
こんにちは、アッティです。
「アッティの熱湯とやま人」は、富山のために熱い気持ちを持って頑張る人の本音に迫る番組!
今回のゲストは、富山市長の藤井 裕久 (ふじい ひろひさ) さんです。※2025年5月ラジオ収録
一期一会の精神で市民と向き合い、「やればできる」をモットーに富山市政をリードする、大活躍の藤井市長に熱く迫っていきます!
この記事は、FMとやま 金曜17:15~17:25放送のラジオ「アッティの熱湯とやま人」の編集前データを、ほぼノーカットでまとめたものです。
放送では流れなかった裏話も含め、お楽しみください。
地域と自然が育んだ原点

自然と共に育った幼少期
藤井裕久さんは、富山の農村地帯で祖父母や両親、兄弟とともに大家族の中で育ち、地域全体が家族のような環境で過ごしていました。
幼少期は活発で、学校から帰るとランドセルを放り投げて外に飛び出し、田んぼや山で魚を捕ったりカブトムシを探したりと、自然の中で友達と元気に遊ぶ毎日。勉強よりも外遊びが好きな少年でした。
アッティ
藤井さん、よろしくお願いいたします。
藤井裕久さん
はい、こちらこそよろしくお願いします。
アッティ
ちなみに、呼び方なんですけど「藤井さん」でよろしいでしょうか?
藤井裕久さん
はい、大丈夫です。「アッティさん」でいいですか?
アッティ
「さん」なしでも大丈夫です。よろしくお願いします。
藤井裕久さん
よろしくお願いします。
アッティ
ちょうど2期目に入られたところということで、1期目もきっとあっという間だったかと思います。そういったお話も、今回じっくり伺っていきたいと思っています。
まずは、藤井さんの幼少期についてお聞かせください。どんなご家庭で育ち、どんなお子さんだったんでしょうか?
藤井裕久さん
私の家は大家族で、祖父母、両親、私が長男で、4人兄弟です。
生まれ育ったのは農村地帯で、「向こう三軒両隣」本当に近所とも仲が良くて、子ども同士もまるで兄弟のように育ちました。
もらい湯をしたり、どこの家でも勝手に上がり込んで昼寝したり、そんな感じでしたね。
アッティ
家の鍵をかけることなんて、なかったですよね。
藤井裕久さん
そうそう。今思えば不用心ですけど、当時はそんなものですよ。
地域全体が家族みたいな感じで、その中で育った経験って、今の自分の生き方にもすごく影響してると思います。
富山市、富山県って、やっぱり地域の繋がりが強いところですから、そういうものをこれからも大事にしていきたいですね。
アッティ
当時は、どんなお子さんだったんですか?
藤井裕久さん
いやぁ、ほんと活発でしたよ。
田んぼの中を走り回ったり、魚を捕ったり、カブトムシを捕まえたり。すぐ近くに里山があって、友達と一日中、山の中で遊んでたりね。
アッティ
いつも真っ黒になって?
藤井裕久さん
そんな感じですね。学校から帰ってきたらランドセルを玄関に放り投げて、そのまま外に飛び出していく、そんな毎日でしたね。
アッティ
勉強はあまりされなかったんですか?
藤井裕久さん
あまり大きな声では言えませんけど、あんまりしなかった方だと思います (笑)
アッティ
なるほど。体を動かす方が好きだったんですね。
藤井裕久さん
そうですね、完全にそっちタイプでしたね。
恩師との出会いと高校野球
藤井裕久さんは、中学時代に野球部の監督だった「ひまた先生」との出会いに強く影響を受けました。
高校は富山東高校で野球を続け、怪我を乗り越えて3年間プレー。高校時代の仲間とは今でも深い交流があり、仕事の相談もできる大切な存在になっています。
アッティ
少し飛びますが、中学・高校時代はどんな風に過ごされていましたか?
藤井裕久さん
中学は地元の中学校に通っていて、「ひまた先生」という野球部の監督でもある先生がいらっしゃったんですけど、その先生からはすごく大きな影響を受けました。
もうお亡くなりになりましたが、生徒一人ひとりと真剣に向き合ってくださる方で、悩んでいるときは寄り添ってくれて、悪いことをすれば本気で叱ってくれる、そういう人でした。
アッティ
中学の先生ですか?
藤井裕久さん
そうですね。それでいて、野球部の監督でもありました。
お酒好きで、いつも酒臭くて。でも人間味があっていいですよね。
アッティ
生徒の前でも酒臭いんですか?
