
こんにちは、アッティです。
「アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!
今回のゲストは、株式会社バロン 代表取締役の浅野雅史 (あさの まさふみ) さんです。※2025年11月現在
「真心を原点に、清掃から建築・福祉・不動産まで、富山の暮らしを支える」をモットーに、大活躍中の浅野さんに熱く迫っていきます!
この記事は、FMとやま 金曜17:15~17:25放送のラジオ「アッティの熱湯とやま人」の編集前データを、ほぼノーカットでまとめたものです。
放送では流れなかった裏話も含め、お楽しみください。
株式会社バロンの原点と歩み

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清掃業から始まった株式会社バロン
浅野雅史さんは、北陸銀行での勤務経験を経て、創業50年を迎える株式会社バロンの代表取締役を務めています。
清掃業を原点に、不動産や介護、太陽光、DX推進へと事業領域を広げ、多角化経営に取り組んできました。
アッティ
まず最初に、浅野さんの自己紹介と、会社の簡単な説明をお願いできますでしょうか?
浅野 雅史さん
私、浅野 雅史 (あさの まさふみ) と申します。
昭和42年生まれで、今年58歳。現在、株式会社バロンの代表取締役を務めております。
実は前職で北陸銀行に勤めていた経験もありまして、銀行には10年ほど在籍していました。ただ、それ以上に長いのが、今の株式会社バロンでの社歴になります。
弊社は「北陸バロン美装」として創業し、ちょうど創業50周年の節目に合わせて、現在の「株式会社バロン」に社名を変更しました。
アッティ
どのような事業をされているんですか?
浅野 雅史さん
当初はビルメンテナンス、いわゆる建物の清掃や管理を中心に事業を行っていました。
ただ、そこから事業領域を広げていこうということで、不動産事業、介護事業、太陽光事業などにも取り組むようになったんです。
最近ではDX推進事業部も立ち上げ、システムエンジニアを採用し、AIなども活用しながら、企業さんにDXの提案ができる会社を目指しています。
アッティ
清掃もやるし、DXもやると。かなりの多角化ですよね。
「バロン」の由来と創業秘話
「バロン」という社名は、先代である父によって名付けられました。
創業当時はボウリングブームの中でピン洗浄を手がけ、その洗浄環境を活かして高級路線のマット事業へ展開。「バロンマット」「バロンモップ」が社名の原点となっています。
アッティ
以前からちょっと聞きたかったのですが、「北陸バロン美装」から「バロン」に名前が変わっていますよね。
この「バロン」という名前は、どこから来ているのですか?
浅野 雅史さん
「バロン」という名前は、私の父である先代が付けたものです。
当社が創業したのは昭和43年で、今から57年前になります。当時は、ダスキンさんやリースキンさんがモップやマットを展開し始めた時代でした。その中で、先代が「この事業は面白いぞ」と考えたのが始まりです。
ただ他社と同じことをしていても差別化できないということで、少し高級路線のマットを作り、それを敷いて、回収して、洗浄して、またお届けする、という仕組みを取り入れました。
創業当時は、ちょうどボウリングブームの時代でもあり、ボウリングのピンを洗浄する仕事も行っていましたね。
アッティ
商売はだいたい模倣から始まりますからね。
浅野 雅史さん
そうですね (笑)。実はその当時すでに、自社で洗浄する環境は整っていたんです。
というのも、創業当初はちょうどボウリングブームで、弊社は「ボウリングのピンを洗浄する仕事」を請け負っていたんですよ。
アッティ
ボウリング! 投げる方ですね。
浅野 雅史さん
そうです。ボウリングのピンを洗浄する仕事をやっていました。
アッティ
ピンを洗う仕事、おもしろいですね。
浅野 雅史さん
これがですね、シンナーで洗わないといけないので、油まみれになるんです。
当社の車には赤と黒のラインが入っているんですが、あれはボウリングのピンの赤黒のラインなんです。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
最近はリニューアルして減りましたが、コーポレートカラーとしては今でも赤と黒を使っています。
そんな歴史があって、ボウリングブームが去ったあと、マット事業へと移行していきました。
アッティ
確かにレーンって油が引かれてますもんね。
浅野 雅史さん
ピンは真っ黒になりますからね。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
そこから、ダスキンさんやリースキンさんとの差別化を考え、高級感のあるマットを作る中で、「キングでもクイーンでもないな」となりまして、爵位の「男爵」、つまり「バロン」という名前を使うことにしました。
「バロンマット」「バロンモップ」として商品化したのが始まりです。
アッティ
商品名が先だったんですね。
浅野 雅史さん
そういうことです。それが結果的に会社名として残りました。
アッティ
いやあ、なかなか面白い歴史ですね。
浅野 雅史さん
先代が亡くなってしまったので、こうしてお話できてよかったです。
転校とスポーツが育てた、人との関わり方
浅野雅史さんは、富山生まれで三兄弟の真ん中として育ち、祖父母や曾祖父母にも可愛がられながら幼少期を過ごしました。
転校を重ねる中、足の速さをきっかけに友人関係を築き、人と自然に馴染む力を身につけていきます。
アッティ
浅野さんご自身についてもうかがっていきたいと思います。
富山生まれなんですよね?
