こんにちは、アッティです。
「アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!
今回のゲストは、南砺市に本社があるアルカスコーポレーション株式会社 代表取締役の岩崎 弥一 (いわさき やいち) さんです。
南砺市から東京への移住、商社マン、代議士秘書、アメリカ留学、経営者などなど、山あり谷ありの豊かな人生経験を持っている岩崎さんに熱く迫っていきます!
この記事は、FMとやま 金曜17:15~17:25放送のラジオ「アッティの熱湯とやま人」の編集前データを、ほぼノーカットでまとめたものです。
放送では流れなかった裏話も含め、お楽しみください。
岩崎さんの人柄や経歴について
岩崎さんの自己紹介
岩崎さんは1964年に南砺市生まれ。建設業を営むアルカスコーポレーションの代表です。
幼少期を東京で過ごし、青春時代に音楽に目覚め、キャロルのコピーバンドを結成。現在も矢沢永吉さんのライブに毎年参加しています。
アッティ
岩崎さん、どうぞよろしくお願いいたします。
岩崎弥一さん
よろしくお願いいたします。
アッティ
全4回にわたって、岩崎さんの生い立ちから深掘りしていきたいと思っております。
まず最初に、簡単な自己紹介と、会社の紹介をいただけますでしょうか?
岩崎弥一さん
岩崎弥一と申します。アルカスコーポレーションという主に建設業をやっておる会社を営んでおります。
1964年、昭和39年の7月に今の南砺市旧福野町で生を受けました。子どもの頃は、本当に活発に外で遊んだりしておりましたが、実は小学校2年生の頃から東京で過ごさせていただいて。
アッティ
そうなんですね。
岩崎弥一さん
だから青春時代は、ほとんど東京で過ごして、30歳になってから富山に戻ってきたというような感じですね。
アッティ
なるほどなるほど。
岩崎弥一さん
幼少期は東京に出ていろんなものに興味を持ったんですけど、子どもの頃はスポーツ、野球とかをしょっちゅうやってまして。
ただし中学に入ってからは、音楽に目覚めまして。エレキギターを買ってですね。
アッティ
なるほどなるほど。
岩崎弥一さん
エレキギターをかき鳴らして、特に矢沢永吉さんがリーダーをやってた「キャロル」っていう、革ジャンリーゼントのロックンロールのバンド。
これにハマりましてコピーバンドをやったっていうのが、やっぱり今もずっと影響しているかなと。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
だから、いまだに矢沢永吉さんは大好きで。もう毎年のようにライブには行っておる、というような感じです。
会社の紹介
岩崎さんが入社した頃、会社は売上が100億円ほどあり、地元では有名な建設会社でした。しかしバブル崩壊などで財務が悪化しており、岩崎さんの仕事は財務改善に努めることでした。
公共事業などに集中する建設企業が多い中、アルカスコーポレーションは多岐にわたる事業を一括で提供する独自性を持っています。
アッティ
会社の方は、どんな感じでいらっしゃるんですか?
岩崎弥一さん
会社はですね。私が入社する頃は、売り上げが100億ぐらいありまして。富山県の地域では、もう有名な建設会社にはなっていたんですけど。
私が帰ってきてみて驚いたのは、やはりバブルの崩壊などで厳しくなっていったということもあるんでしょうけども、非常に財務内容が良くなくてですね。
アッティ
そうですか。
岩崎弥一さん
驚きまして。「これは何とかしなきゃ」と思ったんですけれども、なかなかね、父親との意見が合わなかったりとかですね。非常に苦労しまして。
私の仕事は、財務を徹底的に良くするっていうところから始まりました。
アッティ
アルカスコーポレーションさん自体は、建設業でいらっしゃるんですか?
岩崎弥一さん
主業は建設業なんですけども、ガソリンスタンドをやってたりとかですね。いわゆる建設資材、生コンとかアスファルトも、自分のところで工場を持ってまして。そういうものを運送する運輸会社まで持ってて。
一応、ワンストップで提供できるような形は整えていて。いわゆる、全く関係のないサイドビジネスというか、多角化は当初はしていなかったんですね。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
ところが、儲かって非常に順調にきてた頃に、いろんな飲食とか旅行会社とか、そんなところに手を出して。
アッティ
そういうのをやられてたんですか?
岩崎弥一さん
そう、以前ね。私が社長になる前、会社に戻ってくる前の話ですけども。
そういうところにも手を出したりとか、あとは大規模な宅地造成とかね、そんなのに手を出して。そういうところで、だんだんだんだん財務が悪くなっていく。不良債権になるものが、どんどん積み上がっていくってことがありまして。
それによって「自分の人生が大きく変わった」みたいな感じで思っていますけどね。
アッティ
アッティは、建設会社の業界ってあんまりよくわかってないんですけれども。
「ワンストップである」って話がありましたけど、そういう企業さんが多いんですか? それとも、何かに集中されてる会社さんが多いんですか?