藤井裕久さん
そうですね。そんな先生でしたけど、生徒から本当に愛されてました。私も大好きでしたし、その先生との出会いは人生の中で大きなものだったと思います。
それから、高校は富山東高校に進学して、大好きだった野球を続けました。
ここでも友達やチームメイト、クラスメイトとのたくさんの出会いがあって、高校時代に築いた仲間とのつながりは、今でも続いています。
みんなもう60歳前後になって社会でも活躍していて、仕事の相談なんかもできる良い関係が続いてるんですよ。
それと、高校時代に野球で大きな怪我をしたんですけど、それを乗り越えて、結局3年間野球を続けることができました。
戦績はそれほどでもなかったですけど、自分にとっては3年間やりきったことが大きな経験になったと思っています。
野球と共にある日課
藤井裕久さんが野球を始めたのは、小学校3~4年生の頃。以来、野球は常に身近な存在で、今も観戦を楽しみつつ、市長室では日課として1日30回の素振りを続けています。
そのうち3回は全力で振る「満振り」で、大谷翔平選手になりきって実施。体力や集中力の維持にも役立っています。
アッティ
野球はいつ頃から始められたんですか?
藤井裕久さん
野球は、今でいう少年野球、昔でいう「学童野球」ですね。
始めたのは小学校の3年生か4年生の頃だったと思います。監督は近所の郵便局の局長さんでしたね。そんな思い出もたくさんあります。
野球はずっと自分のそばにあって、今でも好きですね。最近はもっぱら「観る専門」ですが。
アッティ
市長室でもバットを振られてるって噂で聞いたんですが。素振りですか?
藤井裕久さん
そうなんですよ (笑) 30回を目標に。
アッティ
毎日30回?
藤井裕久さん
はい、30回素振りをするのが日課で、今日も、もちろん朝から振ってきましたよ。
アッティ
なるほど。ちょうど選挙のときの動画も拝見しましたけど、あのときもすごい音がしてましたね。
藤井裕久さん
ポイントはね、最初はゆっくり振って、30回のうち3回だけ、全力で思いっきり振るんです。
いわゆる「満振り」。これがポイントなんですよね。
アッティ
30回のうち3回。
藤井裕久さん
大谷翔平になりきって。
アッティ
なるほど (笑)
藤井裕久さん
体力や集中力、気持ちの切り替えにもすごくいい影響があると思ってます。
アッティ
毎日続けている日課があるって、すごくいいですね!
建築を志し上京した大学時代
藤井裕久さんは、建設関連の家業や親戚の影響を受けて、理系科目が得意だったこともあり、自然と建築の道へ進みました。
工学院大学の建築学科に進学し、大学では友人に恵まれながらもバイト中心の生活に。野球は少しだけ続けつつ、空手にも取り組むなど、体を動かすことを大切にしていました。
アッティ
大学進学で東京に出られたんですね?
藤井裕久さん
はい。家業で土石や骨材の運搬などを行う運送業を営んでいたんですが、親戚にも建設会社をやっている者がおりまして。
そういう環境もあって、「土木か建築の道に進むんだろうな」という空気が自然とありました。
自分自身も理科系科目が好きで、特に物理とか数学には興味があったので、進路としても自然に建設系を選ぶことになったんです。
アッティ
当時から、「いずれは会社を継ごう」という気持ちはあったんですか?
藤井裕久さん
「将来的には建設業をやりたいな」って思いは、その当時から持っていました。
アッティ
それで工学部へ?
藤井裕久さん
そうです。工学院大学の工学部、建築学科に進学しました。
アッティ
大学生活はどうでしたか?
藤井裕久さん
いい友達もたくさんできましたけど、アルバイトに力を入れすぎてしまい、勉強は二の次になっていましたね (笑)
アッティ
大学では、野球はあまりされてなかったんですか?
藤井裕久さん
クラブチームで軟式野球を少しやってましたけど、本格的にはやってなかったですね。
その代わり、空手をちょっとだけやってました。3年ぐらいですかね。
アッティ
大学の中でですか?
藤井裕久さん
大学内ではなくて、外の道場に通ってましたね。友達に勧められて。
アッティ
やっぱり体を動かすのが好きなんですね。
藤井裕久さん
そうですね。
建築学から得た思考と感性
藤井裕久さんは、卒業論文での調査・分析・論理的思考を通じて培った力を、現在の仕事や判断の基盤として活用。
建築学科での学びによって美しいものへの感性が養われ、その経験が今の価値観を支える一因となっています。
アッティ
東京での学生時代に培われた価値感は、現在のご自身に繋がっていると感じますか?