浅野 雅史さん
そうですね。
アッティ
幼少期は、どんなお子さんだったんですか?
浅野 雅史さん
兄弟が3人いて、私は真ん中でした。
よく「拾ってきた子だ」なんて冗談で言われていましたが、子どもながらにちょっと本気にしていたところもありました (笑)。
長男は初孫ということもあって可愛がられ、私は一時だけ末っ子でしたが、2歳下に弟が生まれて、すぐその座を奪われましたので。
アッティ
一時だけですね。
浅野 雅史さん
ただ、祖父母や曾祖父母にはとても可愛がってもらって、その記憶は今でも残っています。
アッティ
性格的にはどんな感じでした?
浅野 雅史さん
スポーツが大好きで、兄弟3人とも男だったので、喧嘩も多かったですね。
転校も3回ほど経験しましたが、足が速かったので、それをきっかけにすぐ友達ができていました。
アッティ
足が速いのは得ですよね。
浅野 雅史さん
本当にそうなんです (笑)。
それがきっかけで、自然と人と馴染む力が身についたのかもしれません。
アッティ
ありがとうございます。
第1回目から非常に興味深いお話でした。次回はさらに深掘りしていきたいと思います。
進路選択の原点となった学生時代

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転校を重ねた中学時代と「勉強」という強み
浅野雅史さんは、中学進学後も転校が多く、友人ゼロからのスタートを経験します。
しかし、予習を習慣化した勉強への取り組みを強みに、同級生に教える立場となり、徐々に周囲との距離を縮めていきました。
アッティ
前回は、浅野さんの幼少期のお話をうかがいました。負けず嫌いで足が速く、小学校時代に転校が多かった中でも、その足の速さをきっかけに周囲に溶け込んでいった、そんなお話でした。
今回は引き続き、浅野さんご自身について、もう少し深く聞いていきたいと思います。
幼少期は、小学校時代に転勤が多く、転校が3回あったということでしたよね?
浅野 雅史さん
そうですね。3回ですね。
アッティ
初対面の人と関係を作る中で、浅野さんの軸のようなものができていったのかなと思いますが、その後の中学・高校時代は、どんな生活をされていたんですか?
浅野 雅史さん
小学校とは校区が違う中学校に進学して、その結果、また友達ゼロからのスタートになりました。
小学校時代は転校しても何とかやってこられましたが、中学校では少し苦戦したんです。
アッティ
というと?
浅野 雅史さん
中学生は多感な時期でもありますし、最初は「よそ者」という目で見られるんです。
そして、小学校の頃のように足の速さだけでは通用しなくなってきて…
アッティ
確かに、中学では難しいですよね。
浅野 雅史さん
そこで自分の中で活きてきたのが、勉強でした。
小学校の頃から朝早く起きる習慣があって、予習をするようになっていたんです。
アッティ
朝からですか?
浅野 雅史さん
そうですね。あらかじめ授業内容を見ておくと、授業が復習のように感じられて余裕が生まれたんです。
暗記科目も多かったので、理解もしやすかったですね。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
試験前になると、焦っている同級生に勉強を教えることもありました。
アッティ
同級生に教えていたんですね。
浅野 雅史さん
少しだけですが。
そうすると、自然と距離が縮まっていった感覚がありました。
アッティ
やっぱり、自分なりの強みを持つことが大事なのかもしれませんね。
医師への憧れと海外への関心
浅野雅史さんは、野口英世の伝記に感銘を受け医師を志します。
同時にBCLを通じて海外のラジオ放送に触れ、国内にとどまらない視野と関心を育んでいきました。
アッティ
中学・高校時代は、どんな心構えで過ごされていたんですか?