岩崎弥一さん
ほとんどが公共事業を主とした土木とかの会社が多くて。
建築も、うちみたいに、建築もやる、土木もやる、舗装もやる、そして工場も、資材のアスファルトとか生コンの工場も持ってる、みたいなところはそんなにないですね。
アッティ
そうなんですね。それが思いっきり特徴なんですね。
幼少期の話
幼少期の岩崎さんは、暗くなるまで外で遊ぶ活発な子どもでした。野球が好きでしたが、移住した先の東京の中学校では野球部がなかったため、バレーボール部に入部します。
アッティ
自己紹介に戻りますと、もともと生まれは富山で、小2まで富山にいらっしゃった感じですかね?
岩崎弥一さん
小学校1年の時ですね。
アッティ
小学校1年までですか。なるほどなるほど。
その頃は、けっこう活発なお子さんで?
岩崎弥一さん
そうですね、活発だったんですよね。だからもう、ほとんど暗くなるまで外で遊んでいました。
今住んでるところが、もともと子どもの頃から育ったところなんですけど。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
横には大きな川があってね。それで河原にはいろんな木が生えてて、そこにはカブトムシとかね、クワガタ虫とかがぞろぞろいるような、そんな環境だったんですよね。
アッティ
なるほど。運動もかなりされてらっしゃったということですけど、どういうスポーツをやられたことがあるんですか?
岩崎弥一さん
子どもの頃は、完全に野球でしたね。
アッティ
野球ですか。
岩崎弥一さん
中学に行ったら、東京ですから校庭が狭い。
アッティ
そうかそうか。
岩崎弥一さん
野球部がなかったんです。
アッティ
そもそも、なかったんですか?
岩崎弥一さん
なかったんです。で、仕方なくバレーボール部。
アッティ
そこでバレーボールに行ったわけですね。なるほど。
岩崎弥一さん
バレーボール部になりまして。
なんか楽しいというか、厳しい一面もありましたけれども。先輩たちは強かったんですけど、僕らは、そこまで強くなれなくて。
アッティ
なるほど。そうやってスポーツも結構やってこられて。
ロックにハマった話
岩崎さんは、最初は歌謡曲を聴いていましたが、ロックにハマります。高校時代はキャロルの音楽に魅了され、リーゼントやサングラス、革ジャンできめていたことも。
音楽などの多種多様な趣味が、仕事に良い影響を与えていると感じています。
アッティ
「ギターも弾かれて、音楽もかなり力を入れてこられた」って話なんですが、どんな感じの音楽だったんですか?
岩崎弥一さん
最初音楽をスタートした頃は、当然歌謡曲を聞いてたわけですけど。
アッティ
なるほど、そうですよね。
岩崎弥一さん
だけど、お兄さんがいる、やっぱりちょっとませた子たちがロックとか聞いてたわけですよね。
アッティ
はいはい。
岩崎弥一さん
その当時流行ってたのは、キッスとかクイーンとかエアロスミス。いわゆる御三家っていわれてる。
アッティ
はいはいはい。
岩崎弥一さん
このへんを聞いてる人たちが出始めて、我々もやっぱそれに影響を受けて、そのへんの音楽を聴くようになってね。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
で、音楽にのめり込むんですけど。なぜかですね、その当時にはもう解散してたんですけど、キャロルを聞いてた友達たちがいたわけです。
それで、その音楽を聞かせてもらって「これ、かっこいいな」となっていくわけですね。
アッティ
なるほどなるほど。
岩崎弥一さん
ちょうど僕らの年代は、校内暴力とかね、そういうのも結構いわゆる社会問題になった時期で。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
どっちかっていうと、我々みんな「ツッパリ志向」っていうね。
アッティ
はいはいはい。
岩崎弥一さん
そういうのがありまして。
アッティ
まさか、髪型もそんな感じだったんですか?
岩崎弥一さん
リーゼントっぽくしてた人たちはいましたね。
自分もね、ギター弾いてるときなんかは、サングラスして革ジャン着てね。髪の毛もね、グリースって当時流行ってた。
アッティ
流行りましたね。テカテカのね、横につけて。
岩崎弥一さん
ああいうのをつけて、カッコつけたりしてましたけどね。
アッティ
そうすると、バンドをやっていた音楽は、矢沢さんのものが多かったんですか?
岩崎弥一さん
そうですね。キャロルがやっぱり一番やってたんですかね、その当時は。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
謝恩会ってのが、ほら、卒業のときにありまして。
アッティ
はいはい。
岩崎弥一さん
全校生徒とか、先生たちの前でキャロルやりましたからね。
アッティ
素晴らしい。
岩崎弥一さん
ええ。
アッティ
今も矢沢永吉さんは現役バリバリですけど、たまに聴きに行かれることもあるんですか?
岩崎弥一さん
ええ、もう本当に毎年のように。
アッティ
毎年行って!?
岩崎弥一さん
行ってますね。矢沢さんも、今70代中盤ぐらいになってますけどね。もう今も、元気で。
アッティ
元気ですよね。
岩崎弥一さん
ええ、やっておられて。あれを見て「自分らもまだまだ頑張らんといかんな」というね。
アッティ
ちなみに、今バンドはされてるんですか?
岩崎弥一さん
もうやっていないですね。
アッティ
ああ、やっていないんですか。
岩崎弥一さん
ええ。
アッティ
じゃあ、ギターを弾くこともあまりなく?