藤井裕久さん
私は理系でしたので、たとえば卒業論文では「健康増進センターにおける建築計画的研究」というテーマに取り組んだんです。
実際の施設を調査して、データを収集し、それを分析しながら論理的にまとめて、人に伝えるという流れで。
グラフや表、数値データも多く扱いましたから、一つの事象をきちんと順序立てて整理し、理論立てて説明していく。そういった科学的・論理的な思考の訓練は、今思うと本当に役に立っていると感じますね。
アッティ
そういう力って、仕事だけでなく、人としての活動にも活きている気がしますよね。
藤井裕久さん
そうですね。
加えて、建築学科という環境だったので、当時は磯崎新さんや丹下健三さんといった有名建築家の存在に触れる機会もありました。
建築物を見る目、美しいものに惹かれる感覚、良いものを見たいと思う気持ち。そういう感性も、学生時代に少しずつ磨かれていったのかなと思っています。
アッティ
なるほど。ありがとうございます。お話をうかがっていると、本当にあっという間に時間が過ぎますね。
今回は、藤井さんの幼少期から大学時代までについてお話しいただきました。次回は、いよいよ社会人としてのスタートと、その後の歩みについてお聞きしたいと思います。
覚悟の継承と広がる社会的責任

予定外の帰郷、家業を継ぐ決断
父の大ケガを機に、家業である「藤井産業」を継ぐことを決断。
将来的に継ぐ意志はありましたが、覚悟を決めて富山に戻りました。
アッティ
前回は、幼少期から大学時代までのお話を伺いました。
今回は、大学卒業後について教えてください。卒業してからはどうされたんですか?
藤井裕久さん
実はですね、卒業を迎える少し前に父が大きなケガをしまして。
それまでは皆さんと同じように、大学を出たら東京で普通に就職して、いずれ富山に戻ってこようかなと考えていたんです。
将来的には家業に入るつもりもあったんですが、思ったよりも早くそのタイミングが来てしまって。結局、父のケガをきっかけに、家業である「藤井産業」を継ぐことにしました。
アッティ
元々そこを継ぐつもりはあったんですか?
藤井裕久さん
将来的には…という思いはありましたが、まさかこんなに早く戻ることになるとは思っていませんでした。
でも「それはそれでいいかな」と思って、覚悟を決めて富山に戻りました。
アッティ
実際に戻ってみてどうでしたか?
藤井裕久さん
やっぱり大変でしたね。
自分の父親が経営する会社に入って、そこで仕事をするっていうのは、なかなか簡単なことではなかったです。
藤井産業で培った経営者の土台
藤井裕久さんは、藤井産業で骨材の製造や運搬、造成工事に携わり、現場での実務を学ぶ中で多くを経験。
若くして経営にも関わる立場となり、厳しくも温かい両親の支えに感謝しています。
アッティ
藤井産業さんでは、具体的にどんな事業をされていたんですか?
藤井裕久さん
いわゆる「骨材」と呼ばれる、砂利や砂、生コンの材料などを作って運ぶ仕事が中心でしたね。
運送業もやってましたし、造成工事、いわゆる盛り土や切土といった土木系の工事も請け負っていました。
とにかく土砂や土石を扱うことがメインの会社だったんですけど、当時の自分には全く未知の世界で。まずは大型トラックの免許を取ったり、重機の免許を取ったりするところから始めました。
現場ではベテランのオペレーターさんに教わりながら、大きな機械を動かしたり、骨材を作るプラントのオペレーションや修理したりもしていました。
現場で社員の皆さんと一緒に汗をかいた5~6年というのは、自分にとって本当に大切な経験だったと思っています。
アッティ
お父様が怪我をされたことで、現場で下積みをしながらも、早くから経営にも関わる立場だったんですよね?
藤井裕久さん
そうですね。ただ当時はまだ25歳前後で、正直まだ遊びたい年頃でしたから、自分の中でも中途半端な部分はあったと思います。
でも父はその後すぐ回復して、母も含めて元気でしたから、ある意味では厳しく、でも一方では甘やかしてくれた部分もあったのかなと。
今振り返れば、そうした両親の支えには本当に感謝していますね。
民間経験が支える市政運営
藤井裕久さんは、融資交渉や資金繰り、ケーブルテレビ会社の経営など民間での多様な経験を積み、現在の市政運営にも活用。実務を通じて学んだことが、今の糧になっています。
アッティ
現在は市長を務めていらっしゃいますが、民間でのご経験は、今のお仕事にも活きているものですか?