浅野 雅史さん
中学時代だったと思うんですが、野口英世の伝記を一冊読んだことが、大きなきっかけになりました。
小学校の頃だったか中学だったか、正直うろ覚えな部分もあるんですが、その本の中で描かれていた野口英世の生き方に、すごく心を打たれたんです。
アッティ
野口英世ですね。
浅野 雅史さん
はい。黄熱病の研究に命を懸けて取り組み、とにかく人の役に立つために、自分の命を賭してでも患者さんや病気と向き合い続けた。その生きざまに、強い感銘を受けました。
それを読んで、「自分も医者になりたいな」と、自然に思うようになったんです。
アッティ
医者になりたいと。
浅野 雅史さん
そうです。医者になるにはどうすればいいかを考えると、たまたま近くに進学校がありまして。
「まずはそこを目指せばいいのかな」と、高校進学の目標がはっきりしました。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
目標ができたのは良かったです。
中学時代は、これまで話してきた予習や復習を続けていく中で、成績も少しずつ上がってきていました。兄もその進学校に通っていたので、兄から受ける刺激も大きかったです。
アッティ
よいですね。
浅野 雅史さん
そうした中で、中学時代にもう一つ、強く印象に残っていることがあります。
BCLという趣味です。
アッティ
あまり聞いたことがないですね。
浅野 雅史さん
BCLというのは、海外のラジオ局、短波放送を受信できるラジオを使って、外国の放送を聴くんです。
その放送を聴いて感想を書いて送ると、海外の放送局から絵はがきが届くんですね。
アッティ
ほう。
浅野 雅史さん
当時は、それを集めるのが一時期流行っていて、いろんな国の放送局からの絵はがきを収集していたんです。それがきっかけで、海外に対する興味も少しずつ芽生えていきました。
そういった経験もあって、「医者になりたい」という思いと同時に、「海外にも興味がある」という気持ちが育っていった。中学・高校時代は、そんな時期だったと思います。
挫折を経て進んだ大学生活と現実
浅野雅史さんは、高校時代の挫折を経て進路を切り替え、東京の大学へ進学します。
憧れていた東京での学生生活は、アルバイトと授業、補習に追われる日々で、理想と現実の違いを実感する時間でもありました。
アッティ
大学時代はいかがでしたか?
浅野 雅史さん
大学進学については、高校1年のときの経験が大きかったですね。夏休みを使って、友人4人くらいで東京へ小旅行に出かけたんです。
それまでも親と一緒に東京へ行ったことはありましたが、子どもだけで行くのは初めてで、その体験がとても印象に残っています。
いわゆる観光地を巡るというより、新宿に行ったり、原宿に行ったり、秋葉原に行ったりと、観光地ではない場所を自分たちの足で電車に乗って回りました。宿泊先も自分たちで予約して、すべて自分たちで動いたんです。
そうした体験の中で、東京という街の魅力というか、都会への憧れのようなものが自然と生まれてきました。
それがきっかけで、東京の大学を目指すようになり進学しました。
アッティ
初めての体験ですね。
憧れの大学生活はどうだったんですか?
浅野 雅史さん
大学生活は、想像していた部分もあれば、まったく違っていた部分もありましたね。
実際にはアルバイトに明け暮れる日々で、学校の方も私が学んでいた会計学などが中心だったので、通常の授業とは別に補習授業もありました。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
補習を受けると、どうしても夜遅くなってしまって、帰ってきて寝て、また学校へ行く、という生活が続きました。
しばらくは本当に、学校と家の往復ばかりで、「あれ、思っていた大学生活と違うな」と感じることもありましたね。
アッティ
医者を目指していた話は、どうなったんですか?
浅野 雅史さん
きましたね。そこ、突っ込まれるところですよね (笑)。
実は高校時代に、初めて勉強に対する挫折を味わいました。
アッティ
あれだけ勉強が好きだったのに。
浅野 雅史さん
勉強が大好きだったかどうかは別として (笑)。やはり富山の進学校は、かなり手ごわかったですね。
中学校で1番、2番だった生徒たちが集まってくる学校なので、そもそも勉強のレベルもやり方も、まったく違いました。そこで初めて、「自分は何か軽く考えていたな」と感じたんです。
もっとやるべきなのに、「このくらいでいいか」とどこかで軽く考えていて。その自分の甘さを、ここで強く痛感しました。
アッティ
そこで医者の道は諦めて、次のステージに切り替えたということですね。
浅野 雅史さん
そうですね。結果的には、そういう判断になりました。
就職活動と銀行を選んだ理由
浅野雅史さんは、バブル期の就職活動を背景に金融業界へ関心を持ちます。
経営への興味や金融知識の必要性、東京で働く現実を踏まえた結果、社会に出る第一歩として地元銀行への就職を選択しました。
アッティ
大学を卒業されて、いよいよ就職活動ですよね。
最初は、どんなところに入社されたんですか?