岩崎弥一さん
もう飾ってありますね。
アッティ
置きギターになって (笑)
なるほどなるほど、でもいいですね、そういう意味ではスポーツもそうでしょうし、音楽もそうですし。
これからいろんなお話を聞いてきますけど、多種多様なことに興味を持たれてるってことが、もしかしたらね、いろんな事業に繋がってるんじゃないかと。
岩崎弥一さん
何らかのね、楽しみというか趣味というか、追求したものを持ってる人っていうのは、やっぱり何ていうのかな、仕事にもプラスの面というか、そういった影響はあると思いますね。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
人生が豊かになるじゃないですか。いろんな興味があるということは。
アッティ
会社もある意味ワンストップですけど、岩崎さん自身も、多種多様な興味、そして経験があるという意味では、やっぱりなにか通ずるところがあるな、と勝手に思いながら聞いておりました。
岩崎弥一さん
ありがとうございます。
アッティ
ということで今回は以上とさせていただいて、次回は、家業を継がれる前の話を聞いていきたいと思っております。
家業を継ぐまでの修行期間
証券会社へ入社した理由
岩崎さんは裕福な家庭で育ったため、自分を鍛え直すために厳しいといわれる証券会社に入社。大和証券を選び、厳しい環境で金融知識や社会人としての基本を学びます。
証券会社での経験は、ノルマや長時間労働など厳しいものでしたが、修行として多くのことを得ました。
アッティ
前回は岩崎さんの生い立ちから始まって、さまざまな話を聞かせていただきました。
今回は、今アルカスコーポレーションの社長業を務められていて、そこに至るまでの話をちょっと聞いていきたいなと思うのですが。
小学校2年のときから東京にいらっしゃったということでありますけれども。ポーンとそこから飛んでいくんですが、学生時代を経て、そこからまず、お仕事としてはどういったところからスタートされたんですか?
岩崎弥一さん
学生のときに、まず自分、今まである程度裕福な家庭で恵まれて育って、それといって苦しい状況に陥ったこととかもなくて。
だからこのまま、あまちゃんで世の中へ出て、例えば「会社を継ぐ」ってなったら「会社を潰すんじゃないか」とかね。
アッティ
それは、ご自身でそう思ったんですか?
岩崎弥一さん
思ったんです。
アッティ
へえー、なるほど。
岩崎弥一さん
あんまり父親とはそりが合わなかったもんだから、ほとんど相談事とかしたことはなかったんですけど。
就職のときだけはですね、一緒に寿司屋行って「就職先をそろそろ決めなきゃならんのだけども、何かアドバイスないか」っていうことを父親に言ったんですよね。
アッティ
お父さん、どう言われたんですか?
岩崎弥一さん
金融の知識とかがあった方が、商売をやっていく上ではいいのかなと思って「銀行なんかどうかな、って考えてるんだけど」って言ったんですよ。
そしたら、うちの父は「銀行はダメだ」と。「証券会社へ行け」って言ったんですね。
アッティ
面白いですね。
岩崎弥一さん
「証券会社だったらいろんなことを学べるだろうから、証券会社へ行け」と。
自分の中では、証券会社=超ブラック企業。当時まだ「ブラック企業」なんていう名称はなかったんですけど。
アッティ
名前はなかったですけどね。
岩崎弥一さん
「証券会社か…」っていうのはあったんですけど、自分を鍛え直すには、それぐらいの環境に身を置いたほうがいいだろうと。
アッティ
ちょっとハードなところが良いと。
岩崎弥一さん
そう思いまして、あえてですね。
最終的に大和証券が入るんですけど、野村証券、大和証券、日興証券、当時4大証券といわれたところを片っ端から受けまして。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
当然のごとく、大学の先輩のところへ「どんな会社か」っていうので連絡したわけですけど。
会ってくれた先輩たちの中で、大和証券の人が一番良かったんですね。だからもう「大和証券に決めよう」というふうに思って、大和証券に入りました。
アッティ
なるほど。やっぱりブラックだったんですか?
岩崎弥一さん
今はだいぶ変わったらしいので。
アッティ
昔の話ね。
岩崎弥一さん
もう昔の話なので、あれなんですけど。
とにかくやはり、ノルマみたいな目標みたいなものが厳しくありましたし、自宅に早く帰れるなんていうのは、もうなかなかありませんでしたね。ひどいときは、午前様になることも結構あったりとかしまして。
そういう意味では、大変勉強をさせていただいたというか、修行ですね。
アッティ
修行ですか!? でも「証券会社だからこそ学べたこと」ってどういったことなんですか?
岩崎弥一さん
今振り返るとですね、社会人としての基本というか、ファンダメンタルズみたいなものは、ほぼ大和証券で身についたかなという気はしています。
アッティ
なるほど。じゃあ相当厳しくやっていただいたわけですね。
岩崎弥一さん
厳しいですよね、当然。大勢入社したんですよ、僕らのとき。けど、最終的に残ってた人たちは、少なかったですからね。
アッティ
みんな辞めていくわけですね。
岩崎弥一さん
はい、それが現状だったんですね。
アッティ
なるほどなるほど。
代議士秘書になった経緯
岩崎さんは証券会社を経て、プロゴルファー中嶋常幸さんの父、巌さんの下で修行する予定でしたが、縁がなく断念。
その後、代議士秘書の話を受け、富山の萩山教嚴 (はぎやま きょうごん) さんの秘書を務めます。さらに、鈴木宗男さんの秘書となり、政治の世界で経験を積みました。
アッティ
証券会社で基本を学ばれて、次はまた違う世界に行かれたんですよね?