藤井裕久さん
やっぱり活きてますね。仕入れや製造管理、売掛金の管理、集金、それから資金繰りなんかも含めて、いろんな経験をしてきましたから。
特に印象に残っているのは、社長になって初めて銀行に融資のお願いに行ったときのことです。
30代半ばくらいだったと思いますが、設備投資をしたくて融資を頼みに行ったんですね。そしたら「保証人が必要です」と言われて、家族では駄目だということで、叔父にお願いして保証人になってもらいました。
「ああ、お金ってこうやって借りるんだな」と、そのとき初めて実感しましたね。
それから、もうひとつ面白かった経験としては、「上婦負 (かみねい) ケーブルテレビ」という小さなケーブルテレビ会社の社長を務めたこともあります。
公共性の高い業務で、電波ではなくケーブルではあるんですが、地域にとってはまさに公共放送の役割を担っていて。経営は苦労しましたけど、非常に勉強になりました。
アッティ
そういう意味でも、民間のことをわかってくれる方が市政に携わってくださっているのは、本当にありがたいですね。
藤井裕久さん
そういうふうに言っていただけると嬉しいですね。ありがたいです。
まちづくりは人づくり
藤井裕久さんは30歳頃から青年会議所に参加し、多様な経営者と交流しながら人間性や社会的責任を学びました。
まちづくり=人づくりという理念に触れた経験が、政治家としての原点にもなっています。
アッティ
経営者として下積みを重ねながらも、30代中盤からは本格的に経営に取り組まれていましたが、それと並行して青年会議所での活動もされていましたよね?
藤井裕久さん
そうですね。青年会議所に入ったのは29歳か30歳になる頃でしたが、人生にとって非常に大きな影響を受けました。
さまざまな業種の経営者の方々と出会えましたし、卒業された先輩方にも立派な経営者がたくさんいて、学ぶことが多かったです。
人間としてのあり方、社会のルールや掟のようなものを学ぶ機会でもありましたし、「自分の会社が社会の中でどういう役割を果たすべきか」という視点も得ることができました。
政治家を志すきっかけになったのも、この青年会議所の経験があったからだと思っています。
アッティ
まちづくりを担う団体として、そうした想いに繋がっていったんですね?
藤井裕久さん
その通りです。青年会議所は「まちづくり」や「人づくり」を一生懸命やっている団体で。やっぱり「まちをつくる」というのは、そこに暮らす「人」の責任だと思うんです。
最終的には「まちをつくる」ということは「人をつくる」ということなんですよね。「そこに住む人がまちを育てていく」、その好循環をどう生み出していくか。
そうした考え方を青年会議所で学び、それを実際に活かす場として、企業人としての仕事、そして政治家としての活動に繋がっているんだと思います。
PTAと経済同友会での経験
藤井裕久さんは、PTAや経済同友会での教育活動を通じて、地域全体で子どもを育てる重要性を実感。
「子どもまんなか社会」の実現という市政の柱にも、それらの経験が活きています。
アッティ
経営や青年会議所の活動をされながら、市長として子どもの教育に関わる話題も多く取り組まれていますよね。
それは、PTA活動の経験が影響しているのでしょうか?
藤井裕久さん
そうですね。私自身、子どもが4人いまして、小学校・中学校・高校・大学と、それぞれのPTAや父母会に関わってきました。
やはり、子どもを育てる上で教育現場は非常に大切です。そこに関わる先生や地域の方々と一緒に、教育環境を整えていくという意識はとても重要だと感じています。
最近では子どもの数も減ってきていますし、核家族化も進んでいます。だからこそ、社会全体、いろいろな立場の大人たちが学校や教育に関わっていくことが、これからますます大事になってくる。
それは、まさにPTAの活動を通じて学んだことですね。
アッティ
PTAだけでなく、経済同友会でも教育に関わる取り組みをされていますよね?
藤井裕久さん
はい、経済同友会では教育問題委員会の委員長も務めています。
アッティ
今の政策の柱の一つでもある「子どもまんなか社会の実現」ともしっかり繋がっていますよね。
藤井裕久さん
本当にその通りだと思います。社会全体で子どもを育てる、というのが「子どもまんなか社会」の考え方ですから。
PTAや経済同友会での活動は、その理念を支える大きなバックグラウンドになっています。
地域を支える経営者の力
藤井裕久さんは、経営に加えてPTAや各種団体活動にも積極的に関わり、社会的責任を果たすことの重要性を強調。
社会全体のために頑張る経営者がたくさんいることが、富山市の地域力を支えていると感じています。
アッティ
経営者って経営に集中するイメージが強いのですが、藤井さんは、まちづくりの団体やPTAの活動など、幅広く関わってこられていますよね。
こういった活動と経営との関係性って、どういうものなんでしょうか?