浅野 雅史さん
まず時代背景としては、バブル期でした。
アッティ
バブルですよね。
浅野 雅史さん
はい、1990年頃です。
当時は銀行をはじめ、証券や損保など、金融機関が非常にもてはやされていました。
今でいうメガバンクではなく、「都銀」と呼ばれていた時代ですね。都銀もいくつか受けました。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
当時はリクルーター制度があって、大学の先輩で、就職して1〜2年目の金融マンが学生の面倒を見る、という仕組みがありました。
アッティ
お世話役みたいな感じですね。
浅野 雅史さん
そうです。その先輩たちから話を聞くと、東京で働く厳しさも見えてきました。
30年近く、満員電車に揺られ続ける、そんな話まで聞いて、「本当に東京で就職するのがいいのかな」と考えるようになりました。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
実は大学時代に、専門学校にも通っていたんです。その知識を活かすことを考えると、銀行は選択肢として悪くない。
ただ、地方銀行という道もあるなと思い、地元に戻ることを考えました。
アッティ
東京の銀行ではなく、地元の銀行を選ばれたと。
浅野 雅史さん
そういうことですね。
アッティ
ここまで、中学・高校・大学と過ごされてきて、医者を志し、挫折も経験し、そこから銀行へ進まれたわけですが、そもそも「銀行に入りたい」という思いは、どこから来たんですか?
浅野 雅史さん
これも実は、小中学校の頃からの話になります。
当時、宮尾すすむの「社長シリーズ」という番組があって、よく見ていました。
アッティ
わかります。知ってます。
浅野 雅史さん
社長のもとを訪ねて、仕事や経営の話を聞く番組で、あれが大好きだったんです。
アッティ
あれ、結構マニアックですよね。
浅野 雅史さん
そうですね (笑)。
それに加えて、大学時代にはサークルを立ち上げた経験もありました。
仲間を集めて、組織を作って、運営していく。その過程がとても楽しくて、「何かを自分で作る」ということに強い興味を持つようになったんです。
ただ、会社を作るにしても、金融の知識がなければ始まらない。そう考える中で、「金融の中でも銀行が一番の近道なのでは」と思うようになりました。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
すべてがそれだけの理由ではありませんが、そうした背景もあって、地元銀行への就職を選びました。
アッティ
わかりました。ありがとうございます。
今回は、中学・高校、大学、そして地元銀行に入社されるまでのお話をうかがいました。次回はいよいよ、株式会社バロンに入社されてからのお話を聞いていきたいと思います。
銀行員から清掃業界へ、二代目の覚悟

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バブル崩壊と経営の厳しさ
浅野雅史さんは1990年に銀行へ入行し、東京でバブル崩壊を経験した後、富山へ帰郷します。
仕事と私生活が充実する一方、取引先社長の自死という衝撃的な事件に遭遇。経営者は孤独であり、最終的な責任をすべて負うという厳しい現実を、銀行員として目の当たりにする経験となりました。
アッティ
前回は、地元の富山の銀行で働き始めたところまでお話をいただきました。
実際に富山の銀行で働いてみて、仕事はどうでしたか?
浅野 雅史さん
私が入行したのがちょうど1990年で、まさにバブル絶頂期でした。
そこから1991年くらいにバブルがはじけたので、本当にそのタイミングだったんです。「絶頂を知って、あとはどんどん落ちていく」という時代を経験しました。
アッティ
当然、弾けていく過程も経験されているわけですよね。
浅野 雅史さん
経験しました。いい時期は本当に短かったですね。
最初の配属が東京の新宿支店だったんですが、そこは本当に華やかでした。昔のバブルを振り返る映像に出てくるような、ああいったキラキラした景色をよく見ましたよ。
アッティ
なるほど、「東京のラッシュが嫌だ」と言っておきながら、気づいたらそこは東京だったんですね (笑)。地方に行こうと思ったのに。
浅野 雅史さん
そうなんです (笑)。地方銀行に入ったのに、初めての店が東京でしたから。
でも、東京支店にいた3年間のうち、バブルがはじけてからの2年くらいは景気が落ちていくところもしっかり経験できました。
学生時代の4年と銀行時代の3年、計7年間東京にいて、いいところも悪いところも見たので、いざ富山に帰るときは、逆にちょっと寂しいというか、後ろ髪を引かれる思いもありましたね。
アッティ
富山に帰ってからはどうでしたか?