岩崎弥一さん
そうなんですよ。その間にも、ちょっと面白いエピソードがあって。
うちの会社がですね、ちょうどプロゴルファーの中嶋常幸さん (なかじま つねゆきさん) のお父さん、巌 (いわお) さんとの出会いがあって。
巌さんが、栃木県と福島県でゴルフ場を計画されてて、両方のゴルフ場の工事に携わることになったんですね。
アッティ
それは、アルカスさんとしてってことですよね?
岩崎弥一さん
当時の岩崎建設の時代。
アッティ
なるほどなるほど。
岩崎弥一さん
請け負って工事をやったっていうことなんですけども。
そのうちの一つ、栃木県のゴルフ場が「東松苑 (とうしょうえん)」っていうんですけど、そのゴルフ場が出来上がったんですね、ちょうど。
うちの父親は、中嶋常幸さんの父親である巌さんにものすごく惚れ込んでまして、「巌さんのところへ修行に行け」と。
アッティ
ほぉ、証券会社の後にってことでですね?
岩崎弥一さん
っていう話があって、本当に行くつもりでですね、何度も通ったんですよ、足しげく。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
「お宅の会社で修業させてください」とか、「一緒にゴルフも教えてください」とか、そんな感じで。
けどですね、巌さんにも考えがあったのかもしれませんけど、あまり会ってくれなくてですね。1回だけ会ってくれたんですけど、あとは空振りばっかりで。
結局その間に、代議士秘書へ行かないかっていう話が来て。
アッティ
他から来たわけですか?
岩崎弥一さん
そうなんです。
アッティ
代議士さんの秘書。
岩崎弥一さん
当時、富山県の氷見市から萩山教嚴 (はぎやま きょうごん)さんという方が出られて、「秘書がいない、だから行かないか?」っていう話が、ふっと湧いてですね。
タイミング的に中嶋巌さんからなかなか応えが来ないし、「じゃあそっちへ行くか」っていう話になりまして。
アッティ
実際、代議士の萩山さんの秘書をやられた?
岩崎弥一さん
東京でですね、東京の秘書。
アッティ
東京の秘書、全く違う世界に行かれちゃいましたね。
岩崎弥一さん
そうですね。
アッティ
この秘書時代ってのは、萩山さんだけではなく、別の方のもあったんですか?
岩崎弥一さん
萩山先生のところに2年ちょっとお世話になって。
そのあと、あの有名な北海道の鈴木宗男さんの秘書になるわけですけど、それも面白い話があって。鈴木宗男さんっていうのはね、「北海のヒグマ」といわれた中川一郎さんの筆頭秘書だった方で。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
中川一郎さんのお父さんっていうのは、今の南砺市福光町の出身。
アッティ
そうなんですか!? 繋がりがあるわけなんですね。
岩崎弥一さん
その縁で、中川昭一さんと鈴木宗男さんの講演会があった。
アッティ
はいはい。
岩崎弥一さん
うちの会社から、それに人が行ってて。
アッティ
そうなんですね。
岩崎弥一さん
そこの縁でですね、「お宅の会社の息子、うちの会社の事務所でどうだ?」みたいな。
アッティ
「受け持つよ」みたいな話になって、萩山さんのとこから移られた感じなんですか?
岩崎弥一さん
そうなんです。
代議士秘書の仕事内容
岩崎さんは代議士秘書として、日程調整や陳情処理、国会見学の手配など、幅広い業務を担当。
仕事は土日も関係なく、拘束時間が長かったものの、政治家や財界、芸能人と接することで多くを学び、モチベーションを保つことができました。
アッティ
代議士秘書の話ってあんまり聞いたことがないんですけど、どういう仕事をするものなんですか?
岩崎弥一さん
もう、ありとあらゆること。
アッティ
ありとあらゆることですよね。なんかそんな気はしますよね。
岩崎弥一さん
僕は日程を担当してたので。北海道に事務所がいくつもありますんで、そういうところから来る日程。そしてまた、衆議院だとかね、そういうところから来る日程。いろんな民間の方々から来る日程。いろんなことを全部調整するわけですけど。
そういう仕事もありますし、陳情 (ちんじょう) を受けて処理する、そういう仕事もありますし。国会見学もあるでしょ。
アッティ
なるほど、大変ですね。
岩崎弥一さん
それと、いろんな講演会の方々が来られたら、飲食の手配とかね。外国のお客さんが来られたら、そういう方々のお世話とかね。
アッティ
ある意味、土日も関係ないし、24時間の仕事みたいなイメージですよね。
ちょっと言っちゃダメですけど、証券会社もそうですけど、ブラック中のもっとブラックみたいなイメージが若干ちょっとありますよね。
岩崎弥一さん
「自由時間がなかった」っていうことからすると、代議士の鈴木宗男さんの秘書の時代は、拘束時間がすごい長かったっていうかね。
アッティ
そうですよね。でも、その分の学びはものすごいあったんじゃないですか?