藤井裕久さん
まず、経営に関わる人たちって、本当に日々の業務だけでも十分大変なんですよ。
そして、そういう立場の人間って、一般の方よりも何かを決めたり、責任を取ったりする場面が多い。だからこそ、社会的な使命として、社会全体への奉仕も大事だと思うんです。
そういう場が、たとえば経済同友会であったり、青年会議所、あるいはロータリークラブやライオンズクラブといった団体ですね。
私自身、経営者の方々がそういう場所でも一生懸命に汗をかいている姿をたくさん見てきました。
もちろん、会社としても社会貢献しているんですけど、こうした公的な団体にも参加することで、さらに貢献の場を広げようと努力されている方が本当に多いんですよ。
アッティ
経営者の皆さん、本当に多忙ですよね。
藤井裕久さん
そうなんですよ。でも、そういう方々がたくさんいる富山県、そして富山市というのは、本当に素晴らしい地域だと思います。
アッティ
それが富山市の「底力」なのかもしれませんね。
藤井裕久さん
そうかもしれないですね。
アッティ
ありがとうございました。今回の第2回では、社会人としてのスタート、そして経営者、青年会議所、PTAと、さまざまな立場での活動について伺いました。
次回はいよいよ、市長としての歩みや、政治の道についてお話を伺いたいと思います。
政治家の背中を追いかけて

県議だった伯父の影響
藤井裕久市長は、青年会議所での活動や伯父の政治活動を手伝った経験から、政治の道を志すようになりました。
ただ、経営との両立は難しく、県議に専念するため経営の第一線を引退。政策立案に必要な知識習得のため、日々勉強を重ねました。
アッティ
前回は、社会人としてのデビューのお話、そして経営者としての歩み、さらには青年会議所やPTAなど、地域活動にも広く関わってこられたことについて伺いました。
今回は、いよいよ経営者から政治家へと転身される、そのきっかけについてお話をうかがいたいと思います。
まず、どういった経緯で政治の道を志すようになったんでしょうか?
藤井裕久さん
ベースにあったのは、やはり青年会議所の活動ですね。
そしてもう一つ大きかったのが、私が30代の頃に最も影響を受けた人物の一人なんですけど、県会議員をしておられた母の兄、つまり私の伯父の存在です。
伯父の政治活動や後援会活動を、私はいつもそばで手伝っていました。
アッティ
手伝ってらっしゃったんですね。 なるほど。
藤井裕久さん
はい。その傍らで政治家というものを見ていたので、国会議員の方とお会いするような場もありましたし、当時は町村合併の前でしたので、町議会議員の活動を手伝ったりしていました。
政治が非常に身近にある中で、地域の要望や困りごとを政治で解決していく場面もたくさん見てきました。
「地域の困り事や人の困りごとは、政治で解決できるんだ」ということを、まさに目の当たりにしてきたので、そういう意味では、政治を志すというのはごく自然な流れだったのかもしれないですね。
アッティ
経営者としてのお仕事と両立しようとすると、かなり難しそうなイメージがありますけど…
藤井裕久さん
そうですね。
アッティ
やはり途中でしっかり整理されて、「政治家としてやっていく」と決意して動かれた感じですか?
藤井裕久さん
そうですね。最初の頃はちょっと中途半端な時期もありましたけど、やっぱり「二足のわらじ」っていうのは難しいですね。
特に県議会になると、専門性も求められますし、非常に勉強させていただきました。
冗談じゃなく本当に、「小中高のときよりも、政治家になってからのほうがよほど勉強してるんじゃないかな」って思います。
それくらい勉強しないと追いつかないんですよね。県や市の当局は、非常に勉強しているし、ある意味プロフェッショナルで、専門性も高いですから。
そういう人たちと一緒に政策を作ったり、議論したりするには、こちらもちゃんと勉強していないと難しい。
なので、「これはもう議員一本でやらなきゃダメだな」と思って、経営は弟に任せて、私は第一線をしりぞきました。会長という形では残っていましたけど、実質的には議員活動に専念してましたね。
アッティ
政治の世界も、それこそ国政もありますからね。
藤井裕久さん
そうですね。
「命がけ」でのぞむ県議の仕事
藤井裕久市長は、県議会議員だった叔父の影響で政治を志し、県議就任後はその責任の重さから「命がけの仕事」と実感。
富山県議会の高いレベルの中で10年間活動し、最後は政調会長として1,200件に及ぶ政策要望の取りまとめを担うなど、政策全体の舵取りにやりがいを感じました。
アッティ
様々な進路がある中で、あえて県議会議員を目指されたのは、何か理由があったんでしょうか?
藤井裕久さん
やっぱり一番は叔父の影響ですね。
県議会議員をしていたので、その姿を見て「自分もやってみたい」という思いが強くありました。
やはり、その影響が大きかったと思います。
アッティ
きっとおじさんの活動を間近で見て、「県議ってこういう仕事なんだな」というイメージを持たれていたと思うんですが、実際になってみてどうでしたか?