浅野 雅史さん
富山に帰ってからは、婦中町の速星 (はやほし) 支店に配属されました。
当時は大型商業施設のファボーレができたり、婦中大橋が無料化されたりと、富山市のベッドタウンとして婦中がすごく注目されていた時期で。
土地も動いていたので、支店の成績も良くて。仕事が終われば、そこからすぐにスキー場へ行けちゃうような環境だったんです。
アッティ
仕事をして、そのままナイターへ。それは楽しい生活ですね。
浅野 雅史さん
そうなんです。当時は、牛岳温泉スキー場に行ったり、カラオケに行ったりと、「富山は富山で仕事も充実しているし、アフターファイブも楽しいんだな」と実感しました。
ただその中で、一つ忘れられない出来事がありまして。よく「経営者は孤独だ」と言われますが、取引先の社長が倒産を苦に、自ら命を絶たれるという事件があったんです。
アッティ
それは……
浅野 雅史さん
やはりこれは結構ショッキングでした。
経営者というのは、最後に自分がすべて責任を取らなきゃいけない。その厳しさを目の当たりにしたというか、富山での忘れられない経験ですね。
アッティ
元々「いつか会社を作ってみたい、そのために金融を知らないと」という理由で銀行に入られたとおっしゃっていましたが、その目的はある程度達成されたんでしょうか?
浅野 雅史さん
金融という意味では、決算書を見て「どこをどう見ればいいか」、バランスシートやPL (損益計算書) の見方はわかりますし、貸し出しする立場としての知識はつきました。
ただ、会社経営者の立場になるとまた違いますよね。収益を上げて、税金をしっかり納めつつ、経費化できるものは経費化したり償却を取ったり…、そういった実務については全くわからない状態でした。
それでも、銀行にいたからこそいろんな社長さんと出会い、いろんな話を聞くことで、「経営者の覚悟」みたいなものを自分の中にしっかりと落とし込めた気がします。
養子縁組と二代目の覚悟
浅野雅史さんは以前から独立志向を持っており、実父と縁のあった先代社長との養子縁組を決意します。
慣れ親しんだ姓を変えて銀行を辞めることに迷いはありましたが、先代の熱意と自身の起業への想いが重なり、二代目として「株式会社北陸バロン美装」を継ぐ覚悟を決めました。
アッティ
銀行で多くの学びを得て、そこから創業・独立しようということで辞められたわけですか?
浅野 雅史さん
これもまた少し違いまして、ご縁があったんです。
私の実父が、バロンを創業した先代社長と懇意にしておりまして、そこに「養子縁組」で入ることになったんですよ。
アッティ
なるほど、なるほど! 養子縁組ですか。
浅野 雅史さん
高校時代からずっと言われてはいたんですが、なかなかいきなりそんな話をされても…という感じで。
銀行に入って自分の足で歩んでいましたし、ましてや旧姓を捨ててまで行くというのは、ちょっと覚悟がなかったんです。
ただ、やはり先代の熱い思いが私の中に響いたのと、前回もお話しした通り「自分で何かやりたい」という気持ちが前々からあったので。
当時の「株式会社 北陸バロン美装」を継ぐというか、二代目として頑張っていこうと覚悟を決めました。銀行は4つの支店をまわって経験を経て、退路を断って飛び込みました。
アッティ
先代からずっと「ぜひ経営者として来てほしい」と声かけられていて、それが養子縁組につながったんですね。
そこからバロンでの生活がスタートしたわけですが、全く違う世界に入られてどうでしたか?
浅野 雅史さん
全く違っていましたね。
1ヶ月前までお金を数えるのが仕事だったのが、いきなりモップとタオルを持って、掃いたり拭いたりしなきゃいけないわけですから。
アッティ
清掃業ですもんね。全然違いますよね。
浅野 雅史さん
でも、これが良かったのは、私自身がそれを希望したことなんです。
「現場の仕事を知らないと、仮に会社を任されたときに部下にしっかりした指示も出せないし、皆さんの気持ちに寄り添うこともできない」と思って。「しっかりやらせてほしい」とお願いして、数ヶ月間はずっと現場をやっていました。
現場下積みから社長就任へ
浅野雅史さんは入社後に現場仕事を志願し、清掃の基礎を叩き込みました。さらに銀行で培った「原価計算」を導入し、どんぶり勘定だった体制を改革します。
10年間の下積みと実績が社員の信頼に繋がり、先代の急逝後もスムーズな事業承継と社長就任を実現させました。
アッティ
そのほかに、意識されていたことはありますか?
浅野 雅史さん
ただ、漫然と仕事をするだけでは意味がないと思って、銀行で学んだ「原価計算」を取り入れたんです。
現場に行って、今回は何人で仕事をして、時間はどれだけかかって、洗剤とワックスの原価はいくらか…というのをちゃんと割り出して。
「これだけの収益を上げるためには、これだけの金額を請求しなきゃいけないですね」という計算を毎日やったんです。
アッティ
それまでは、どちらかというと「どんぶり勘定」が主体だったんですか?