岩崎弥一さん
ありましたね。特に自分のモチベーションが上がったのは、普段テレビとか、そういうところでしか見られない方々と普通に接することができたっていうこと。
これは政治家のみならず、財界、そしてまた芸能人とかもあるので。
アッティ
そうでしょうね。
岩崎弥一さん
何かちょっとした優越感というかね、そういうのはありましたね。
アッティ
逆にそれがないと続かなかったかもしれないですね。それぐらい大変そうですよね。
岩崎弥一さん
鈴木事務所でも、新しく秘書として入ってきても長く続かない人たちが結構いましたので。
アッティ
やっぱりそんな感じしますよね、なるほど。
アメリカ留学の経緯
岩崎さんは代議士秘書を経験後、父親の勧めでアメリカのベルビューに2年間留学。
弟はベルビューコミュニティカレッジ、妹はワシントン大学に留学していました。留学後、アルカスコーポレーションに入社します。
アッティ
代議士秘書から、そのまま今の会社に入られたわけなんですか?
岩崎弥一さん
そのあとね、少しあるんですよ。
当時うちの6つ離れてる弟、今は一緒に同じ会社で仕事してるんですけど。アメリカのシアトルの横にですね、ベルビューっていう街があって。そこに留学してたんですね。
アッティ
弟さんがですか?
岩崎弥一さん
そうです、「ベルビューコミュニティカレッジ」という、なかなか洒落た学校だったんですけど、そこに留学してて。
僕の2つ下に妹もいたんですけど、妹も実はシアトル、ベルビューに留学した経験があって。彼女は、いわゆるワシントン大学の方。
アッティ
なるほど、州立の方ですね。
岩崎弥一さん
州立じゃなくて、ワシントン大学のUW (University of Washington) の方。
アッティ
UWですね。
岩崎弥一さん
今のドイツ人の旦那とそこで出会って、その後結婚するんですけど。
アッティ
そうなんですね。
岩崎弥一さん
僕がベルビューにいたときは、妹はもう帰ってきてて、弟がいて。
アッティ
うん。
岩崎弥一さん
弟が、ベルビューコミュニティカレッジに行ってる。「長男だけ海外経験がないっていうのはまずいだろう」みたいな。
アッティ
岩崎家としては。
岩崎弥一さん
うちの父親の、ある意味愛情ですよね。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
だから「代議士秘書もある程度やったし、そろそろ辞めて、ちょっとアメリカ行ってこい」と。そういう機会をくれたんですね。
アッティ
普通に大学に入るイメージで行って、何年か、1年? 2年ですか?
岩崎弥一さん
2年ですね。
「大学卒業してこい」っていうわけでもなく、「お前の場合は、もう日本で大学も出てるし」と。
アッティ
「もう日本もだいぶ見たし、今度は海外を見てこい」という感覚ですよね。
岩崎弥一さん
そうなんです。
アッティ
いい経験ですね。
岩崎弥一さん
こんなこと、なかなかできないですよ。これは本当に、父親には感謝ですね。
アッティ
なるほど、わかりました。ありがとうございます。
まだ会社に入られてない段階の話だけで、これだけ盛り上がる。そんな状況でありますが、次回は、いよいよアルカスコーポレーションに入られたことについて、お話をいただきたいと思っております。
苦難を乗り越えた体験談
会社を継ぐ決意
岩崎さんは、大和証券での修行や代議士秘書、アメリカ留学を経て、19歳のときに祖父の遺言で「会社を継ぐのは君だ」と言われ、アルカスコーポレーションを継ぐ決意をしました。
アッティ
前回は「会社に入るまで」ということで、修行時代。大和証券さんにいらっしゃって、そこから代議士の秘書をやられて、そしてアメリカに行かれたということで。
それだけでもすごい状態にあると思うんですが、ここからはアルカスコーポレーションさんに入ってからのことについて、お話をいただきたいなと思っております。
まず会社に入られること自体は、どの段階ぐらいで決意されたものなんですか?
岩崎弥一さん
僕の祖父がね、非常に素晴らしい方で、祖父を尊敬してたんですね。
アッティ
一言、言われたんですか?
その祖父が亡くなる直前、最期に会ったときの帰り際に、もう死を覚悟されてたと思うんですけど「とにかくこの会社を継ぐのは、君だ」と。
岩崎弥一さん
うちの「父親のことを頼む」って言って。
アッティ
それは岩崎さんが何歳ぐらいのとき?
岩崎弥一さん
19ですね。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
それまではですね、やっぱり音楽に興味があったりとかしたんで。
アッティ
そうですよね。
岩崎弥一さん
「音楽関係の仕事に就こうかな」とかも考えてたんですよね。父親にそんな話したらね、もうバーンって「何考えてんだ!」みたいなこと言われましたけど。
でも、「好きなことを仕事にするのもどうかな」って、その頃は思ってたんです。
だから、亡くなる間際の祖父の言葉を聞いて「やるしかないな」と。「会社を継ぐつもりで、これからやろう!」っていうふうに決めました。
アッティ
それまでは、お父さんも、それこそおじいさんも、そういう話をされてきたことってほとんどないんですか?