藤井裕久さん
予想以上にしんどかったですね。これはもう「命がけでやらないと失礼だ」と思うような仕事でした。
1票を投じてくれた方の思いを背負って議会に出ているわけですから、「中途半端な気持ちでは絶対にやってはいけない」と、強く感じました。
富山県議会って、本当にレベルが高いんですよ。他と比べてどうこうという話ではなくて、やっていること自体のレベルが高い。
県当局との勉強会も多いですし、議員同士での勉強会もたくさんあります。視察も積極的に行いますし、議員一人ひとりが「良い政策をつくって、良い富山県にしよう」という思いで、本当に命がけで取り組んでいるんです。
そんな中に10年間在籍しましたが、本当に勉強になりましたね。
アッティ
10年間の中で、「これは俺がやった」と胸を張れるようなことはありますか?
藤井裕久さん
そうですね、特に最後の2年間ですね。
3期目の任期は2年で終えて、その後は市長に就任しましたが、その2年間、自民党富山県連の政調会長を務めさせていただきました。
その政調会長の役割というのが、地域や業界団体から上がってくる政策要望、年間でいえば1,200件くらいになるんですけど、それらを取りまとめて、精査して、市・県・国それぞれに要望を出していくという仕事でした。
政策の取りまとめや、全体の舵取りというものを任せてもらえたのは、自分にとって非常に大きかったと感じています。
アッティ
なるほど。
森前市長の背中を見て一大決心
藤井裕久市長は、10年の県議経験を通じて議会側と当局側の関係を理解し、市長職への関心を深めます。
市民の困りごとや政策を自ら提案・実行できる市長という立場に強い責任とやりがいを感じ、一大決心で挑戦に踏み切りました。
アッティ
10年県議を務められ、そこからいよいよ市長になられたわけなんですが、どういった思いで決断されたんですか?
藤井裕久さん
県議を10年やっていると、当局の役割というのがよく見えてくるんですよ。
県でいえば知事部局と県議会、市なら市長部局と市議会。これは、ある意味「車の両輪」のような関係で、協力しながらも緊張感を持ってやり取りしていくものなんですね。
市長部局は、予算をつけて事業を作って、それを議会に提出する。議会はそれを審議して、議決する。
私は議案や予算を審議する「議会側」だったわけですが、今度はそれを「提案する側」になるというのは、やっぱり全然違う立場なんです。
アッティ
全く方向が違いますよね。
藤井裕久さん
ただ、私の前任の森雅志市長の市政を見ていて、市民の困りごとや、今やらなければならない政策、自分のやりたい政策、そういうものを提案し、実行できるのはやっぱり市長なんだと感じました。
アッティ
権限が大きいですよね。
藤井裕久さん
そうなんです。そのぶん責任も大きいですけどね。
でも、市役所には優秀なスタッフがたくさんいて、チームで物事を進めていける。そういう環境を、私は傍で見てきました。
だからこそ、「ぜひ自分もやらせてもらいたい」と思って、一大決心で決めましたね。
アッティ
なかなか簡単にはできないことですよね。
藤井裕久さん
そうですね。大きな挑戦でした。
市民の安心を守る体制づくり
藤井裕久市長の1期目は、パンデミックと災害対応に追われた4年間でした。
危機管理の重要性から「防災危機管理部」を新設。経営者としての経験を市政に活かし、市民の安全安心を守る体制づくりを進めています。
アッティ
実際に市長として現在2期目に入っておられますが、1期4年間を終えてみて、どんな感想をお持ちですか?
藤井裕久さん
最初の2年間は、コロナとの闘いでした。そして令和5年7月には線状降水帯による豪雨災害があり、さらに2024年の1月1日には能登半島地震もありました。
振り返ると、本当にパンデミックや大規模災害への対応に追われた4年間だったと思います。
その中で、「40万人規模の都市には災害や危機管理に特化した専門部署が絶対に必要だ」という強い思いがあり、2年目に「防災危機管理部」という新たな部を新設しました。
アッティ
それまで、そういった部署はなかったんですね。
藤井裕久さん
なかったんですね。それを新設させてもらいました。
この部は自然災害への対応はもちろん、日常的な警察案件、たとえば北朝鮮のミサイル情報、交通安全など、あらゆる危機事象に対応するための部門です。
富山市民の「安全・安心」を守るための中核となる部局であり、私としても特に力を入れて立ち上げました。
現在はこの部を中心に、「市役所全体、約4,000人の職員が、市民に向き合いながら、安全・安心を確保しつつ富山市をつくっていく」、そんな体制づくりを進めているところです。
アッティ
なるほど。お話を伺っていると、経営とも通じる部分があるように感じますね。
藤井裕久さん
そうですね。
アッティ
やっぱり、経営者としての経験が今の市政に活きているような感じがします。
藤井裕久さん
そうですね。危機管理という点では、経営と非常に共通する部分が多いです。
それに、市政もひとつの経営なんですよね。市の幹部とりわけ市長も含めて、経営の中枢がしっかりしていないと、やっぱり組織として破綻するんじゃないかという心配はありますよね。
アッティ
まさに、4,000人の大企業ですね。
藤井裕久さん
本当に、そうですね。
アッティ
大変ですよね。
あっという間に時間がやってまいりました。今回は、県議会議員から市長への歩みについてお話をいただきました。
富山への想い&オススメ店&リクエスト曲

「幸せ日本一とやま」の実現
藤井裕久市長は、2期連続で掲げる「幸せ日本一とやま」の実現に向け、市民の安心・安全の確保と「人づくり」に注力。
液状化被害を含む災害復旧や、子どもたちが郷土を愛し誇れる教育環境の整備を大人の責任として取り組んでいます。
アッティ
前回は、県議から市長になられた経緯について伺いました。
そして現在、市長として2期目を迎えておられます。この2期目に限らず、これから市政をどのように進めていこうとお考えですか?