浅野 雅史さん
業界あるあるなんですが、「大体の目分量というか、なんとなく」みたいな (笑)。
アッティ
「なんとなく」でやっていたと (笑)。
浅野 雅史さん
そうなんです。だから「これはちょっとまずいんじゃないかな」と思って、そこを深掘りしていったんですよ。
アッティ
幼少期のそろばんの話もそうでしたが、今回は「原価計算」という武器を使って入り込んでいったんですね。
そうすると、いきなり社長として入られたわけではなく?
浅野 雅史さん
はい、違います。
アッティ
何年後ぐらいから社長業を?
浅野 雅史さん
2000年にバロンに入って、部長になったのが4〜5年後かな。取締役になり、副社長になったのが7〜8年後くらいです。
その時点で、実はうちの先代がずっと糖尿病を患っていまして。車いすの生活になり、入退院を繰り返していました。うちの母がずっと介護していたんですが、私も当然手伝う環境にあったんです。
ちょうどJC (青年会議所) という団体にも入っている頃でしたけどね。
アッティ
そこで出会いましたもんね。
浅野 雅史さん
そうなんです。そして2010年に先代が他界しました。
突然のことでしたが、私が副社長という立場だったので、事業承継はスムーズに移行ができたと思います。
アッティ
ほとんど社長業に近いこともやってらっしゃったわけですよね。
浅野 雅史さん
そうですね、そういったところもありましたから。
それでもただ、会社のガバナンスを考えると…やっぱり自分自身が現場での下積みをやったおかげもあるかと思います。すべての原価計算を含めて「これがどういった形で収益につながるか」という話をすべてできたので。
そこは皆さんも納得というか、スムーズに「次は社長お願いします」という話になったので良かったなと。
何か手を抜いたり、「いずれ社長になるんだから」なんて甘えを持ってこの10年間を過ごしていたら、たぶんみんなついてこなかったんじゃないかなと思いますよね。
アッティ
なるほど。わかりました、ありがとうございます。
今回は、こうやって銀行業で学び、そこからバロンに入社されて、その10年後くらいには社長就任をされたというお話をいただきました。
次回は、「株式会社バロン」についてお話を聞いていきたいと思っております。
組織の標準化と未来へ繋ぐ多角化

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旧態依然とした組織の標準化と改革
浅野雅史さんは、銀行員時代の経験を活かし、感覚的で属人化していた社内体制の改革に着手しました。
ISO取得による標準化や、Excelを用いた原価計算の仕組みを導入。「どんぶり勘定」だった見積もり作成を根拠あるものに変え、経営の安定化と業務効率化を実現させました。
アッティ
前回は、銀行から株式会社バロンへ入社し、社長になられた経緯をうかがいました。
金融業界から清掃という全く異なる世界に入り、実際に社長をやってみてどうでしたか?
浅野 雅史さん
銀行員時代も支店という組織を運営する中で、支店長が社長のような役割を担う中小企業的な感覚で生きてきました。
ですから、会社がバロンに変わっても「組織を動かす」という意味では似た部分がありました。
ただ、当時のバロンは何て言うんでしょうか、本当に旧態依然とした体質を持った会社で。何事も感覚的で、仕事がかなり属人化しており、共有化や標準化が進んでいなかったんです。
銀行なら誰が転勤してきてもすぐに仕事ができる体制がありますが、それがバロンには全くありませんでした。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
この状況を変えるために、ISOの取得などを通じて業務の標準化や共有化に取り組みました。
銀行員時代の土台があったので、社長になってからは前回お話しした「原価計算」の考え方を社員全員に落とし込むことに注力したんです。
Excelを使って簡単に見積もりの原価計算ができる仕組みを作り、「まず原価計算ができれば見積もりが作れる」という逆の発想で進めたところ、皆さんも徐々に馴染んでいってくれました。
アッティ
以前はどんな計算方法だったのですか?
浅野 雅史さん
昔は「平米単価いくらだから、この広さならいくら」というような、単純な計算に基づいていました。
アッティ
なるほど、昔はそういう計算の仕方だったんですね。
浅野 雅史さん
しかし、現場の状況や環境が変わればコストも変わります。それなのに一つの公式だけで計算していたんです。
その公式を紐解いて、ちゃんとした積み上げで単価が出ることを分かりやすく説明しました。これによって精度の高い見積もりが作れるようになり、皆の仕事も楽になりました。
こうした改革を続けたことで、「どんぶり勘定」から一気に変わり、経営の方も安定して順調に進むようになったのが良かった点ですね。
メンテナンスから建築・不動産へ
浅野雅史さんは本業の安定を機に、事業の多角化へ軸足を移します。
清掃メンテナンスから派生するニーズを捉え、ゼネコン任せだった建築分野へ参入。個人宅やオフィスのリノベーションに注力し、さらに土地情報を扱う不動産事業へと「川上」にさかのぼることで、一気通貫のサービス体制を構築しました。
アッティ
先ほどは仕組み化の話が中心でしたが、実際に一国一城の主としての思いはどうでしたか?