岩崎弥一さん
ないですね。
アッティ
でもその一言で自分の中にスっと入るってことは、もしかして19年間、何かしらそういう世界の中にいながら感じ取ってたんでしょうね。もしかしたら。
岩崎弥一さん
やっぱり長男として育てられてるっていうこともあって。どこかで、期待感みたいなものを感じ取っていたんでしょうね。
会社の財務状況の悪化
岩崎さんは大和証券時代に自社のデータを調べ、超優良企業だと思ってもどってきましたが、実際には借入金が急増していました。
父親が上場を目指して無理な事業展開を行い、短期間で財務状況が悪化したことに驚いたそうです。
アッティ
会社に入ってみてどうでしたか? ずっといろんな経験されてきて、実際ね、それこそ。
岩崎弥一さん
僕は、先ほども言ったように大和証券にいたので。大和証券でうちの会社のデータなんて全部取れるんですよ。
アッティ
なるほどなるほど。
岩崎弥一さん
何点とかね。
アッティ
なるほどなるほど。
岩崎弥一さん
財務状況はどうだとか見たんですよね。その当時は、まだすごく良かったんですよ。すごい超優良企業で。
だからもう自分の中では、うちの会社ってのは売り上げも当時で75億ぐらいで。
アッティ
すごいですね。
岩崎弥一さん
もうすごい高得点なわけですよ。借入金もあんまりなかったんですね、当時。
「いやぁ、すごい良い会社だな」と思って。そんなイメージがあったんで、それで戻ってきたんですよ。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
父親たちも悪いこと一切言わないので。
だけど帰ってきて驚いたのは、借入金がすごいことになっていて。
アッティ
その、じゃあ数年間でそう変わったんですか?
岩崎弥一さん
そうなんです。数年間ですよ。
アッティ
その数年間、何があったんですか?
岩崎弥一さん
結局、やはり、ここだけの話ですけど…
アッティ
省いてもらってもいいですよ (笑)
岩崎弥一さん
いや、省かなくてもいいんですけど。
アッティ
大丈夫ですか?
岩崎弥一さん
うちの父親、上場を目指したんですよ。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
だからもっと、売上も利益の水準も高めて、やはり「東証に上場しよう」ぐらいの感覚だったと思うんですけどね。
自分を証券会社に行かせたのも、そういう思惑があったんじゃないかなと今は思います。
アッティ
なるほど。身の丈以上のことを作り上げていかないと、上場は難しい。
岩崎弥一さん
だから、短期に売上と利益の水準を上げる、そういう事業を手がけようということで、いろいろ無理したんですね。
危機を乗り越えた話
岩崎さんは、社長就任後、経営知識を身につけ財務改善に努め、削減と社員教育の強化を並行して実施。
バブル崩壊やリーマン・ショックなどの困難にも、取引金融機関の協力を得て乗り越え、社員の一体感と共通言語を育むことで危機を克服しました。
アッティ
会社の財政が悪化した状況で会社に入られて、そこからはどういうふうに取り組まれたものですか?
岩崎弥一さん
いやもうね、今まで大和証券で営業マンやって、代議士秘書やって、大学では一応経済学部経済学科だったので、経済のことは多少は学びましたけど。
経営については全くのド素人なもんですから、もうまずは、自分を経営者にしなきゃいかんと思いまして。
アッティ
なるほどなるほど。
岩崎弥一さん
もうとにかく片っ端からですね、経営に関する本とかビジネスに関する本とか、山のように読み漁りまして。
アッティ
なるほどなるほど。
岩崎弥一さん
まずは知識、そのあとはコンサルタントとのお付き合いを始めたりとか、セミナーへ行ったりとかですね。もうあらゆることをやりましたね。
ただし、会社の財務内容はものすごく悪かったので、削るものはどんどん削らなきゃいかんしね、遊休資産は売らなきゃいかんし。極端な話、リストラ的なものは結構やらせていただいてたんですけども。
その一方でですね、社員教育だけは削らないようにしようと。
アッティ
削らないようにしようと。
岩崎弥一さん
むしろ増やすぐらいの。
アッティ
未来のためには、ということですよね?
岩崎弥一さん
そういう戦略だったんです。
アッティ
時期的なこともあったんですかね? バブル崩壊とかそういった時期ですよね?
岩崎弥一さん
ちょうどそうなんですよね。自分が社長になったのが平成9年の3月なんですけど、その頃から、いわゆるバブルの崩壊がありました。
アッティ
そうですよね。
岩崎弥一さん
ずっとその後ね、いわゆる失われた30年とかに入っていくわけです。
その途中には、姉歯 (あねは) の耐震の偽装問題もありましたし、リーマン・ショック、東日本大震災みたいなのがポンポンポンポンきて、その都度大変な思いをしたんです。
ただし、常に財務体質を良くしようということで取り組んできたので、何とか潰れることなく乗り切ることができたと思っています。
取引金融機関とかね、そういう方々のご理解、ご協力がなかったらどうなったかわからないな、って思ってますけど。
アッティ
やっぱり苦しいときにも、いわゆる教育に関しては、ある意味伸ばしてったという話ですけど、やっぱそれは活きてきてるものなんですか?