藤井裕久さん
そうですね。私は1期目・2期目ともに、「幸せ日本一とやま」というキャッチフレーズを掲げて選挙にのぞみました。
この「幸せ日本一とやま」を実現することは、私にとって非常に大切な柱なんです。
そのために何よりも重要なのは、市民の安心・安全をどう守っていくかということ。これは一番の基本だと思っています。
たとえば、能登半島地震では液状化現象が多発しました。そうした地域の復旧・復興にも、しっかり取り組んでいきたいと考えています。
そのうえで大事なのが、「人づくり」です。
「郷土を思い、郷土に根を張り、富山を愛する」そんな青少年や大人を育てていくことは、今を生きる私たち大人の責任だと思っています。
教育や「こどもまんなか」の社会の実現もその一環ですし、学校現場だけでなく、企業、市役所、地域といったすべての関係者、子どもに関わるすべての「大人」が、子どもたちのために最良の選択をしていくことも必要です。
ふるさとを愛する子どもたちを育てていくという「人づくり」が、何よりも大事なことだと思っています。
アッティ
「人づくり」と言うと、これから直面する人口減少の影響もあって、生活そのものが苦しくなる時代が来ると思うんです。
だからこそ、それを乗り越える力になるのが、若い世代への人づくりだと思います。
藤井裕久さん
そうですね。
アッティ
これからの子どもたちへの投資、人づくりの取り組みに、ぜひ力を入れていただきたいなと。
藤井裕久さん
本当にその通りですね。
ふるさと富山について
藤井裕久市長にとって富山は人間形成の原点であり、自然や食、四季の魅力にあふれた誇れるふるさとです。
ニューヨーク・タイムズの「2025年に行くべき場所」に選ばれたことを受け、現地でPR活動を実施。世界に富山の魅力を発信し、訪れる人へのおもてなしに力を注ぎたいと思っています。
アッティ
藤井さんは東京でもご経験を積まれたうえで、現在こうして市政を担っておられます。
そんな藤井さんにとって、「ふるさと富山」への思いとはどんなものか、少しお聞かせいただけますか?
藤井裕久さん
自分にとって、ふるさと富山というのは、いつも温かい場所ですね。
幼少期の思い出、育った環境、周りの人たちとの記憶。そういったものが、今の自分の人間形成のベースになっていると感じています。
改めて富山のことを考えたり、調べたり、分析したりしてみると、まずはこの大自然ですよね。
3,000メートル級の立山連峰から富山湾までが一気に繋がる地形。その間にある富山平野では、本当に美味しい水が湧いていて、お米も野菜も果物も美味しい。山菜も豊富ですし、美味しいものが揃っているからこそ、お酒も旨い。
そして、四季折々の景色がまったく違う。そういうところが本当に魅力的だなと改めて思います。富山って、やっぱりいいところですよ。
だからこそ、ふるさと富山にはぜひ多くの方に訪れていただきたいと思っています。
ちょうどタイミングよく、アメリカのニューヨーク・タイムズが選ぶ「2025年に行くべき52の場所」に富山が選ばれました。
先日、ニューヨークのマンハッタンの現地で直接PRも行ってきたところです。
アッティ
ニュースで見ました。甲冑を着てらっしゃいましたよね?