浅野 雅史さん
実は当初、「一国一城の主」という感覚はあまりありませんでした。誰も指示をしてくれないので、自分で決断しなければならないプレッシャーはありましたが。
ただ、本業の清掃業でうまくレールを敷くことができ、余裕が生まれてきました。そこで、私は「多角化」に軸足を置くことにしたんです。
アッティ
多角化ですか?
浅野 雅史さん
新しい事業には、当然人が必要です。人を育て、任せられる体制を作らないと回りません。
新しいことを始める際には自分も深く関わり、作り上げていく。手間はかかりますが、そうすることで多角化もうまく進んでいったと思います。
アッティ
元々「北陸バロン美装」という名前の通り清掃が主体だったと思いますが、具体的にどのような多角化をされてきたのでしょうか?
浅野 雅史さん
私たちの本業は、建物が建った後のメンテナンスです。メンテナンスをしていると、建物の破損など、建築の要素がないと上手くいかないことが出てきます。
以前はゼネコンさんとの付き合いが中心でしたが、そこからリフォームやリノベーションへ切り替えていきました。個人のお宅から会社のオフィスなども含めて、そういった分野に注力していったんです。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
さらにそこから「川上」へさかのぼると、建物が建つ前の土地の取引があります。
そこで不動産事業を始めて、まず土地の情報を手に入れる。そこから建築、そしてその後のメンテナンスへと繋げ、一気通貫で行える流れを作りました。
人と経験が繋ぐ介護・太陽光・DX
アッティ
そこは全部繋がっているわけですね。
浅野雅史さんは、670名の従業員を抱える労務管理ノウハウと自身の介護経験を掛け合わせ、介護事業や人材ビジネスを展開。
さらに不動産事業の強みを活かして太陽光発電へ参入し、社内のIT化実績を元にDX事業も立ち上げるなど、全ての事業が経験と強みで繋がる多角化を実現しています。
アッティ
他には、どんなことに取り組んだんですか?
浅野 雅史さん
弊社にはパートさんを含めて約670名の従業員がいます。人を雇用し労務管理をするノウハウや経験値があるので、それを活かして人材ビジネスにも着手したんです。
さらに、先ほどお話ししたように父の介護経験があったので、介護の知識もありました。介護事業も人を集めて動かす労務管理が重要ですから、我々のノウハウが活かせると考え、そこから介護事業もスタートさせたわけです。
アッティ
すべて飛び地の事業ではなく、本業やご自身の経験から繋がっているんですね。
浅野 雅史さん
そうですね。その後、社長になってからも様々な研修を受ける中で、2012年にFIT (固定価格買取制度) が始まるという情報を得ました。
太陽光発電事業を始めるには土地が必要ですが、私たちは不動産事業をやっていたので、スムーズに土地を取得して参入することができました。これも上手く繋がっていったと思います。
アッティ
全部繋がっていますね。最近ではDXにも取り組まれているとか。
浅野 雅史さん
はい。ある県政報告会でAIやITに詳しい方と出会い、意気投合しまして。
私自身、かつて数台しかなかったパソコンを全社員に支給し、データ共有を進めるという『DXの走り』のような改革をしてきた経緯があります。その話題で彼とすごく盛り上がりましてね。
結果として彼を弊社に招き入れ、DX事業部を立ち上げることになったのです。
アッティ
なるほど。DXもこれまでの取り組みがきっかけになっているんですね。
今回は、社長就任後の改革と、バロンの多角化についてお話をうかがいました。
富山への想い&オススメ店&リクエスト曲

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ふるさと富山について
浅野雅史さんは、大学時代を東京で過ごしたからこそ、富山の景観や水の美味しさといった魅力を再認識しました。
富山経済同友会での活動を通じて、県外出身者からの高い評価に触れ、地元の良さを改めて実感するとともに、その魅力をさらに発信していきたいという熱い想いを抱いています。
アッティ
今回は5回目、最終回になります。
まずは、ふるさと富山についての思いをお聞かせいただけますでしょうか?