岩崎弥一さん
活きましたね。外部の研修機関に幹部から社員、延べ人数ですから重なってる人たちもいるんですけど、190人以上を研修に送ったりとかね。
そこで生まれたのが、一体感と共通言語ですかね。
アッティ
共通の考え方、言語、そこらへんですよね。
岩崎弥一さん
それが大きかったなと。で、みんなで一枚岩になって危機を乗り越えることができたと思ってます。
アッティ
なるほどなるほど。
土地活用を柱にして大成功
岩崎さんは、社長就任後、競争入札の弱点を克服するため、土地活用に注力し賃貸マンションや高齢者向け住宅、有料老人ホームで成功。
障がい者向けグループホームや就労支援事業を展開し、県外企業へのコンサルティングも行っています。
アッティ
一番最初にお話を聞いたんですが、ワンストップで事業をずっと進められていて、いろんな事業に広がりがあるって話があったんですけど、岩崎さんが社長になられてより強化された。
例えば、福祉事業とかいろんなこともされてると思うんですが、どういったことをやられてこられましたか?
岩崎弥一さん
自分がまず最初に取り組んだのは、多角化というよりはですね、建設業って基本的に競争入札、もしくは見積もり合わせみたいな、「自分のところで価格決定権がない」っていうのが弱点だと思っていて。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
できれば自分たちが提案して取れるような商品サービスを持とうということで、土地活用っていうのをひとつの柱に掲げて。
賃貸マンションの提案とか、その後はサービス付き高齢者向け住宅とか、あとは住宅型有料老人ホームの提案とかね。
そういうのを柱に据えて、その2つでかなり大成功しまして。財務体質の改善にも、そのへんの利益が大きく寄与したっていうのがあって。
だけど、そうやって高齢者の施設などをたくさん作らせていただいて、実績は十分だったんですけど「これからもっと足りないものは何か」っていったときに、障がい者の方々の、いわゆるお住まいと安心して働けるような環境、働き口、そういうものが足りないっていうことに気づきまして。
そうした経緯で、障がい者グループホームの事業展開を始めております。
アッティ
なるほどなるほど。高齢者から入って、障がい者の方までいって、ということで。
グループホームということは、「住むだけじゃなく、仕事するところも全部面倒見ていく」みたいなイメージなんですか?
岩崎弥一さん
グループホーム自体はお住まいなんですけど、いわゆる継続就労支援事業所みたいな、A、Bとかってあるんですよね。
アッティ
そうですね、ありますね。
岩崎弥一さん
そのA、Bの2つを今、自社でやっていまして。グループホームにお住まいの方々にそちらへ働きに行っていただいて、みたいなスタイルでね。
今、うちの会社でノウハウを蓄積したものを、いろいろと県外の企業さんにもコンサルしたりとか、そういうことも始めておりまして。
多角的な視点と経験の重要性
岩崎さんは、永田町での経験やアメリカでの生活を通じて、日本の内外から物事を見る視点を得たことが、新しい事業を創出する上で大いに活きていると考えています。
これまでの多様な経験が、岩崎さんの最大の武器です。
アッティ
何となくの感覚なんですけど、たぶん今の高齢者もそうですし、障がい者もそうですけど、今の時代を表してるじゃないですか?
その時代を知らないと、実は新しい事業を作ることってできないと思うんですが、もしかしたら会社に入られる前の多くの経験とかが、ものすごい活きてるんですかね?
岩崎弥一さん
やっぱり活きてるでしょうね。
特に大きいのは、「THE 日本」っていわれてるぐらいの永田町にいた経験ですよ。
アッティ
そうですよね。
岩崎弥一さん
日本の中身を、裏表見てきたわけですよね。で、アメリカに行ったじゃないですか? 全く違うところで日本を見たというのと、全く違う文化を見られたっていうこと。
その2つのスタンダードみたいなものを見たっていうのが大きいですね。だから、そこから物事を見る視野というか。
アッティ
そこですよね。やっぱり視点の違いですよね。こういう経験されてる方って、まずいらっしゃらないですからね。
岩崎弥一さん
それが大きかったですね。
アッティ
最大の武器ですよね、そういう意味では。
それでは今回は以上とさせていただいて、次回は、ふるさと富山のことについて聞いていきたいと思います。
富山への想い&オススメ店&リクエスト曲
ふるさと富山について
富山は岩崎さんにとって重要な場所であり、自然、美食、清潔さ、住みやすさなど、多くの魅力を強く感じています。
アッティ
4回目になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。
岩崎弥一さん
よろしくお願いいたします。
アッティ
岩崎さんは小学校1年まで富山県にいらっしゃって、30歳で戻ってこられたんですかね?
岩崎弥一さん
そうですね、31ですかね。
アッティ
そこから長きにわたって富山にいらっしゃいますが、このふるさと富山についての思いを少しお聞かせいただけますか?
