなくても構いませんので、自由に教えてください。
坂東秀昭さん
そうですね、一店挙げるとすると、事務所の近くに「さくらずし」さんというお寿司屋さんがあります。
カウンターだけの、8席くらいのとても小さなお店なんですが。
アッティ
さくらずしさん。
坂東秀昭さん
とにかく良心的で、毎回いろんな美味しい料理を出してくれるんです。同じものが出てこないというか、毎回違うものを考えて出してくれるんですよ。
つらい時期に何度も助けられましたので、今でも会社でよく注文して、みんなで食べています。
富山には、このように良心的で、しかも美味しい料理を提供してくれるお店がたくさんあるんですよね。
本当はもっと紹介したいお店がいっぱいあるんですが、あえて一つ選ぶなら、やっぱり「さくらずし」さんですね!
本当にありがたい存在で、感謝しています。
アッティ
なるほど、ありがとうございます。
毎回出てくる料理が違うというのは、おまかせで頼まれているということなんでしょうか?
坂東秀昭さん
そうですね。あとから聞いた話なんですが、「毎回なんで違う料理が出てくるんだろう?」と思っていたら、実は全部メモしてくださっているらしくて。
アッティ
それはすごいですね!
坂東秀昭さん
そうなんですよ。絶対被らないようにしてるということで。
アッティ
前回はこれを出した、というのを把握しているんですね。
それって本当に素晴らしいですね。
坂東秀昭さん
そうなんです。お客さんへの配慮というか、思いやりというか。
アッティ
本当に、いいですね。
坂東秀昭さん
すごいなと思います。
アッティ
素晴らしいお話、ありがとうございます。ぜひ一度伺ってみたいと思います!
リクエスト曲
アッティ
お気に入りの飲食店に続いて、坂東さんの大好きな曲を一曲、リクエストいただけますか?
坂東秀昭さん
はい。僕のリクエスト曲は、坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」です。
アッティ
その曲を選ばれた理由は?
坂東秀昭さん
学生の頃からずっと、建築の勉強をしながらとか、図面を描いているときなどによく聴いていたんです。
音の流れがとても好きで、すごく癒されるんですよね。
「こんなすごい曲を作った人がいるんだ」って、いつも感動していました。今でも聴くたびに、心に響くというか、感動できる曲だなと思っています。
アッティ
なるほどなるほど、わかりました。
それでは坂東さんのリクエスト曲で、坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」です。
これからの夢や目標
坂東さんは2025年に子どもが生まれ、家族と共に新たな生活をスタート。
仲間と共に拠点を築き、美しい環境を整備する中で、朝日町から軽井沢のような奇跡を起こし、富山全体へと幸せを広げて次世代へつなぐことを夢として掲げています。
アッティ
それではいよいよ最後の質問です。
先ほども少し触れていただきましたが、改めて、これからの坂東さんの夢や目標について教えていただけますか?
坂東秀昭さん
はい。実は今年の1月に子どもが生まれまして。
アッティ
それは、おめでとうございます!!
坂東秀昭さん
ありがとうございます。結婚が少し遅かったので、「一生結婚できないかも」と思っていた時期もあったんですが、僕にも家族ができました。
今ちょうど自宅を建てていて、もうすぐ完成するところなんです。
その周辺には、素敵な仲間たちが集まってくれて、拠点を次々と作ってくれています。みんなが投資してくれて、美しい景観が少しずつ出来上がっているんです。
かつて軽井沢も、一人の外国人が素晴らしい環境を築いたことがきっかけで発展していったと聞いています。
朝日町でも、そんな奇跡を起こしたいなと。そして、富山の一つの地域から幸せが広がっていき、それを次の世代へとつないでいくこと。それが、今の僕の夢であり、目標です。
アッティ
素晴らしいですね。まさに、わくわくするようなお話です。
その奇跡、きっと実現すると信じています。これからが本当に楽しみです。
それでは、全5回にわたってお届けしてきた坂東さんとの対談も、いよいよ締めくくりとなります。
建築家としての仕事にとどまらず、空き家問題や社会課題、さらには朝日町の活性化など、多方面にわたってご活躍されている坂東さん。今後ますますのご活躍を心より期待しております。
今月のゲストは、家印株式会社代表取締役 坂東秀昭さんでした。坂東さん、1ヶ月間本当にありがとうございました。
坂東秀昭さん
ありがとうございました。
アッティ
この番組のこれまでの放送は、ポッドキャストで聞くことができます。FMとやまのホームページにアクセスをしてみてください。
お風呂の中でのぼせてまいりましたので、そろそろあがらせていただきます。アッティでした。