浅野 雅史さん
私は高校を出て、東京の大学で7年間過ごしました。その間に何度も帰省しましたが、最終的に地元の銀行を選んだ理由も、やはり富山で育ったという点が大きかったですね。
東京はエンターテイメントがたくさんあって楽しい場所ですが、「暮らすところ」というよりは「遊ぶところ」という認識でして。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
やっぱり自分が「富山の人間だな」と思う瞬間は、立山連峰を見て「綺麗だな」と感じるときなんです。「なんて素敵なところに私は生まれたんだ」と。
景色もいいし、水も美味しい。そういった慣れ親しんだものがすべて揃っている富山に戻ってきて本当に良かったと思いますし、これからも大事にしていきたいですね。
アッティ
いいところですよね。
浅野 雅史さん
また、私は今「富山経済同友会」という団体に所属しておりまして。そこには県外から来られた企業の支店長さんなどがたくさんいらっしゃいます。
彼らと話すと、皆さん富山が本当に好きだと言ってくださるんです。「なんなら住みたい」という方もいるくらいで。
アッティ
それは嬉しいですよね。
浅野 雅史さん
私たち地元の人間以上に、外から来られた方々が富山の良さを語ってくれる。
それを聞いて嬉しいだけでなく、我々ももっとその良さを発信していきたいなという気持ちになっています。
富山県内で大好きな飲食店
アッティ
お気に入りの飲食店を教えていただけますか?
浅野 雅史さん
「食彩 一入 (ひとしお)」さんという和食のお店です。開店してからずっと通っています。
マスターも奥さんもお母さんも、ファミリーで経営されていて、本当に良くしていただいています。
アッティ
なるほど。
浅野 雅史さん
紹介で行ったのがきっかけだったと思いますが、最初から美味しい魚料理を出していただいて。そこからマスターとも仲良くさせていただいています。
アッティ
特におすすめの大好きな料理はありますか?
浅野 雅史さん
夏に出る鮎ですね。稚鮎というか若鮎というか、頭から丸ごと食べられるのがめちゃめちゃ美味しいんです!
それと、ヤングコーン。10〜15センチくらいのコーンなんですが、採りたてのヒゲがついたままグルグル巻いて、そのまま素揚げするんですよ。
アッティ
ヒゲをつけたまま素揚げですか!? 珍しいですね。
浅野 雅史さん
これが絶品なんです。私が行くと大体出してくれますね。
リクエスト曲
アッティ
浅野さんの大好きなリクエスト曲を1曲いただけますでしょうか?
浅野 雅史さん
エリック・クラプトンの「Change The World」です。
ちょうど私が銀行を辞めるタイミングで流れていた曲なんですが、直訳すると「世界を変える」という意味ですよね。
アッティ
うんうん。
浅野 雅史さん
銀行を辞めて新しい世界へ飛び込む時期だったので、自分自身もすごく感動しましたし、ずっと印象に残っている曲です。
これからの夢や目標について
浅野雅史さんは、これまでの感謝を社会へ還元するため、若者たちへの支援に意欲を燃やしています。
日本の良さを再発見し、国際社会で活躍できる人材を育てるため、自身の親族にも留学を支援。英語という武器と広い視野を持つ若者を支える取り組みに、今後も力を注いでいく決意です。
アッティ
最後に、浅野さんのこれからの夢や目標についてお聞かせください。
浅野 雅史さん
これまで仕事もプライベートも、本当にたくさんの友人や仲間に支えられてやってこれました。
その感謝を皆さんにお返しするのはもちろんですが、やはり私たちがやらなきゃいけないのは、若い子たちに夢や希望を与えることだと思っています。
アッティ
素晴らしいですね。
浅野 雅史さん
今は閉塞感があったり、日本の地位が下がっていると言われたりもしますが、海外に行ってみると日本の良さが改めてよく分かります。
だからこそ、若い子たちにも世界を知ってほしくて、自分の姪や甥には「お金は出すから留学に行け」と半ば強引に行かせました (笑)。
アッティ
それはすごい。
浅野 雅史さん
でも、行った彼らは世界観が広がり、英語という武器を見つけて帰ってきました。英語で情報を得て、英語で物事を考えられるんです。
これからの国際社会に飛び込んでいくためにも、また日本の良さを知ってもらうためにも、そうやって頑張る若い子たちをしっかり支えられるような取り組みができればいいなと思っています。
アッティ
ありがとうございます。今月は全5回にわたって、浅野雅史さんにお話をうかがいました。
改めて、その素晴らしいお人柄と、場面場面でご自身の強みを活かして前に進む姿勢に、深く感銘を受けました。これからの益々のご活躍を期待しております。
今月のゲストは、株式会社バロン 代表取締役 浅野 雅史さんでした。浅野さん、1ヶ月間本当にありがとうございました。
浅野 雅史さん
ありがとうございました。
アッティ
この番組のこれまでの放送は、ポッドキャストで聞くことができます。FMとやまのホームページにアクセスをしてみてください。
お風呂の中でのぼせてまいりましたので、そろそろあがらせていただきます。アッティでした。