岩崎弥一さん
富山は、非常に良いところがたくさんあると思っていまして。
自分をここまで育ててきてくれた、その一番基礎みたいなものは全てね、富山県が与えてくれたと思ってます。
東京で育ったり、アメリカへ行ったりと離れてることが多かっただけに、余計ね、富山のいいところを、今、感じております。
アッティ
ちなみに、富山のいいところはどんなところですか?
岩崎弥一さん
食は素晴らしいし、自然はもちろんいいですし、東京とかと違って、満員電車とか、そういうのもないですし。
アッティ
そうですね。
岩崎弥一さん
ゴミもね、あんまり落ちてないし。そういう意味ではね、非常に綺麗な。水もいいですしね。
アッティ
そうですね。
岩崎弥一さん
すごく暮らしやすい!
アッティ
そう思いますよね、おっしゃるとおり。
富山県内で大好きな飲食店
アッティ
お気に入りの飲食店も、お聞かせいただきたいのですが。
岩崎弥一さん
今、南砺市商工会の副会長をやってるので「南砺市の飲食店を応援したい」っていう気持ちがめちゃくちゃあるんですよね。
地元は福野で、福野にも美味しくていい店がたくさんあるんです。その中でも来客があったら必ず連れて行く店っていうのがあって。
それが、喜ぶに久しいで「喜久 (きく)」っていうお店。
アッティ
喜久ってお店ですか。
岩崎弥一さん
日本料理のお店ですけどね。ここはやっぱり外せないかなって。
アッティ
特に何が美味しいですか?
岩崎弥一さん
いやもう当然、海鮮ものなんですけど、必ず食べるのは鯖の押し寿司みたいな料理ですね。
アッティ
いいですね。
岩崎弥一さん
シメサバですね。シメてあるのかもしれないけど、ほとんど生に近い感じ。これは絶品ですね。
アッティ
聞くだけで美味しそうですね!
リクエスト曲
アッティ
岩崎さんのリクエスト曲をお聞かせいただけますか? 歌っていただいても結構なんですけど (笑)
岩崎弥一さん
歌はカラオケぐらいにして。私ね、イメージ的には、南砺市あたりでは「岩崎弥一といえば矢沢永吉」っていう感じなんですけど。
あえて今回はですね、藤井風さんの「きらり」という曲をリクエストしたいなと。
アッティ
これはどういった理由でですか?
岩崎弥一さん
実は先日、まだちょっと誕生日には早いんですけど、僕の中学時代の同級生、幼なじみといってもいいんですけど、仮にね、「Sくん」としておきます。
Sくんがですね、この藤井風の曲を自分なりにアレンジしたCDを作ってですね。
アッティ
CDを作られたんですか?
岩崎弥一さん
はい、送ってきてくれまして。
アッティ
へぇー。
岩崎弥一さん
それを聞いて「いや、すごい良いな」と。才能があるのは聞いてはいたんですけど、曲が抜群にいいなと思って。
しかも、お互いに還暦を迎える歳なわけですけれども。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
「少し早いけど、還暦祝いだ」っていうことで、送ってきてくれたのがなんか嬉しくてね。
アッティ
なるほどなるほど、それを思い出しながら。
岩崎さんのリクエスト曲で、藤井風さんの「きらり」。
これからの夢や目標について
岩崎弥一さんの一番関心ごとは、障害者や高齢者支援などの社会課題解決に「会社としてどう取り組んでいくか」ということ。
今後も課題解決に貢献しつつ、想いも後継者へバトンタッチしていきたいと考えています。
アッティ
最後の最後になりますが、岩崎さんのこれからの夢や目標について、お聞かせいただけますでしょうか?
岩崎弥一さん
ここまで生きてきますと、ひとつの終着点として「会社のひとつの完成形みたいなものを目指したい」みたいのがあって。
今は富山県もそうですし、日本全体もそうなんですけど、すごくいろんな課題を抱えてるじゃないですか?
アッティ
そうですよね。
岩崎弥一さん
その課題解決をするのが、我々経営者の使命。そのためのツールが会社じゃないか、っていうふうに思ってて。
アッティ
なるほど。
岩崎弥一さん
障害者とか、高齢者の事業に立ち向かったのも、そういう強い想いがあったからでして。
今後もまた、いろいろな課題が形を変えて出てくるでしょう。それに、わが社として「どういう形で貢献していけるか」っていうことが一番の関心事であり、今後も追い求めていきたいことですね。
ただし自分は歳も重ねてきてるので、しっかりと自分のこの想いを後継者にバトンタッチしていきたいなと。
後継者には、いろんな成長のステージみたいなものを与えていけたらいいかなと思っていますね。
アッティ
なるほど。ありがとうございます。
まさに「経営は国作り」ということで、国に、まちに、課題があればあるほど岩崎さんの活動は増えますね。
まだまだお若いのでね、どんどんこの国のために、そして富山県のために頑張っていただきたいなと思っております。
今月のゲストは、アルカスコーポレーション株式会社 代表取締役 岩崎弥一さんでした。どうも1ヶ月間ありがとうございました。
岩崎弥一さん
どうもありがとうございました。
アッティ
この番組のこれまでの放送は、ポッドキャストで聞くことができます。FMとやまのホームページにアクセスをしてみてください。
お風呂の中でのぼせてまいりましたので、そろそろあがらせていただきます。アッティでした。