藤井裕久さん
甲冑姿で「おわら風の盆」を披露しました。
6万人以上が集まる「ジャパンパレード」というイベントだったんですけど、大盛況でしたよ。
アッティ
ディズニーランドのパレードみたいな感じでしたよね。
藤井裕久さん
まさにそんな感じです。フロートという台車に乗って、パレード形式で披露しました。
こうして富山を世界に向けて発信することで、日本国内はもちろん、世界中からもっと多くの人に来ていただきたいですね。
誇れるふるさとですし、訪れてくださった方にはしっかりおもてなしをしたいと思っています。
アッティ
SNSでも、「富山の良さが全国にばれてきたぞ」って、よく話題になってますよね。
藤井裕久さん
そうですね。
アッティ
いよいよ富山の魅力が、全国にもじわじわと伝わり始めてきたな、って。
藤井裕久さん
そう感じますね。ばれてきましたね、本当に。
アッティ
いや〜、いいですね。ほんと、すごいと思います。
これからもどんどん富山を引っ張っていっていただきたいです。
おすすめの飲食店
アッティ
なかなか言いづらいかもしれませんけど、市長のお気に入りの飲食店を、ぜひ教えていただけませんか?
藤井裕久さん
そうですね。
アッティ
選ぶの、難しいですよね。
藤井裕久さん
いくつかあって、本当に絞るのは難しいんですけど…
あえて言うなら、好きなジャンルはラーメン、カレー、そして焼き鳥ですかね。
アッティ
焼き鳥、お好きなんですね。
藤井裕久さん
はい。実は、同級生がやっている焼き鳥屋がありまして。速星にあるんですけど、「焼き鳥●吉」(※伏せ字) ってお店で。
笑顔がすごく素敵な男がやってるんですよ。
アッティ
速星にあるんですね。
藤井裕久さん
そうです。焼き鳥ももちろん美味しいんですが、焼き鳥と一緒に、笑顔をいただきに行っています。
速星に。いや焼き鳥もうまいんですけど、焼き鳥と笑顔をいただきに。
アッティ
どれくらいの頻度で行かれるんですか?
藤井裕久さん
月1回以上は行ってますね。
多いときには、2回行くこともあります。
アッティ
それはもう、ぜひ今度連れていってほしいです!
藤井裕久さん
もちろん、いいですよ。今度撮影も兼ねて!
リクエスト曲
アッティ
藤井さんからリクエスト曲を1曲いただきたいと思います。
藤井裕久さん
やっぱり「THE アメリカ」っていうか…
私、アメリカにはいろいろと思うところもありますけど、やっぱりあのダイナミズムがすごく好きなんですよね。
そんな背景もあり、イーグルスの「Take It Easy」をリクエストしたいと思います。
これは、少年時代からずっと聴いていて、自分の中で「アメリカそのもの」っていう感覚のある曲なんです。
アッティ
やっぱり、アメリカには憧れがあるんですね。
藤井裕久さん
ありますね、あのダイナミズムというか、勢いのある感じがやっぱり魅力です。
アッティ
なるほど、ありがとうございます。
それでは、藤井裕久さんのリクエストで、イーグルス「Take It Easy」をお届けします。
これからの夢や目標について
藤井裕久市長の一番の夢であり目標は、「コンパクト&スマート」な都市政策を実現し、楽しい富山市、豊かな富山市を作ることです。
アッティ
さて、いよいよ番組も最後のパートとなってまいりました。
藤井さん、これからの夢や目標について、お聞かせいただけますか?
藤井裕久さん
本当に富山市は素晴らしいまちだと思っています。
私が今進めている「コンパクト&スマート」な都市政策をしっかりと実現していくこと。そして、将来にわたって市民に責任の持てる、笑顔あふれる、楽しくて豊かな富山市をつくっていくこと。
それが、私の一番の夢であり、目標です。
アッティ
なるほど、ありがとうございます。
本当に、あっという間でしたけれども、全4回にわたって藤井さんにお話をいただきました。
こうして対談させていただくと、藤井市長のお人柄の良さがすごく伝わってきます。でも、そういった魅力って、選挙などでは伝えるのがなかなか難しいんですよね。
藤井裕久さん
そうですね。
アッティ
人柄って、やっぱり時間をかけて少しずつ伝わっていくものだと思いますんでね。それが市民の皆さんにもじわじわと伝わって、政策とともに動いていくといいなと思います。
今月のゲストは、富山市長の藤井裕久さんでした。1ヶ月間、どうもありがとうございました。
藤井裕久さん
ありがとうございました。
アッティ
この番組のこれまでの放送は、ポッドキャストで聞くことができます。FMとやまのホームページにアクセスをしてみてください。
お風呂の中でのぼせてまいりましたので、そろそろあがらせていただきます。アッティでした。
最後に、ひとつご報告があります。
この番組『アッティの熱湯とやま人』ですが、少しお休みをいただこうと思っています。
アッティ自身の「充電期間」として、半年ほどのお休みを予定しています。来年(2026年)にはまた再スタートを目指しますので、どうぞ楽しみにお待ちください。